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旅人と黄金色の文字  作者: 白藤あさぎ
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      Part-4

   ー 月の涙のお話 ー




世界が少しずつ変わってきている。そんな兆候は微塵も感じられないまま、日々は過ぎていった。青年は、あの日の出来事のことを夢だったのかとすら思うようになった。

これまでより少しだけ頻繁に街に出かけるようになったし、普段は読まない新聞も読むようになった。もっともそんなことをせずとも、黒い感情は風の報せで伝わってくるのだけれど。


やっぱり、そううまくいくものでもない。自分の手を汚さずに願いを叶えようだなどと、虫のいい話あるわけがないのだろう。


春も深まって、庭の花が日を追うごとに増えていった。バザーで買った種も、早くも目を出した。暗く深い土の中に埋められるのに、どうして日の光を感じて健気にも這い上がってくるのだろう。日の光があるとわかっているから、闇を押しのけてこられるのか。こんな小さな種にすら、光を希望だと感じる心があるように思えて、青年は短くため息をついた。


とてもじゃないけれど、この世界を幸せな状態だとは思えない。

思えるとしたら、それは諦め、妥協、そういった心の末だ。

厄介なことに、与えられたものに納得しようとすればするほど、息苦しくなってくる。仕方ない、それが役目だ、そこに生きがいをみつければいい。そう言い聞かせるほどに脳裏に正反対の言葉が行き交うことになる。


この終わらない葛藤に、いい加減疲れた。

だからほんの少しでも願いに届く可能性があるなら、それに賭けてみたかった。


花壇の縁に座り込んで雑草を積む。最近咲いた花。六芒星の花びらの形をした、背の高い種類。細い茎の先にマリみたいに丸く花が集まってる。たしか名前は、アガパンサス。どこかの国の言葉で、アゲイプは愛、アンサスは花。愛の花。植物図鑑によると、色は淡い紫、白、水色。この目にはいつも白にしか映らないけど、愛の花と言われるくらいだから優しい色なのだろう。


ある程度の世話を終えて、館のキッチンに入る。泉から汲んであった水を温めてカップに注ぐ。棚に置いてある紅茶に目をやる。以前、ためしに淹れてみたことがあった。香りは悪くなかったし、多分味も普通。けれど飲めなかった。カップの中の真っ黒な液体を、どうしても口に入れてみる気はしなかった。毒のある花ほど芳しいというし、それ以来水しか飲まなくなった。


毒を飲んだところで死なないし、何も食べなくても問題ないから平気だけど、どうしても底のない黒さが不安を掻き立てる。夜をそのまま飲み込もうとしているような。


トレーにポットとカップを乗せて、二階の書斎に向かった。日当たりのいい廊下を過ぎて、今日は奥の方で本を読むことにしよう。図書館と言われるだけあって、二階は全室書斎みたいなもの。大まかにジャンル分けされていて、一つ一つの規模がとてもでかい。壁いっぱいに本棚が並べられて、隙間という隙間に本が詰まってる。物語や歴史書になれば、床にまで本が溢れて積み上がっている始末。


見た目は雑多に散らかっているようだけど、この乱雑な感じが割とお気に入りだったりする。紙の匂いに満ちた空気は居心地がいい。革表紙の落ち着いた艶が柔らかく目に届く。

掃除好きの妖精が、埃やらを払ってくれているらしい。ちらちらと本棚の間に姿が見え隠れする。


肘掛け椅子のそばのローテーブルにトレーを置いて、手近にあった本を取る。これはたしか、死神と少女の話。死者と生者の決して実らない愛の物語。本を開けばどれも愛の話ばかりだ。このパターンもほかに山ほどある。自分にとって愛は、この身にわかるはずもない感情ばかり行き交う理解しがたいもの。それでもなぜか興味を惹かれる。ページをめくる手が滞ったことはない。


家族も、友人も、いたことがない自分には誰かを愛することを知らない。長い時を過ごすうちに、普通の感情すらどこかに置いてきてしまった。

嬉しいとか楽しいとか、悲しいとか痛いとか…考えて見れば、失うものばかりで得たものはない。完全に劣化していくだけの人生って、これ以上ないってくらい滑稽だ。


さて、物語の世界に入るとしよう。退屈な時間を費やせる唯一と言っていい道具。革の滑らかな手触りを感じながら表紙を開いた。



ー*ー



本の文字が見えづらくなり始めたと感じたのは、もう地平線の向こうに太陽が半分沈んだ頃だった。

自分の姿が見えなくなる前に、蝋燭を灯さなくてはならない。空の濃くなった部分に、白い月がかかっていた。ここまで明かりを飛ばすほどの光は月にはない。


…急がなければ。

暗くなってしまう。


足元がすでに黒く染まっていて、そこに床があるのかどうかわからなくなり始めていた。視界がだんだん狭まっていくことへの苛立ちと焦りが募る。


「っ…!」


つま先が何かにぶつかった。バサバサと紙が散らばる音がする。本の山に躓いたらしい。一瞬思考が飛んで、しばらくして床に倒れているのだとわかる。起き上がろうと手をつこうとしたけれど、すでに自分の手は見えなくなっていた。

目を開けているはずなのに。





ここに…いるはずなのに





絶望の淵で、そっと目を閉じる。




その時だった。

光の刃に貫かれたように、瞼の裏が白くなる。

はっと目を見開くと、足元に自分の体から伸びた影がくっきりと浮かび上がっていた。


強すぎる光に目の奥が潰れそうだった。自分の身を庇うように、光を背中いっぱいに受け止める。


何が起こったのか、頭の整理が追いつかない。

こんな光を持つ存在を、俺は知らない。人間にこれほどの力があるわけがない。ましてやここに入ってくることもできるはずがないのに。



ただ一つ、あり得る存在なのは。



ああ…罰を与えに来たのだろうか。

使命に背いて、憎しみに染まった魂を見殺しにしたから。思い当たるのはそれ以外ない。自分の欲望のために生きてしまったから、神の怒りを買ったのだ。


消されるなら、それでもいい。むしろそうするがいい。

こんな世界なんて生きていたくない。未練も何も、この俺の存在なんて誰も知らない。

悠久の時を過ごしてきた俺にとって、最初で最期になる死という感覚。

怒りを持ってこの魂を引き裂けばいい。


いつの間にか、弱まり始めた光が影を縮めていた。あたりがようやくいつもの暗さに戻って、本や絨毯のぼんやりした輪郭が見え始めていた。


この仄暗さは馴染みがある。

立ち上がって後ろを振り返ると、窓の向こう、空の切れ目のような三日月が浮かんでいた。


目を見開いてその姿を見つめる。


息をするのを忘れていた。

まばゆい光は、勢いをなくさないままそこに立っていた。

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