Part-8
ー 奇跡のお話 ー
冷たい風が、黒いローブをはためかせた。月が沈んで、朝日が東の空に僅かな白い筋を覗かせている。
ようやく見つけた後ろ姿に、青年は声をかけた。
「久しぶりだな」
彼の声にゆっくり振り返る。フードを深く被り、かろうじて見える口元は固く結ばれたまま、何も言わなかった。
「あれから随分探した。お前の目的は済んだみたいだし、もう会えないかと思った」
この魔物の目的。世界から四つの愛を奪い、怒りと憎悪の感情を人間たちに思い出させて正しい在り方に戻す事。歪だった美しすぎる世界は元のように影を抱えて、互いに傷つけあいながら巡っていく。
奪い奪われる世界であるから、大事なものを大事に思えるのだと。影があるから光が輝くのと同じように、失われるからこそ尊いのだと。気づけた今なら、自分の役目がどれほど無意味なことだったのか思い知らされる。
「…我に会いたかったのですか?あなたを破滅に導いた当人に」
青年は黙った。唆されていたのだと、思うことは簡単だ。ただそれは自分の意思の問題であり、たとえ他人の言がなかったとしても、少女を傷つけ取り返しのつかない結果になっただろう。
そして、そうまでしなければ自分の気持ちにも本当の願いにも気づけていなかった。
「あの少女を騙して、あなたの憎悪を引き出した。あなたに世界の色を取り戻させるのを切に願っていた純な思いを利用してね」
「……あいつに、接触していたのか。俺が瞳を奪った夜、妙に自信ありげに話していたのは、お前が色を取り戻す方法とやらを教えたからだったんだな」
「ええ。真っ赤な嘘ですけどね」
「だが、俺に話して聞かせた方法は嘘じゃなかった。この世界から四つの愛が失われた瞬間、俺は確かにこの目に色を取り戻したんだ」
最後に壊した。この手で、エロースの愛の形を。アゲイプ、フィリア、ストルゲー、エロース。四つの愛は、順番にこの世から消えた。抱くことのできなかった感情を覚え、今も世界には黒い霞が蔓延している。
「…気が済んだのか。俺を貶めて」
「……そのはずだった。けどなんにも、なくなってしまったんです。空っぽになって、縋っていたはずの感情ごと、消えた」
昇り始めた朝日を眺めた横顔が、フードの下で微かに光った。
みてはいけないものを見たような気がして、視線をそらした。少しだけ、胸の痛みを感じた。この魔物は、復讐を果たせたのだろうか。自分自身は、陥れられたと憤る感情も、恨む感情も抱いていない。
ただ自分の愚かさゆえに起こったこと。自分を責めることはできても、他人にそれを抱くことはできない。
身に降りかかる全てが、自分のしたことの贖いになるのなら、どんなことでも受け入れられる。
「…無意味だったんです。あなたには…あの少女には、敵うはずもなかった」
魔物は背を向けてつぶやいた。光が透けて差し込む体を見て、終わりを悟る。この魔物も、もうさほど時間がない。
「…聞きたいことがある。俺が奪った少女の瞳を、返す方法」
「…そんなのありませんよ。永遠の世界じゃあるまいし。失われたものは二度と戻らないんです」
一番初めのこの世界の理。ルールであり規則。
ほとんど期待はしていなかったけど、やっぱり改めて言われると、落胆した。そんな奇跡は願えないか…
「なら…夜の精である少女を、昼間の世界に招くことは?」
「…罪滅ぼしのつもりなんですか?」
「いや、こんなことで償えるとは思ってない。ただ約束したんだ。願いを叶えてくれた少女に、代わりになにかしたいと」
あの庭を、見せたい。今は冬だけれど、魔法のかかったあの庭はいつだって種を植えれば花が咲く。花でいっぱいの彩りのあるあの庭を、少女にも見せたかった。できることなら…
瞳を返すことが叶わないならせめて、昼の温度を与えたい。光を、感じてほしい。
「本当に…それが願いなんですか」
顔だけをこちらに向けて、魔物はそう尋ねた。尋ねたというよりは、なにか確信めいたことを滲ませているようにも思う。
探るように、その言葉に頷いた。
「……もう二度と会えなくなるんですよ」
「わかってる。それでも、叶えると約束した」
少し苦しい。あの笑顔を見れなくなった時に感じた息苦しさより、数倍も痛く感じる。でも、それは自分自身の思いであって、少女のことを真に思うのであれば、たとえこの存在の消滅を持っても願いを叶えるべきだ。
「………あなたはまだ、わかってない」
「……何を?」
「愛というものを、わかってない」
それはとても悲しげな声だった。少女の願いを叶えることが違うというのなら、他にどうしようもない。自分にある価値も、今ある力でできることもそう多くない。今は悩む時間すら惜しいのだ。一度得た答えが目の前にあって、それが最初で最期であろうとも、逃す選択肢はない。
「いえ……そんなのはこうと決められるものでもないのでしょう…」
「……よくわからない。少女の願いを叶える方法はあるのか?」
「ええ。太陽を司るあなたの羽。陽の光そのものとも言えるそれを使えば、そこから滲み出す魔力によって、やがて昼の世界にも馴染めるようになる」
手をかざせば勝手に光の中から形を成す。白い、黄金の光を纏った片翼の天使の最後の欠片。
役目を失う時に咄嗟に掴んだ一枚。これがあるから、ここに今も存在している。これを手放すときが、彼女との別れのとき。
「…それから…力を与えるのなら聖夜にするといい。祝福と祈りに溢れた夜なら、月の魔力が高まって魔法を手助けするだろう」
「……わかった。ありがとう。心から礼を言う」
聖夜祭は、もう一つの約束がある。贈り物を渡すのは最後になりそうだ。
「……嘘を言っているとは思わないのか。あなたが望む逆のことを、教えているかもしれない」
不意に言われた言葉に、ゆっくりと顔を向けた。相変わらず表情はわからないが、それは最後の悪あがきのように思えた。
でも、ただ口元が緩むばかりで、今更揺さぶられたりはしない。
「お前はもう、空っぽになってしまったんだろう」
「……」
「星の命よりも長い時間、この目でたくさんの嘘を見てきた。言葉と心の真実なんて、力がなくてもわかる」
彼はなにも言わなかった。
もうすぐ朝日は完全に昇る。雪を少しずつ溶かして、何もかもを透かしていく。
「かつては人の縋りである感情を貪る悪魔。その実、苦しみ世界を壊し、己の望みを願うことさえ許されない、哀れな神の使徒…今は、あなたは何者なでしょうね…」
静かなつぶやきは誰にともなく。やがてローブのたなびく音は、輝きだした世界の中に溶けて消えていった。




