第2話 夏 Part-1
-第2話 夏-
ー 惰性のお話 ー
ぴちゃん、と水音がした。指の爪の先から、透明な滴が弾ける。一瞬キラッと鋭い光を反射して、それは水たまりに飲まれて消えた。
壁の向こうで、蝉の鳴く声がうるさく聞こえていた。
一週間だけの命を必死に燃やし尽くそうと、絶え間なく響く。
夏の風物詩とも言えるこの鳴き声は苦手だった。暑さを助長して鬱陶しい。
ここは森の中だし、近くに川と泉もあるから街中に比べたら涼しいのかもしれないけれど…
外に出る気にはなれずに、館の中で一番日陰の端の部屋に入った。グラスにただの水を注いで、それと氷をたくさん入れた水さしも持って行く。口に入れるものといえば、いつも水。透明な液体は濁りもなく、体を汚されることもない。
カットグラスを窓にかざすと、床の上で三角形の影が、まるで万華鏡の中にいるように反射して輝いていた。角度を変えると影も踊る。
ここ最近、寝不足かもしれない。
月夜の晩は毎日、あの不思議な少女に会っているから。
未だに、どうしてここに少女が現れたのかわからない。あれからいくつも色を教わったけれど、結局自分には見えない。
春に出会ったあの、闇の気配を纏った魔物の件も、どうなっているのか調べる気にもならなかった。
結局…なにも変わらない。俺の世界は、何も。
窓のカーテンの向こう。あそこにあるのは、青。空色というらしい。でも、空は季節、日によって様々に色を変える。今日がどんな色なのかは、やっぱり灰色にしか見えない俺にはわからない。
それに少女も昼間は現れないのだから、昼の色はわからないだろうに。本で得た知識だけでどんな色か想像がつくのだとしたら、羨ましい。
冷たいグラスを額に当てて、椅子の背に凭れ掛かった。腕を投げ出して目を閉じる。まぶたの裏が白んで明るい。ここで眠ることはできなそうだ。
時間を潰せるものはいくらでもある。それでも、本に手を伸ばす気にはなれなかった。全部暑さのせいにしてしまおう。このうだるような、全てをだめにする暑さのせい。
なにもかもを諦めてしまいたいと思うのに、自分で閉じることのできない魂に縛られたまま、ただ無作為に時を経る。
けれど、不思議なことに夜。白い月の煌めきとともにあの少女が現れて、夏の暑さが涼やかな夜の空気に変わる。そして白い髪が揺れて、微笑みが覗くとなぜだかとても物悲しくなる。そんな感情を抱いたことがあったかどうか、今までのことは忘れてしまったけれど。覚えている限りでは初めてで、どうしていいかわからない。
そんな少女を見ていると、昼間感じる気だるさや投げやりな感情は影を潜めて、ただ夜が終わってほしくないような、ずっとこの時間が続けばいいのにと思うのだった。
ー*ー
その日、昼間のうちに太陽が陰り始めた。暑さが少し減ったと思ったら、あれだけうるさく鳴いていたセミもぱったりと鳴きやんでいる。
ほとんどページを捲ることしかしていなかった色相の本をサイドテーブルに置いて、いつの間にか空になっていた水差しを手に取った。部屋を出て階下に向かう途中、階段の踊り場にある大きな格子窓を覗いた。雲に覆われているせいで、いつもより太陽の輪郭が小さい。
今日は、月は見えないだろうな…
今までも何度か雨や曇りの日で月が出ていない夜があって、そういう時少女は現れなかった。
ちょうどいい。今日のうちに寝不足を少しでも解消しよう。
階段を下りたところにあるチェストに、花柄の花瓶が置かれている。少女が来てから、庭を散策して積んだ花を飾るようになった。この庭に咲く花はほとんど妖精が世話をしているからか、季節でないものも咲くらしい。少女が冬に咲く花を庭で見つけた時は驚いていた。
自然の甘い香りがする。花の香りは、お菓子や果物の甘い匂いとは違う、優しくて柔らかい。仄かで、細やかな幸せを見つけた時みたいに、ふっと力が抜ける感覚。嫌いじゃない、と思う。
『花には、花言葉というのがあるのをご存知ですか?』
いつかの少女の言葉を思い出す。
『ああ…一応、花を育てているし…暇つぶしに記録していたことがあったな』
『素敵なご趣味ですね。あなたの庭、昼間に見てみたいです』
『特に代わり映えしない。少し明るいくらいで、夜にみても…』
ああそうか。少女は色が分かるから…
ため息を抑えられなかった。色を映す少女の瞳が羨ましい。本当に、ただそれさえあれば俺は…
『…私の目を通してなら、あなたは色を知れるのですか?』
『さあ…』
『なら、私あなたの目になります』
『…なに、それ。どうやって?』
淡い紫の瞳が、真剣さだけをひたむきに宿していた。見つめ返して、突き放すように言った。
そんなのは世迷言だと思うから。
『気休めなら口にするな。そんなことが叶わないのはわかってるし、お前に期待なんてしてない』
『……』
少女は、その言葉で俺から目を逸らした。天の川が広がる夜空を見つめる横顔を盗み見る。髪に隠れて、その表情は読めなかった。
少しだけ、何かが疼く気がした。言いすぎた、だろうか…とはいえ、その気があったって少女が俺に何かをする理由も義理もない。
自分の生まれた意味を考えればいい。月から生まれたということは、太陽の眷属として必ず役目があるはずで…ここにわざわざ現れなくたって、街に行っていろんなものを見てくればいい。昼間ではないにしても、明かりが灯ってきっと綺麗に見えるんだろうし。
「どうしてそんなに全てを諦めているんです?願いが叶うというのに…渇望していながら、まるで願いの成就を恐れるようにどこかで無理だと思っている心もある」
はっとして振り返る。
あの時の闇の気配が、じわりと近づいてきてやがて形作られていった。
「あなたはどこまでも矛盾した存在のようだ」
「お前…どうしてここに」
フードがついた裾の長いローブが、霧のように薄く揺蕩っているように見えた。黒い不気味な気配が館に入り込んで全身が強張る。そいつが花瓶の花に触れると、急に萎れてうな垂れていった。さっきまで白かった色が灰色になっていく。首をもたげて、花びらがカサリと落ちるのを見て、警戒をあらわにしてそいつを睨みつけた。
「また一つ、この世界を穢してやろうと思いまして」
うっすらと覗く口が、頬の端から端まで裂けているように見えた。歪んだ歯がギラついて、顔をしかめる。
知らないところで準備をしていたのだろう。次の狙いを見つけたようだ。
「とても面白いものが見られると思いますよ。この世界に足りないたった一つを与えるだけで、人間は狂ったように踊り乱れる…とても楽しみだなぁ…」
ニタリと、口の端を引き上げて笑う。ねっとりした声が耳にこびりついて、嫌な感触が背筋を這っていった。この前よりずっと、闇の気配が濃くなっている。
変化は感じていなかったけれど、なにかしら動いていたのは確からしい。
俺が少女と、見えない色を探して夜を過ごしていた間に。