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旅人と黄金色の文字  作者: 白藤あさぎ
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      Part-6

 



  ー 結び目のお話 ー




都合が良い、と言われてしまえばそれまでだ。自分の渇望していたことが叶った途端に、誰かに対して優しくなれるなんて。自分の心が満たされた途端に、他人の優しさに気付けるなんて。

自分勝手。都合が良い。傲慢。そんなふうに罵られたって文句は言えない。

些細な幸せはいくらでもそこに落ちている。見方や考え方を変えれば、それに気付ける。現状に満足して、決して多くを求めず、今在るものを大切にできる。


きっかけを与えるものさえあれば、人はいくらでも、どうにでも変われる。

それが良い方にも悪い方にも。

彼にとっての少女はそのどちらももたらした。

幸せも不幸せも、どう在りたいかも。

自分にとっての世界が彼女を中心にしていることに気づくことができず、ひたすら盲目だった。



ー*ー



目が覚めて、一番最初に映るのは。

手を伸ばせばすぐ届く距離にいてくれるのは。



いつだって、真っ白で無垢なその姿だったことを俺はようやく自覚する。遅すぎたかもしれないけど、もう、いろいろなことに手遅れかもしれないけど、何者でもなくなった今なら、ありのままの気持ちでいられると思った。


最後にひとつだけ、わがままを許して欲しい。少女の幸せを願う、偽善的で白々しいわがままを、どうか許して欲しい。


「目が覚めましたか?」


起き上がった気配に気づいたのか、そばにいてくれた少女はそう言った。羽を失って、夢中でここまで走ってきたあとの記憶が曖昧だった。あのまま庭で夕暮れを見届けて眠ってしまったのだろうか。

眠る、という行為がひどく久しいことのように思う。すでに神様の使徒ではなくなったこの身にどんな変化が起きているのか、実感はない。けれど、このまま人に近づいていくことになるのなら、眠ることも食べることも必要になってくる。その行為を重ねれば重ねるほど、人の世に根を張ることになる。


不確かな存在になった俺に、少女は変わらず透明な瞳を向けていた。

…気づいているのだろうか…以前とは違うことに。


「月が教えてくれなかったら、こんな寒い夜に外で眠ったままだったんですよ」


寒さなんて平気。言いかけた口をつぐむ。もうそれも、関係ないとは言えない。急にいろんなことに耐性がなくなった体に、それでも不安に思うことはなかった。


「お前が運んでくれたの」

「いいえ、精霊たちが。それから、この花を」


差し出されたのは、淡い紫の花ばかりでつくられた花束だった。束ねたリボンは白く絡まって、緑の茎に儚さを添える。花束を持った少女の手ごと、自分の手で包んだ。


「…そういえば…庭の花、この色だけ咲かなくなった」

「……」


一気に枯れてしまったんだ。この淡い紫たちは、それ以来芽も出さなかった。原因はわかってる。もう、目をそらしたりはしない。


「お前の色、なのに…」

「…私の色…?……ああ、白いからですか?」


発せられた言葉に、勝手に胸が苦しくなる。眉を(ひそ)めて、手を握る力が少しだけ強まった。


見えてない。


その事実が、ただ、苦しい。

瞳を開いていても、まばたきをしても、透明なまま。どうして彼女が見えていないことを隠そうとするのか、その理由は問えなかった。聞かないから言わないだけなのかもしれないけど、自分のためにそうしていると思うのは、自惚れすぎだろうか。


脳裏に描いた、好きだった少女の可憐な笑顔。例えようもないほど綺麗に色づいたあの淡い紫の瞳は、もう二度と、見られない。

欲しいものはずっと…この手の中にあった。それを手放したのは自分。

見えていないはずの花束を見て、口元に弧を描く少女に、どうしようもなく心が乱された。真っ白な姿が目に痛い。世界の色が見えるようになった代わりに、少女の色は…一番大切だったものを失った。とても綺麗な淡い紫色は、記憶の中でどんどん薄れて思い出せなくなっていく。


「…淡い紫」

「ぇ…?」

「この花、白じゃなくて、淡い紫色だ」

「……そうですか」


ふっと息をついて、目を閉じる。諦めにも似た表情。もう隠しきれていないことを悟ったのか、少女はもうそれきり目を開こうとはしなかった。


花束をまとめていたリボンを解く。妖精に紡がれた手触りのいい、僅かな光を織り交ぜられたそれは、あの血に塗れた夜の痛みを少しは癒してくれる気がした。

そっと、少女の目元にリボンを巻く。彼女はただじっとしていた。頭を包むように後ろに手をやって、きつくならないように結ぶ。ふわりと、近くなった一瞬で花の香りが揺れた。


「色…見えるようになったんですね」


少女の前髪を整えていた指先が強張った。その声音には、言葉以上の気持ちは感じられなかった。事実だけを述べた、ただの声。

それに黒い感情を探してしまったのは、罪悪感以外のなにものでもない。


「…ずっと、それを願っていました。届いたんですね。やっと」

「……俺は…お前と…」


一緒に見たかったんだ。星空も、月も、花にあふれた庭園も。

見たかった。確かにずっと色を取り戻すことが願いだったけれど、出会ってからその思いが加速したのは、少女と一緒に見たい思いが募っていたから。


「綺麗に見えていますか…?光に溢れて、まぶしいくらい」


わからない…

その感動はとても一瞬だった。綺麗だ。けれどそれ以上に美しかったものは、この世界から失われた。俺自身が壊して、奪ってしまった。


「…見えてる。とても、綺麗だ」


そう言うと、彼女は柔らかく口元を緩ませた。一瞬、ほんの少しだけ、脳裏に可憐に微笑む少女の姿が映る。淡い紫の瞳が、どんな瞬間よりも優しく色づく笑顔。


褪せていた紫の記憶が蘇ったようで、喜びとも悲しみとも言えない感情が込み上げた。これから先、笑ってくれていたらずっと忘れずに居られるだろうか。


彼女の見ている世界を思う。

何も見えないはずだ。

それは、一体どれほど深い闇なのかと、考えて、恐ろしくなった。


灰色の濃淡ですらない、限りのない無。あの灯りのない夜のようなものが、ずっと彼女を包んでいるのだろう。身動きの取れないほどの圧迫感に、押しつぶされそうになった過去の感覚を思い出そうとする。

けれど、それはできなかった。

忘れてしまった。孤独な夜のことを、もう思い出せない。


ああ…

自分を孤独から引き上げたのも、望んでいたものをくれたのも、全部、少女だ。光ばかりもたらしてくれた彼女を、俺は自分がいた場所よりも深い深い闇の底に追いやった。


今の少女の苦しみをわかってやれない。光を、自分が与えられるはずもない。月なら…あれほど強い光を持ったあの月なら。あるいは星なら、夜を照らすように少女に安らぎと幸せをもたらせるのだろうか。だとしたら、ここにいるよりも彼女はいるべきところへ帰るほうがいいのではないだろうか。


「…俺は…お前の幸せを考えてやれてなかった。傷ついてほしくないと思ってたのは本当で、笑っていてほしいと願ってたのも本当だけど…それは俺にとっての幸せで、お前が本当はどうしたかったのか、その気持ちをずっと無視してた」


片翼の天使として、使命を果たしていたときでもずっと悩んでいたことだ。憎しみの心を無理やり奪うことが、本当に、真に幸せといえるのか。本人が決めるべきことを、役目だからと断ち切ってしまうことに疑問を感じていたはずなのに。知らずのうちに、一番大切に思っていたはずの少女にそれを強いていた。大切に思っている、なんて、今になれば自己満足でしかなかったわけだけれど。


「だから…それに気づけた今は、もう間違えないから。お前の望みを聞かせて。お前が、幸せだと思うこと、俺に手伝わせて。できることならなんでもするから」


たとえそれが、傲慢だと言われたっていい。自分の心がどれだけ傷ついても苦しくなってもいいから、少女の口から願われたことを、俺はすべてをかけて叶えるよ。

少女が、そうしてくれたように。


「……無理です。絶対、叶わないもの」

「…どうして?言ってみなきゃわからないだろ」

「私は夜の住人だから……その性を変えられない」

「…昼間の世界が見たいのか…?」


ゆっくりと頷く。月明かりがこの窓から消えるまでの数時間しかこの世界にいられない少女にとって、見たことのない昼の世界を夢見るのは想像に難くない。


自分も、昼の陽の光に染まった少女の白い姿を想像して、頬が緩んだ。


「叶えるよ。必ず」

「……でも、今も十分幸せだから」

「俺も、お前ともっと長くいられたら幸せだから」


そう思った瞬間、少女の願いは自分自身の願いでもあるということに、とても満ち足りた気持ちになった。これじゃ、自分のためみたいだ。


「…私にとって一番、幸せなのは…あなたと、一緒に居られることです…」


光に溶けていく少女は、消える寸前に何か言った。薄いヴェールのような揺蕩う光が遮って、よく聞こえなかった。


手の中にずっと握っていた、一枚だけ残った白い羽を見つめる。


そして、それを持つ手が少しだけ透けていることを認めて、あまり時間がないことを悟った。不安定なカタチを長く保つことはできない。

窓から庭の端を見下ろした。幹を夜色に染めた、葉のない枝を伸ばす一本の木を見つける。


春はもう終わった。


幾度も繰り返した季節はもう終わる。長かったこの悠久の時が、ようやく終わる。思い出せるのは、少女との出会いから。長い時を紡いできた自分にとっては、瞬きより短い時間だった。それでも、この命が背負った諸々の闇を取り払うほどに眩しく、結びには十分すぎるほど幸せな時間だった。




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