Part-5
ー 淡紫のお話 ー
白い髪
白い肌
白い服
淡い……
小さな宝石の粒が幾千も零れていくようなささやかな音。光に音があるとしたら、きっとこんな感じ。
三日月の光が差し込んで、眩しく輝いた窓の中。雲がゆっくりと月にかかる。
その光は、人の形をしていた。
揺れる長い髪。綺麗な弧を描く形のいい輪郭。頬に落ちる影がわかるほど繊細な睫毛。伸びる手足も、纏う服も、この目には白く光って見える。髪の艶やかな光りが音を紡いでいるようだった。柔らかく伸びやかなハープの音色。やがて人の形をしたそれは、ゆっくりと閉じていた瞼をあげた。
その瞬間、時が止まった。
瞬きも、息も、心臓さえ動くことを止めたかもしれない。
月明かりに照らされたこの窓の中、止まらなかったのはたった一つだけ。
その瞳だけは、輝き続けていた。
綺麗な色。
見たことがないけれど、色というのはこういうものだと一目でわかった。陰影ではない色。瞳の中で細かな彩りが揺蕩っている。
時間にしたら、それほど長くなかっただろう。けれども互いに見つめ合った時間は、そこだけ切り取ったようにゆっくりだった。流れ星の軌跡を指で描けるほど、消える前に願い事を10回くらい言えそうなほど、静かに長い時間。
ふと目を逸らしたそれは、窓に視線を向けた。
三日月が、再び雲から姿を現わす。
窓の影が床に伸びて、それは一層輝きを増した。明るすぎる姿に目がくらみ始めていた。いや、ずっとその瞳を見つめていたせいかもしれない。月の光を浴びた瞳は、さっきと色を変えた。
見ていると、無性に寂しくなるような。
それでいて、どこか優しさと、静かな強さをも感じさせるそんな色。
「…綺麗」
ソレは呟いた。小さな唇から、吐息混じりのささやかな音、湧き水のように柔らかな声で。
初めてソレから目をそらして窓の外を見ると、満天の星が輝いていた。霞のような雲が遠くで広がって、森の向こうから銀河が月に向かって空を切り裂いている。
空は、こんなに広かっただろうか。
世界は、こんなに明るかっただろうか。
重く暗い絶望の果てのような夜に、こんなに明日の光を感じたのは初めてだ。
草花も森も、うっすらと輝いているように見える。
街への道も、遠くに見える川も、心をその先へと誘ってくる。続きを辿ればあの銀河と地上が出会う場所に行きつくような気がした。無数の星の下、照らされた世界は光に包まれている。
「とても綺麗な世界…」
柔らかな笑みをたたえた横顔から、かすかな憂いを覗かせて少女は言った。澄んだ真水のような、水面の煌めきのような、優しい声。
その瞳には、よほど美しい色が映っているのだろう。そうでなければ、この世界は闇に呑まれそうになる。
でも…
たとえ色がなくたって、今見ているこの三日月の夜は、綺麗だと思わないでもない。
優しい愛と、ほんの少しの哀しさが混ざった光の陰影。
神様の望んだ世界のかたち。とても美しくて崇高な、歪んだ世界。
ー*ー
少女は、月の涙から生まれたらしい。
わかることはそれくらいで、どうしてこの図書館に現れたのか、なんのために生まれたのか、何もわからないと言っていた。
けど俺は、わかるような気がする。世界がどこかで、変わってきている。そうじゃなければ、何億年も変化のなかったこの世界にこんなイレギュラーが起こりうるはずがない。この少女がなにかの役割を負わされているのだとしたらそれは…
「あっ…流れ星!」
窓枠に膝をついて空を見上げていた少女が、不意に声を上げた。大きな瞳が開かれて、その瞳に煌めきを吸い込む。星の光を集めているような光景に目を奪われていた。
そっと手を伸ばして、頬に触れる。一番初めに感じたのは、雪のような冷たさだった。
俺は…震えているのか…
心臓が大きく脈打っているのを感じる。少し息苦しいほどに、熱く激しく。
この色は何色…?こんなにも掻き乱されたのは…一体いつぶりだろうか。
少女は戸惑った瞳を向けてくる。
また、色が変わった。
「…お前の、瞳の色は……」
「…?私の?……さあ、自分の姿を見たことがなくて…」
でも、と少女はふわりと微笑む。
「あなたの瞳は、今日の月と同じ色ですね」
「ぇ…」
月と同じ、つまり白…?でもそれは、俺から見た……
今日の月と、同じ…毎日違う色なんだろうか。この瞳のように。
「きれいな金色」
金色。それが俺の、瞳の色…きん、いろ…
水に映る自分の姿は、肌の色以外…どう、だったっけ。自分の顔、いつみたか忘れた。久しぶりに見てみたら…なにか違って見えるだろうか。
「…俺には、わからない」
柔らかな肌から手を離して、窓の外、月を見上げた。金色がどんな色なのかわからないけれど、なんだか…悪くない響きなきがする。白い月…もし今鏡で自分の姿をみたら、この月のように白い色が写っているのかもしれない。この少女と、同じ色。
「…わからない?」
「……色が、ないから…」
「…見えて、ないのですか…?」
少女は、窓から目を逸らした。あどけない瞳が、じっと俺を見つめてくる。
「見えてる。ただ、色がないだけ」
「でも、さっき私の…」
「………なんでだろうな。お前の瞳の色だけ、見えたんだ」
月から生まれた精霊。その特別な存在が、俺に色を見せた。世界に、変化が出始めているのだろうか。闇の存在が増え始めたから、この少女は光を湛えてやってきた。俺の、ところに…
「…忘れてしまったんですか…?世界の色を」
忘れた…?
もともとなかった。始まりから、ずっと……
あれ…?どうして、忘れたなんて思った…?
「思い出せたら、いいですね…」
だから、思い出すも何も…最初から色なんてなかったんだ……
「…そうだ…!私がお手伝いします。きっと私がここにきた意味はそのためなんですよ」
「は…そのためって…」
少女は窓枠から降りて、俺の前に立った。色づいた瞳を向けて微笑む。見るたびに変わるそれは、無性に心を揺さぶってくる。世界にはこんなに綺麗な色で溢れているのだろうか。木々や川や、花…この夜も、こんなふうに様々に色を変えて、俺の心を乱してくるのだろうか。
「あなたが失くした色を取り戻せるように」
「…どうやって」
「これからたくさん、たくさんいろんなものを見ていくんです」
そんなことで色を取り戻してるなら、もうとっくになってる。
散々見てきたから、この世界を。
憎らしいほどに綺麗な…
「ぁ…」
ふと、少女の周りが淡い光で包まれた。眩しくなってく気配に、目を瞑った。
瞼の裏、急に暗くなった気がした。
そっと目を開く。
そこに、少女はいなかった。