Part-6
ー 徒花のお話 ー
昨日の夜、少女は急に消えた。その存在が持つ光が強すぎて、後に色濃い闇を残して消えた。
月も奪って、あの場には覆いかぶさるような闇ばかり。大きな穴が開いたようだった。拭い去れない喪失感は、僅かな星明りで少しだけ救われたけれど、それからいくら待っても少女は再び姿をあらわすことはなかった。
忘れられない、あの瞳の色。
ああそうだ……
思い立って、書斎を出た。
朝の眩しい陽光に迎えられ、廊下を進んで行く。昨日の今日で色が見えるようになったわけではないけれど、自分の姿を確認したかった。
普段なかなか使わない寝室の扉を開けて、姿見の前に向かった。
映ったのは、肌以外黒い男の姿。服には多少の濃淡があるけれど、髪は真っ黒だった。瞳は、少しだけ淡い。これが少女には金色に見えているのか。
それにしても、久々に自分を見たがこんなふうなのか。思っていることが顔に出るのは本当らしい。つまらなそうな、全てがどうでもいいと思っているような顔。まんまじゃないか。
自分で自分の顔を作っているのに、なぜだか苛立ってきてそうそうに姿見の前から退いた。
書斎に戻って、昨日少女が言っていたことを思い出していた。
ここにきたのが、本当に俺に色を取り戻させるためなのだとしたら、一体誰がなんの目的で送り込んできたのだろう。本来の役目を果たさせるためなのか、単純に神様の遊び、気まぐれなのか。それとももともと願いを叶える類の精霊で、本能のままにそう口にしたのかもしれない。
短い時間の中で、瞳に捕らわれていた間が長かったから少女のことは何もわからないままだ。どうして消えてしまったのかも、次があるのかどうかも…
あの時の魔物と、どっちが確実に俺にとって使えるだろう。考えるまでもない。少女は不確かすぎて、色を取り戻す方法だって曖昧だった。
魔物の方は簡単で確実だ。壊して仕舞えばいいだけ。
どちらにしろ、世界には変化があった。
今日また街を出歩いてみよう。何かが違って見えるかもしれない。
ー*ー
青年の足元に、ボールが転がってきた。川辺を歩いてきたところだった。そういえば、さっきから子供の声が聞こえてきていた。
草と、水の匂い。それから…
浅い花の香り。
「ボール、あった!」
たどたどしい声が向かってきた。少年が膝を折って足元のボールを拾う。小さな両手で抱えたあと、立ち上がってふと気づいた。
白い少年。昨日の少女と同じ……ではないか。
「きれー!」
急に、少年が声を上げる。高く舞い上がった声。目が大きく開かれて、なんだか輝いて見えた。色はないけれど、なんだか少女が星を見上げていた時と同じような目だ。
俺を、綺麗だと言ったのかと思った。
ふと視線を掠める白に、まばたきを一度する。気づけば背後からいくつもいくつも降ってきていた。薄く太陽の光を通して、ふわふわと舞う妖精。桜の花びらは、木から生まれた妖精だ。
少年と同じように見上げる。
そういえば、図書館に不思議な本があった。
桜の木はもともと花が咲かなくて、いろんな人がどんな花かと想像した。冬が来るたびに折れてしまいそうな、危うい枝だった。そう書かれた本の一説を思い出す。
花が咲いたのは…確かその木の根元で…
桜が徒花と呼ばれるようになった由縁も、確かその物語に書いてあった。
実を結ばずに散る花。儚いもののたとえ。風が吹くたびに散る花びらに、あの少女はどことなく似ている。まばたきの隙にいなくなった、昨日の少女。
俺はまた…見たくなった。
あの色。知りたい。あれは、一体何色なんだろう。
ー*ー
街で変化は見られなくて、結局そうそうに館に切り上げてきてしまった。中に入る前に、庭による。昨日よりも少しだけ、大きくなったかもしれない。新しく買った花の種。葉に触れると、みずみずしい若葉の弾力が指に心地よかった。この目に映る世界のせいで、あらゆるものはとても無機質に見える。けれど触ってみると温度があって、感触が違って、それぞれ存在していた。
あの少女の頬は…とても冷たかった。
…耳が聞こえないわけじゃない。手触りを感じられないわけじゃない。匂いもわかるし、目だって、完全に見えないわけではない。
そう思えたら、良かったのに。
足りないものの一つが、俺にとってはあまりにも大きすぎた。
そして昨日見た少女の色が、またその欲望を色濃くした。一瞬、足元が揺らぐ感覚が襲って、石の壁に寄り掛かる。俺は…満足することがあるのだろうか。例えばこの先、色を取り戻すことが万が一できたとして、その先にあるのは一体なんだろう。色づいた世界を見てしまったら、俺は満たされるのだろうか。満たされたとしたら、その先はなにを求めて生きていくのだろう。それとも欲望は収まらずに、貪り続けるのだろうか。
願い続けること、求め続けることに飽きて、全てを投げ出してもいいとさえ思っていた。
まだ見ぬ未来を想像して、足元が覚束なくなるなんて。
弱く嘲笑する、情けなさに蹲って、折った膝に顔を埋めた。
あんな少しの色の片鱗じゃ、俺は満足できなかった。
もっと、って、思った。もう一度、って…
底のない欲望そのものに、呑まれかけた一瞬の恐怖がまだ指先に残ってる。
その日はなにもする気になれなくて、書斎のソファに横になった。
ー*ー
目が覚めたときには、あたりは真っ暗だった。目を開いている自覚があると、この暗さは無駄に不安を掻き立てる。逃げるように固く目を瞑って、灯りをつけようと、手探りでマッチを探した。
少し遠いところに手をやると、冷たくて柔らかいものに触れた。
恐る恐る目を開いて横に顔を向けると、淡い光を放った昨日の少女が、優しく微笑んでいた。
「…お前…なんで…」
驚いて体を起こして見つめる。少女の周りだけ、仄かに明るい。
消えたと思った。また会えると思わなかった。
もう一度見たいと思ったその瞳に捕らわれて、いろんなことが取り払われていく。
「月が光っている夜の間だけ、この世界に居られるみたいです」
「…じゃあ、昨日突然消えたのは…」
月が沈んだせい。でも、あの窓から見えていたと思ったのに…少女といると時間感覚が変わる。
「ぁ…髪に何か…」
なにかに気づいた少女が、そっと俺の髪に触れる。指先に何かを摘んで、不思議そうに首を傾げた。
指先のそれを少女のところから取って見てみると、桜の花びらだった。今日の昼間、木の下を通ったからついたんだろう。
「それはなんですか?」
「…花びら」
両手を出した少女の手にひらりと乗せて、俺は灯りをつけようと辺りを探った。少女のまわりは少しだけ明るいから、マッチの箱はすぐに見つかった。
火をつけてそばにあったランプに灯す。ふっと白い炎が揺れて一瞬小さくなったかと思うと、ランプの芯に膨らむように火がついた。
ガラスをかぶせると輪郭がぼやける。筋状の光が強く目に入ってきた。
「わぁっ…綺麗な光ですね…!」
ランプの近くに寄って、少女はその瞳に光を宿した。
新たな色に、また目を奪われる。
昨日見た少女の瞳の色に、重なるように見える色。ランプの…いや、揺れているから、炎の色、だろうか。俺には白く揺らいで見える炎が、少女の瞳の中では…
「お前の目、また…」
「…?あ、そうだ。昨日月に聞いたんです。私の瞳の色」
炎から目をそらして、少女は自分の目を指差す。
「むらさきというのだそうです。ライラックとか、アガパンサスとか、えーと…藤の花も、この目と同じような色だと聞きました」
「むらさき…」
唇の裏でそっと呟く。少女の連ねた名前に、一つ聞き覚えがあった。アガパンサスは、確か最近咲いた花の一つだ。図鑑には、淡い紫と書かれていた。
そうか…あの花は、こんな色で咲くんだな。
とても……
「私の髪も肌も、この瞳以外は全部白いから、私の色はこれだけです」
じゃあ、俺はこの少女だけは最初から間違いなく見えていたのか。少女を彩るたった一つの色は、なぜかわからないけど見えて、俺の目のせいで白く見えていたと思っていた部分は、本当のことを映していた。
この世界の中で、真実の姿を見ることができる。
「炎は綺麗ですね…見ているととても落ち着きます。なんだかあったかい」
白い手をランプにかざす。長い睫毛の影が、少女の瞬きのたびに動いた。
この瞳に映る色は、俺にもみえる。
「この炎は、何色…?」
尋ねると、少女は首を傾げた。じっと炎を見つめて必死に考えているようだ。月に聞いたくらいだから、少女自身もこの世界のことはなにかとわからないことが多いのかもしれない。
「…えっと…橙だったり、赤だったり、白だったり…」
「結構複雑なんだな。俺には白一色に見える」
「あ…!この花びら、光にかざすと少しだけピンク色なんですね」
「…?桜の花?」
手のひらに持っていた花びらをランプにかざすと、少女は声を上げた。やっぱり変わらず白にしか見えない。炎の揺らぐ陰影で、完全な白ではないけれど…
「さくら…?それはどんな花なんですか?」
「どんなって…木に咲く花だけど…」
少女の手をとって、窓際まで連れていく。月明かりを通した窓から影が伸びていた。確か、庭の一本が桜の木だった。ここから見えたはずだ。
「ほら、あそこの白い木」
「あれが、桜?綺麗…光って見える」
花びらがそよ風に散らされて、きらきら舞い落ちていく。吸い込まれるように窓際に近づいて、少女は下をじっと見つめていた。その横顔を見て、声をかける。
「行こうか…あの木の下に」
言うと、ゆっくりこちらを振り返る。長い髪が軽く揺れた。
「いいんですか?」
「別に構わない。月が沈むまでの間だ」
さっきも感じた、細くて冷たい腕を掴んで歩き出す。月の温度は、こんな感じだろうか。太陽とは真逆の色と温度。
どうして見に行こうだなんて言い出したんだろう。気まぐれだと思いたいけど、自分の気持ちに変化があるのは認めざるをえない。こんな風に誰かと語らうのは、本当に久々だから。
それに、少女は俺を恐れない。精霊なら悪魔であることは気づいているだろうけど、どういうわけかまた現れて、こうして一緒にいる。
だから…なのか……心を許しているわけではないけれど、少しだけ期待している自分がいるのも事実で…
桜降る木の下で、少女は泣きそうな顔をしていた。
花びらの一枚一枚に月の光が透き通って、星が降っているようだった。この下だけ異様に明るくて、館は夜に飲まれたように暗かった。向こう側が暗すぎるから、ここが眩しいほどに明るく感じる。
月の光を通した窓だけは、魔法にかかったようにぼんやりと光って見えた。
また声を上げて喜ぶと思ったのに、少女は小さく吐息を漏らして幹に寄り添った。
「綺麗……この世界は、本当に綺麗…」
ああ…この表情、昨日も見た。
少女が強い光の後に現れて、あの窓から世界を見たときも、同じような顔をした。
どこか寂しそうにつぶやく。
淡い紫の瞳が翳った。些細な角度でどんなふうにも色を変える瞳は、少女の心そのもののような気がして目が離せなかった。
「…見たくなかった…?」
透明な光が、瞳の中で滲んだ。零れそうな光を掬うように白い頬に手を添えた。月に照らされた明るい桜の木の下で見つめ合う。俺の問いに、少女は静かに首を振った。
「……とても綺麗だから…なんだか不安になるの…」
「どうして…?壊れたりしない。お前が不安になることはない」
そういうと、少しだけ表情が柔らかくなる。ころころ変わって、見ていて飽きないな。
安心したように微笑む少女は、また言った。
「夜空と同じ髪の色…あなたは、夜をそのまま象ったみたい」
「夜空?俺の髪が…?真っ黒ってこと…」
「深い青色……ぁ…」
少女の周りが淡く輝き始めた。昨日と同じ、消える合図。またいつの間にか月は沈もうとしているのか。
この短い時間に、ずいぶんたくさんの色を知った。それでも目に写るわけではないから、得られたとは思えないけど。
「明日また、会えますか…?」
「…さあ…」
それは月に聞けばいい。どっちにしろ、俺にはこの館以外に行き場はない。
次の瞬間には、少女はそこにいなかった。
第1話 春 はこのパートで終了になります
読みづらい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございます
次回、幕間を挟みまして、夏に移ります
投稿は少し遅れますが、もしみかけたらまた読んでいただけたら嬉しいです
白藤あさぎ