Part-2
ー 満たされない花瓶のお話 ー
冷たいガラスの感触が指に心地いい。とある部屋の窓際にずっと置かれたままになっていた花瓶を、今日久しぶりに見た。かつて、そこの窓辺に座ってひだまりのなかで過ごしていたことを思い出す。
少女と出会う前の頃だ。
カットの細かい花瓶は、冬のか弱い太陽の光を反射して床に木漏れ日のようなまだら模様を作っていた。花瓶を揺らすと光も踊る。
なんともなしにここに入れていた水は、ずっと窓辺に放置されていたことですっかり蒸発してしまっていた。渇いた花瓶を再び潤して、今日また摘んできたコスモスの花を一輪挿した。
この花瓶に、泉から汲んできて温めただけの水を入れていたことを思い出す。そうして満ちる頃になにか花でも挿そうかとぼんやり考えていた。
あれから世界を乱そうとする闇の魔物に出会って、月夜に少女と出会って、この花瓶の存在をすっかり忘れていた。
どんな花を飾ろうか、あのときは思いも寄らなかった。きっと庭にあった適当な花を一輪、なんともなしに挿すだけだっただろう。けれど今は違う。少女がみたらきっと喜ぶ。あのコスモス畑に俺も行ったんだと知って、いつか見た花のような笑顔を咲かせるかもしれない。
花瓶に満ちた水を見てふと思い出した。そういえば、今まで色が見えないからと、何かを食べたり飲んだりすることはなかった。初めて口にした紅茶は甘くて熱くて、それを美味しいと感じた。少女がいたから、飲んでみてもいいと思えた。
さすがに、血の色に見えていたあの紅茶を一人で淹れる気にはならなくて、あれ以来飲んでいない。
また一緒に飲みたい。美味しいと笑う少女に、自分も笑いかえせるような気がした。
花を挿した花瓶を、いつもの窓辺に飾る。今日こそ、月が夜を割って見えるだろう。昨日はまだ新月から抜けて光が弱かったからか、また少女には会えなかった。夜を待ち遠しく思う。おかえり、と迎える立場なのは今度は自分の方だ。
ー*ー
青い夜を見渡す。蝋燭をつけなくても、館は明るく感じる。光のないころを知っているからか、色を取り戻してから世界はやけに明るく見える。今日も、細い月の光だけで十分周りが見えるほどだった。
冬は空気が澄んでいるから、そのぶん光が届きやすいのかもしれない。
窓辺に立って、あの眩しい瞬間を待った。月が輝き始めてから、この窓を照らすまでの間がとても長く感じる。
不安が大きくなっていた。今日も会えないかもしれない不安。待っていることがこんなにも落ち着かないものなのだと、初めて感じた。
少女は俺を待っていてくれたことがあったと思う。会う約束をしていたときは、少なくとも待っていてくれた。
その時の少女の気持ちがわかるわけではないけれど、同じ行為でも自分の今の落ち着かなさはどこか違う。
少女のことを思い出すと、耳の奥にこびりついて離れない声が聞こえて来る。それを聞いていると、今日も姿を現さないんじゃないかと不安でたまらなくなった。
窓辺に置いた花瓶を指先でそっと撫でて、ただ待った。
夜空を見上げて、散りばめられた星の数を数えたり、適当に星と星をつないでみたり。この目に映るようになった星々もあって、前よりそれは容易じゃない。見えてなかっただけで、星は数え切れないほどたくさんあった。繋げられないほど光を放っていた。
心の中のざわめきを、他の誰でもない自分からそうやって隠した。いつまでそれが続くかもわからないのに、向き合うことはできなかった。
窓が明るく輝く。最初は眩しくて目を開けていられないほどに感じていた光が、今はただ優しく穏やかに感じられた。光のヴェールみたいに揺蕩って、それがそのまま少女の髪のなびきになる。空から月に導かれて舞い降りてきた天使のように、ゆっくりとそこに姿を現した。
閉じていた瞼がゆっくりと開かれるのを見たら、安堵で息が漏れた。
「久しぶり」
自分から声をかけるのは、そういえば初めてだったかもしれない。
少女は少しだけ首をかしげて、口元を緩ませた。
「こんばんは。2日会っていなかっただけなのに、久しぶりなんですか?」
そうだな。たった2日。
でも、俺にはとても長く感じた。冬は夜が長いから、いつもより長く一緒に居られると期待していたせいもあるかもしれない。
そう思っていたのは俺だけだったみたいだ。
透明な瞳が自分を通り越して窓辺に移る。最初に来た時と同じように、少女はただ空を見上げた。
「……」
無表情な横顔が気になって手を伸ばす。けれど指先が触れることはなかった。自分の手の震えに気づいてさっと引っ込める。どうしてか震えの止まらない手をじっと見た。握ったり開いたりしながら少しずつ収まっていくのと引き換えに、体の奥、胸のあたりが圧迫されて息苦しさを感じ始めた。
こっちの方はどうにもおさまりそうにない。
さっきからなんだか、少しずつなにかがズレている気がするのは…
「あっ…」
パリーン!
巡っていた思考がけたたましい音で一気に現実に引き戻された。顔を上げると、少女が窓辺に蹲って何かしていた。キラキラ光ったガラスの破片がそこらじゅうに散らばっている。
弾け飛んだ水も特有の丸い輝きを放っていた。飾っていた花瓶が割れたようだ。コスモスの花を見て欲しくて置いたけど、それは果たされないまま役目を終えたらしい。
「ごめんなさい…」
「…気にしなくていい。すぐに片付ける」
とりあえず大きな破片だけでも。そう思ってそばに蹲って、気づいた。破片をかき集める少女の手が血で濡れていた。目で意識すれば血の匂いが後からついてくる。
咄嗟に少女の手を止めた。そっと拾っても破片は鋭利で危ないのに、まるで砂場の砂を手繰るようにしてやったら切って当然だった。
「なにやってるんだ…!お前、こんなに切って…」
「ぁ…すみません…」
随分深く切った箇所もあるようで、なかなか血が止まらない。血の色と匂いが思考を奪っていく。早く手当てしなくちゃなのに、さっき以上に胸が締め上げられるようにキリキリして、掴んだ手も震え始めた。
「…待ってて。今手当てするから」
「……」
無理やり視線を剥がして、すぐ近くにあった棚から救急箱を取り出した。昼間少し館を整理していたから場所を知っていてよかった。
傷口に細かいガラス片が入ってしまっているかもしれない。これだけ暗いとさすがに全て取り除くのは難しい。さっきのうちに明かりは何本か立てたけど、止血も早くしなくちゃいけない状況でもたもたしてられなかった。
包帯を巻きながら、自分のより一回り以上も小さい少女の手を感じていた。
「痛むか…?」
ふと口をついて出た言葉に激しく後悔する。
どうしてそんなことを聞いたのか自分でもわからなかった。
思っていたとおり、少女は首を横に振った。
痛いと言うはずもないのに、聞かずにはいられなかった。大丈夫だという少女によかったと安堵することはできない。自分が少女にそうすることを強いているのだと思ったら、息苦しさが増すばかりで何も言えなかった。
「…手当てなんていいのに。きっと明日には治ってます」
困ったように笑う。たとえそれを知っていたとしても、流れ続ける血を見ていたくはない。
少女の言葉を無視して反対の手も同じように手当てした。白い手に白い包帯を巻いて、手首の近くで留める。細くてしなやかな指が、自分の手のひらを少しだけ撫でて離れていった。
「ありがとうございます。あなたは怪我しませんでしたか?」
少女の問いに、治療道具を片付けていた手を止めた。もうすっかり乾いた血が指先にべったり付いていた。気づいて、少しずつ心音が大きくなっていく。
痛いの ほんとに痛いの…
もう やめて やめて いや…
頭が割れそうな激痛。閃光とともに断片的に脳裏に焼きつく記憶と、途切れ途切れの声。噎せ返るような血の匂い。砕けたガラス。濡れた床に横たわる、まだらに赤く染まった白い花。
目に映る全てが、逃げ続けている事実を見せようとしてくる。
「…あの…?」
水面の景色を揺らすように、頭の中に少女の声が落ちた。
気遣うような視線に息苦しさが増す。そんなふうに見ないでほしいと、あからさまにそこから目をそらした。自分の口からはいつも以上にぶっきらぼうな声しかでなかった。
「…平気だ。どこも怪我してない」
嘘じゃない。
でも、痛い。少女を見てると、どうにもできない胸の痛みに襲われる。今日はなんだかずっと、どこかがおかしい。それが明日になればもとどおりになるのか、わからないから不安だった。
その”もとどおり”の形も明確にはわからなくて、ただ漠然と感じる不安を少女を見るたびに感じる。そして、多分それはこれから先もずっと抱いていなくちゃいけなくなる。正体のわからない何かが、少女と接することに躊躇いを感じさせる。
せっかく、同じ景色を見られるはずなのに。二人で一緒に空を見上げて、星を数えて夜を過ごせるはずなのに。
床に割れたままのガラスの花瓶を見つめる。もう水が満ちることはない。夜のなかで、それは星屑みたいに煌めいていた。
少しずつ何かがずれている違和感。ひとつ確かなことがあるとすれば、自分はもうコスモスの花を見ることはできないということだ。それと重なる記憶を思い出したくないから。




