Part-5
ー 失われた片翼のお話 ー
シルクのリボンがあしらわれた小洒落た箱を、少女の差し出された両手に乗せた。自分では片手で十分だった箱が小さな手に移ると、途端に大きく見える。少女がそっと箱を一度撫でて、リボンに触れると、それを解いた。
「…これは…?」
包みを剥がして、出てきたオルゴールの蓋を開く。すべての動作を、少女は手触りを確かめるようにしていた。
「オルゴール。好きかと思って」
できるだけ、軽い声音で言う。ぎこちなく口端を持ち上げた笑みに少女は気付かずに、静かに蓋を閉じた。蓋の留め具のところについたネジを回して、再び開く。ぽつぽつと、雪の舞い降る様を想像させる旋律が零れた。
しばらく眺めていた少女は、やがて静かに微笑んだ。
「綺麗…」
その声にほっとした。別段傷ついた様子もなく、そのオルゴールを両手で包んだ。
「…あげる。よかったら、貰って」
少し驚いた顔をして、けれどすぐに嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます…」
「…ああ」
あの時壊したものとは似ても似つかないけれど…特別な思い出が籠ってるわけでもないけど…
「あれ…お前が、持ってたオルゴールのペンダント…壊したから、似たものをと思って」
「……」
「…悪かった、な…大事にしてたものだっただろ」
「……もうあのオルゴールの音、思い出せないんです。それに…あなたから頂いたものも特別だから…これ、とても嬉しいです」
微笑んでいるのに、泣いているような声音だった。音を忘れてしまったということは、あの時見た桜のことも、思い出せないのだろうか。特別に思ってくれていたあの記憶は、もう少女の中で褪せてしまっているのだろうか。
「また、一緒に見よう」
「ぇ…?」
気が急いて、咄嗟に口から出た。自分も、あの春の夜のことをうまく思い出せないことに気づいてしまった。少しずつ、少しずつ。新しい色に塗りつぶされて、思い出せなくなっている。
灰色の世界を、考えられなくなってきている。
だったらどうして。どうして少女の淡い紫の瞳は、この目に映らない…
あの世界でたったひとつだけ色づいていたあれは、今でこそ見えるものなのに。
「桜、一緒に見よう。祭にも、もう一度行こう。花火を見て、今度はいろんなもの食べて…これからもたくさん…」
喉がだんだんと圧迫されていく。少女の中の自分も、色褪せて見えなくなっていくのだろうか。
そう思ったら、とても、息苦しくなった。
『忘れてしまう気がして』
少女の声を思い出す。嫌だと思った。どうしてそんなことを言うのか、わからない。わかりたくない。忘れて欲しくない。
「…大丈夫ですよ」
ふわりと手に乗った、白い指先。椅子に座った俺の足元に膝をついて、見上げる姿勢で微笑む少女がいた。変わらない白い姿と、色のない、透明な瞳を交える。
自分の中の何かが、大きく音を立てて崩れていた。もうずっと前からヒビが入っていたそれは、あっけなく脆くぼろぼろに砕かれていく。
もう、すべてはあの日に狂っていた。一番大事なものに気付けなかった俺は、あの日、もう世界を終えていた。
「大丈夫です。もう苦しまなくていいのだから」
その声に、その言葉に、その微笑みに、冷たいものが頬を流れた。そっと目を閉じて、震える手で少女の手を額に当てがう。
好きだったんだ。彼女のことが、どうしようもなく好きだった。可憐に咲いた笑顔を見た時からずっと、それは揺らがない確かな想いだった。吸い込まれそうなほど美しい瞳。星の煌めきを湛えて、幾億もの輝きを秘めたその瞳が好きで、ずっと映っていたくて、心の底から望んでいたのは彼女の世界にいることだった。
そんなことにも気づけないまま、自分からそれを壊した。
浅はかで愚かでどうしようもない、自分勝手な感情の制御もできなくて、一番大切に思っていたものをこの手で壊した。
痛がる彼女の声を拒絶して。なにが、笑っていてほしいだよ。なにが一緒に世界を見たいだよ。少女を真っ暗闇に突き落としておいて、色がないよりひどい世界を与えておいて…よくも好きだなんて…
苦しまなくていいんじゃない。苦しむことも、許されない。特別な想いを抱くことも、少女にとっての特別になることも望んではいけない。
これは、罰。
これから先、自分にできる償いをしながら報復を待つことになる。
ー*ー
声が聞こえた。
不快感を与える、怒鳴り声と泣き声。かつて日常的にあちこちから聞こえてきていたそれは、今直接耳に入ってくる。
縺れ合う感情が目に見えるようだった。
ここしばらく忘れていた世界のこと。再びここがどんなところなのか思い出す。そして、嫌な予感がした。
四つの愛がすべて失われたら。
ざわざわと耳の奥が騒ぐ。男が怒鳴る声。女が泣く声。耳を塞ぎたくなる衝動。それをしても意味がないことを知っている。けれど完全に背をむけることもできずに、青年は立ち竦んだ。
ー*ー
「嘘でしょ……」「なんでこんなことに…」 「かわいそうに…」
「ひどい…」 「あんなにぐちゃぐちゃに…」
口々に言われる言葉は無意識の中に溶けて消えていった。
目の前の凄惨な事実に、ただ呆然とする。一部始終を見ていた自分は、ただ、言葉を失った。
赤い鮮血を身体中から飛び散らせて、殴り殺された女の死体が街の一角に出来上がった。男はそばに立ってずっと見ていた俺に気づくことなく、その場から逃げた。顔の原型がほとんどない。眼窩から飛び出しかけた目が、脳裏にあの夜の光景を思い起こさせる。
急激な吐き気に襲われて、その場に膝をついた。
じわじわと黒い靄がこっちに向かってくる。死体から滲み出ているそれから逃げるように人混みを掻き分けて走った。
縺れる足を無理矢理動かして、館を目指す。
闇に染まるわけにはいかない。どれだけ掬っても、底なしの憎悪や怨恨が潰えることはない。
綺麗な世界を。本当に綺麗な世界を見ることができるこの目を、再び黒く染めることはできない。それだけはなにがあっても抗いたかった。
自分の影を踏みながら走っていた。少しずつ痛み始める背中。逃れられない刺すような痛みに、息切れが増して足取りも遅くなる。
背中が重い。とても熱くて、痛い。
「はぁっ…、はぁ…っ」
表面だけを焼いていた痛みが、徐々に内側にも回り始めた。爪の尖った指で内側を抉られる感覚。声にならない声をあげて、蹲った。ドクン、と大きく跳ねて熱を上げる心臓を掻きむしる。
全身から火を噴きそうなほどの熱が、自分の影に纏わりついて揺らめいていた。
真冬の陽炎の中、必死に意識を繋ごうと、片方だけ伸びた羽で体を覆った。
白く穢れのない羽根。どれほどの世界の歪みを掬おうとも、これが燻んでしまうことはなかった。微かに白い光彩を纏うそれは、あたたかくて冷たい。
これは報い。
焼かれていく羽根の隙間から、その奥の黄昏に染まった世界の光を見ていた。
いつかこんな日が来るとわかっていた。だから、これは報い。甘んじて受けるべき神様からの罰。
四つの愛が世界から失われたら。
そういうことかと、痛みを感じる意識とは別の意識で思う。この役目を…片翼の天使としての役目を失う。そうして地に堕とされた俺は、ただの人間として、命が尽きるまで生きることになる。
逃れたいと思っていた。色を失ったのは、他でもないこの役目のせいだから。願いが叶うと言っていたあの魔物の言葉は正しかったのだ。
柔らかい白い羽根をぎゅっと掴む。
思うのは、あの少女の顔だった。もしもこのまま、人ならざるものではなくなったら。もう二度と、彼女を見ることはできなくなるのだろうか。触れられなくなるのだろうか。
嫌だと思った。そう、強く思った。
体から羽根が剥がれた途端、弾かれたように走り出す。
羽根は薄氷が割れる音をさせてふわりと舞った。白く淡く、黄金色の光を透かして輝く。
軽くなった体が足を前に前に持って行く。
まだなにも、してあげてないから。ずっとそばにいてくれた少女に、俺は奪うばかりでなにも、返せてないから。
わかってたんだ。ずっと少女が探していた、少女自身の役目。これは自惚れではなくて、確かなこと。
月の雫から生まれた精霊の性。
最初から…ここに来た時から、俺自身の声に応えてくれていた。助けてという声。心の奥底でずっとずっと、降り積もる憎悪たちに埋もれて届かなかった声。それを聞いてきてくれた、月の使徒。地上よりも深いところのそんな小さな声を、空の上の遥か彼方で聞き届けてきてくれた。
初めて彼女が現れた夜、あまりに暗すぎる夜に飲まれそうになって怖かった。助けて欲しいと思った。
火事の時、あの煙が見えて、また何かが失われるのだと思ったら怖かった。その時も助けてと思った。
片翼の天使としてもう一度世界に染み出した闇を掬おうと声を拾い始めた時も、なだれ込む激しい怨嗟の声から逃げたくて、怖くて、助けてと願った。色のない世界にいることが怖くて、ずっと、今見てるこの景色を望んでた。
溢れ出す思いを抱えて、黄金色の光に包まれながらただ走った。苦しくて、口の中が血の味がした。館までの道のりが、こんなに遠かったかと、何度も躓きそうになる。
どうしようもない。望んでること、何一つ自分じゃ満足に手に入れられなくて、大層な役目を与えられてる割に、俺は彼女に何をしてあげられただろう。傷つけるばかりで、ろくに世界を見せてやらずに縛り付けて。
等価交換がこの世界の原理の一つを成しているとするなら、俺は、片翼の羽根以上に大切なものを差し出さなくてはならなくなるのだろう。一番大切なものを奪った俺は、一番大切な、少女へのこの心を二度と感じることができなくなるのかもしれない。
うまく想像できない。
あの光を見ても何も感じないなんて、できるだろうか。不安定で不確かで、他人に影響される写りげな心が対価になるのかはわからないけれど…
少女の持つ光は、閉ざされた奥の奥までも届く気がする。決して強くはないけれど、隣り合わせで寄り添ってくれるそんな優しさがあるから。
まぶしい光に目を細めた。もうすぐ日が暮れる。月が出て、星が輝き始める。沈んでいく太陽は最後の瞬間に一筋強い光を放つ。
肩で大きく息をして、空を見つめた。雲の陰影も、空の濃淡も、永遠であり、刹那であり、今だった。
固く握っていた手を開いた。羽が一枚、ふわりと浮かぶ。
心に一つ、確かな決意をした。もう、迷わない。
あと少しだけ、中途半端な存在でいさせてほしい。天使でも人間でもない、なんでもない自分でいさせてほしい。
もう一度手に羽を握った。
黄昏の刻。奇跡を願うその瞬間は、黄金色の光に溢れてとても美しかった。




