Part-3
ー 十字架のお話 ー
銀の十字架が落ちる。
大理石の上でカツンと音を立てた。繊細な響きが教会に木霊する。金属同士が擦れ合う音は、無性に心を危うくする。細く頼りなく、それでいて奥深くまで突き刺してくる。光沢で鋭さをごまかしてみても、その音の切っ先からは誰も逃れられない。
重たい雫が落ちる。
悲しみと、怒りから生まれた赤黒い雫。ひとつ、床に小さな丸を描く。その上にひとつ、落ちて少し広がる。ひとつ、ひとつ、繋がって、広がって、滲んで、垂れた。最初の一つはもう見つからない。大きな黒い水たまりに呑まれてしまった。
神様が死んだ。女の心の中で、その存在は砕け散った。
歪みに耐えきれなくなった末に、死を願った。
だから、それを見届けた。
女は目を開けたまま、じっと動かない。その視線に責められているようでも、逸らすことはできなかった。逸らすことは許されなかった。
悪魔は神を穢す存在だから、女が恨みを向けるのも無理はない。とはいえ、それが性であり役目。今更変えようにも変えられるわけがない。
その瞳が光を失うのを見届けて、女の体から刃を引き抜いた。冷たく硬い柄が手のひらの温度を奪っていく。刺すときはああも簡単に沈むのに、抜くときは絡みついて重い。図らずも十字架の形をした剣で命を落としたのだ。この魂はきっと神光に包まれて天界に迎えられるだろう。
短剣を祭壇の上のテーブルに置く。採光窓から入ってくる光が、血で汚れた刃を鈍く輝らつかせた。悲哀に満ちた光景だけれど、絵画のような冷たい美しさがある気がする。
刃にそっと指先を這わせる。ひんやりとした銀の感触、黒い血の上を滑り、跡が引き伸ばされていく。
神というものに躍らされて、いっときの感情に心をかき乱されて落とす命のなんて滑稽で哀れなこと。そんなものに縋る人間は愚かだ。神は、苦しみを与えるばかりで救いはもたらさないというのに。
最初から、裏切られてなんていない。神の形はずっと変わらなかった。変わったのは、神という存在の真実にたどり着いた人間の信仰心の方。
青年はそれ以上考えるのをやめて、教会を去った。やがて人間が、あの死体に気づく。そうして確信するだろう。
あの残虐さは、悪魔の仕業だと。
ー*ー
「お前だろう、あの女を唆したのは」
人だかりが出来始めた教会の前。建物の陰に隠れて、バザーの日にあの女と話をしていた怪しい人物に声をかけた。
こうなることを見越していたのだろう。様子を見にきていたらしい。
あの時手渡していたものはあの十字架の形をした短剣。
こいつから、闇の気配が滲んでいる。
「おやおや、これはこれは。偉大なるお方が我の前におられるとは」
「……俺が怖くないのか」
「…我を消す意思があるのなら、とっくにやっているでしょう。神に歯向かう我をどうして生かしておくのです?」
神に歯向かう、か。確かに、人々に憎しみの心を与えようとするのは世界を壊すことだ。けれどそれは、あるべき姿に世界を戻すこと。綺麗なものを見るのはもう飽きた。それに色がないことがわかった。
俺の望みはただ一つ。この世界の色を見ること、それだけ。叶えるために神に歯向かうことが必要なら、恐れはない、いくらだってやってやる。
「なるほど…あなたにはどうしても叶えたい望みがあるのですね」
「…お前の目的は?この世界を汚すことか」
「元に戻したいだけですよ」
石の壁に寄りかかって、そいつは薄い空を見上げた。フードに隠れて表情はよく見えないけれど、どことなく投げやりに感じる物言い。
しわがれた声のせいで年寄りだと思ってしまっていたけれど、実際の姿はどうかわからない。思えば、他人と話したのは久しぶりだ。もう何万年も人目を避けてきたし、自分以外の人ならざる存在とも関わりを絶ってきた。
元に戻したい。
闇の存在なら、その願いは理解出来る。影は隅に追いやられて、身をひそめるしかなくなった。人間たちに憎まれることが性のようなものだから、それを奪われてしまえば存在意義が揺らぐ。なんのために生まれてきたのかわからなくなって、最後には無に還る。塵にすらなれない哀れな末路。
「…叶いますよ、あなたの願い」
口元を歪ませてそいつは言った。フードの下で、わずかに覗いた眼光が怪しく光る。
「俺の願いを知りもしないくせに、どうしてわかる?」
「あなたのように悠久を生きる存在は、常に変化を求めている。願いや欲望の詳細なんて知り得ずとも、あらかたの想像はつくのです」
確かに、変わらない世界に訪れた今回のイレギュラーは、なにかしらのきっかけをもたらすかもしれない。失くした感情を与えることが、俺の世界を色付けることになるかどうかはもともと確かではない。けれど大きく的外れでもないだろう。
…なにもしなければ、これから先もずっと退屈な日々を過ごすだけ。
「どうすればいい」
まだ完全に話に乗ったわけではない。
それでもフードの下の口元はさっきよりいっそう大きく歪んだ。
「簡単なことです。…四つの愛を、壊せばいい」
ああ…あの、文献に載っている説のことか。人間の中にある愛の概念。
あまりに愛という言葉の響きが安っぽく思えて、笑えた。神の創造する世界の崇高で揺るぎない情であるはずなのに、わけもなく息が漏れる。
「それらを憎しみや恨みの感情をもって壊すことで、世界に歪みを生むのです」
変わらない顔のままそいつは言う。
分かりやすいほどの指針があるなら、試してみる価値はありそうだ。
「それで、今回はなにを壊したんだ?」
「アゲイプ。父なる神の無償の愛、ですよ」
「そんなものを失うことができるのか…?神からの愛は絶対だろう」
「あの女は自ら命を絶った」
自殺、か…確かに与えられた命を自ら断つのはどんな理由があれ許されることではない。様々な文献を読むに、死後の世界で極刑に値するとも言われていたはずだ。
「それに加え、彼女は神に仕える身であったシスターでした。条件としては十分でしょう。あなたには、聞こえたんじゃありませんか。あの女の怨嗟の声が」
言われて黙る。詳しいことは知らないが、俺を見たあの目…。その眼差しには確かに憎しみが込められていた。
きっと悲しみに打ち勝つことができなかったのだろう。幸せの記憶で、その心を満たすことができればああはならなかった。哀れな人間。片翼の天使はその女のもとには舞い降りなかった。もしもいたのなら、彼女の不幸を吸い上げて忘れさせることができただろう。
恨みを向けられても仕方がない。見ているだけで何もしなかったのだから。
「…俺はお前を消さない。俺の願いのために。好きに世界を乱すといい」
「ふふふ…あなたのように矛盾した存在があるから、こうも簡単に闇が根を張れるのでしょうか……」
風が木々を揺らして舞い上がる。目を細めた一瞬で、そいつは声だけを残していなくなっていた。
日が傾き始めているのだろうか、自分が立っている影の部分が、さっきまで白かったところにまで広がっていた。光も影も境界線は明確に違っているのに、自分の心はいつも曖昧に滲んでどっちつかずだ。
けれどそれは、多くを見すぎた結果。
矛盾した存在なのはそのせい。
さあこれからどうなるだろう。歯車は動き始めた。傍観者でいることを選んだ結果はまだ想像がつかない。
生まれて初めて、自分の使命に背を向けた。
後ろめたいと思う気持ちも、不安に思う気持ちも、生憎とうの昔に失くしている。
そんな感情さえも、再び思い出すことができるかもしれない。
そしてその瞬間こそ、色づく世界を見られるときだ。