第4話 冬 Part-1
ー第4話 冬ー
ー 新月の夜のお話 ー
立ち上がった瞬間、わずかに視界が眩んだ。ずっと蹲っていたせいだが、影っていた視界が急に白んだのも原因だろう。
これでここの花壇の手入れは済んだ。
この庭は季節を問わず花が咲くから、外気の寒くなり始めたこの季節にも種を植えれば艶めいた瑞々しい新芽が土を割って顔を出す。
昨日の夜は一睡もできなかった。日の出の瞬間を見た興奮が、思い出せばすぐに心音を早める。今まだ東寄りにある太陽を振り返った。
空気が澄んでいるせいか、強い光線に目が焼かれそうで手をかざす。指の間から少しだけ滲んでくる光でさえも、まともに目を開けさせてはくれなかった。
色鮮やかな庭。
光の加減や目に映る角度で、様々に濃淡を変える世界。二度と同じ輝きになることはないこの世界の彩りに、一瞬一瞬がとても貴重ですべてを覚えていたいと思った。
かつて、灰色ばかりの世界に埋もれていたときのこと。
こんなふうに色を取り戻すことを、どこか諦めていながらも望んでいた。つい昨日まではそんな視界だったのに、もう遠い彼方の記憶のように思える。取り戻してから数時間が、何万年の時よりも長く濃いと感じる。
そんなころ、色を得た先のことを考えて、不安になっていたことがあった。そこで満足したら、自分は次になにを求めるのだろうと、永遠に欲が満たされないことに恐怖をいだいていた。あるいは満たされたとして、そこで次は何をすればいいのか、虚しさを抱くかもしれないことにも恐怖があった。
でも実際は違う。
したいこと、見たいこと、感じたいことはいくらでもある。きっとこの先どれほど時間があってもそれが尽きることはない気がする。
人の世は刻一刻と変わっていくし、そのたびに新しいものが生まれる。この書庫に収まりきらないほど多くの知識を得るだろう。
あるいは、自分でなにかを生み出してみたいと思うようになるかもしれない。
今の自分には未来がある。自ら進んで、世界にいたいと思えている。絶望から抜け出して、光の中に身を置く自分を感じる時、本来のいるべき場所に戻れたような気がした。
ー*ー
今日はバザーの最終日らしい。庭の手入れを終えて街に出てみると、人で溢れかえって賑わっていた。昼の風景。晩秋のこの頃は木の葉も散り果てて佗しい気がするが、彩りのある世界に魅せられたばかりの自分には目に映るもの全てが心を揺さぶる。
黒い影は見えないし、人々の話し声も、聞こえてくるものは張りのある商人の売り文句や談笑、こどものはしゃぐ声ばかりだった。自分の見るものが変わっただけで、意識が前向きになっているおかげかもしれない。
見えなくなって、聞こえなくなったからといって、感情がなくなるわけじゃない。今もきっと日の当たらない場所で、滲み続けるものはあるのだろう。
けれどもう、それを負うことはない。これからもずっと。
春に行われるエメラルドバザーと形式は同じだが、秋はサンバザーと名前を変える。サンストーンから由来する通り、旗の色はオレンジをメインに連なったものだった。次の春は、エメラルド色の旗を見られるだろう。
秋は暖色が多く目につくのに、寂寥の季節と言われる。この空気の冷たさがそうさせるのか、風に舞う紅葉した葉の頼りなさがそうさせるのか。原因はわからないけれど、景色に見入る人間が多い。賑わった大通りを抜けて館にも続く公園に差し掛かったところで、ふとそう思った。
「おねえちゃん待ってよー!」
「はやく!おいてっちゃうよ!」
木の下のベンチに腰掛けていた自分の眼の前を、二人の少女が駆けていく。短い足を健気に動かして、先に行く一人を追いかけていた少女があっと小さく声をあげた。
ふわりと何かが風に舞う。
少女は何かにひっぱられるように後ろを向いて、地面に落ちたそれを拾った。濃いピンクの花。細長い花弁が一重に連なった、中心が黄色の、少女の手のひらほどの花。
花が小さいのか、少女の手が小さいのかわからないけれど、無垢なそれらはいじらしく思える。指先に摘んだそれを耳元に飾った。
栗色の髪の毛に花はよく映えた。ちゃんとあることを確認するように、指先でそれを撫でる。
「もー!なにやってんの?」
「だって、コスモス落ちちゃったの」
もたついていた妹を心配してか、姉が先から戻ってきた。少し呆れた様子だけど、もう走らなくて済むようにしっかり手をつないで歩き出す。姉の方の片耳にも、花が飾られていた。
コスモス。
秋桜ともいうんですって。
昨日聞いた少女の声を思い出す。
明日、一緒に行きませんか?
そうも言っていた気がする。
不意にベンチから立ち上がって、公園を出た。まだ夜には時間がある。コスモス畑を見てみたい。昼間見るのと夜に見るのとじゃ、違って見えるから。少女と今夜一緒にみるときに、その違いを感じてみたい。
二人が歩いて行った先とは逆に進んだ。
今からでも、一緒に行ってくれるだろうか。綺麗だと言っていた世界を、今なら俺にもそう感じられる。
となりにいてくれたら、きっとまた見え方が違うだろうから。
ー*ー
たどり着いたコスモス畑で、まだらに揺れる色が今まで見てきたどれとも違った。一面がピンクの絨毯のように遠くまで広がっている。花のやわらかな香りが秋風に乗ってそよいだ。ピンクという色合いを初めて知る。庭に咲く花はどれも白や赤、黄色ばかりだった。中には淡い紫もあったけど、今は枯れて、咲いていない。
濃い色も薄い色も、白もあった。そのどれも真ん中のところは黄色い。どちらもはっきり主張する色なのに、自然のものはどんな組み合わせも似合って見えるから不思議だ。
今夜、ここにもう一度来る前に少女に贈ろうか…
さっきの幼子みたいに、耳元に飾ったら喜ぶだろうか。だとしたら何色がいい…
似合う色を探した。薄いピンクと白と、どっちにしようか迷って、結局白を選んだ。
淡紫以外の色が彼女を彩るところをなんとなく想像できなくて、白を一輪摘んだ。
茎のみずみずしい感触を指で撫でて、歩くたびに揺れる花を見て、頬が緩んだ。
一瞬遅れて、そんな自分に気づく。
そして一層笑みを深めた。自然とそうなってしまえるほど、心が溶け出していると実感すると嬉しい。
この花を少女に飾る瞬間が待ち遠しかった。
ー*ー
その夜、少女はいくら待っても現れなかった。
指先にある花が目をやるたびに元気が無くなっていく気がした。心許ない細い茎が、自分の手の温度で温められて萎れていく。
落ち着かなくなって何度か空を見上げて、ようやく今日が新月の夜だということに気がついた。
昨日の夜の時点で危うかった月の光を見て、今日か明日というのはわかっていたつもりだった。
でも少女自身が、一緒にバザーに行こうと言ったから、会えると思っていた。
今までに何度も新月の夜を迎えていたし、雨の頃は連日会えない日が重なったこともある。なによりひとりでいる夜は少女と過ごした時間よりも多いのに、今日はなんだか胸騒ぎが止まない。
待っている間も、来ないとわかってからも、落ち着かない気持ちは変わらなかった。
近いうちにまた会える。夜空に月の切れ目が見えるときは必ず来る。
言い聞かせるまでもないことが、頭に何度も浮かんだ。
考えなくちゃいけないことは他にもあるのに、まるでそのことだけを追い出そうとしているように、無意識に目をそらしていた。気付かなくちゃいけないことがたくさんあるのに、眩しく目に入ってくる色とりどりの世界に浸った。
得たものがあるということは、代償が伴うこと。
偽りの幸せに酔って見失ったものは、もう手を伸ばしても届かないほど遠くへいってしまった。
いつまでも逃れ続けることはできない。向き合わなきゃいけないことに目を向けるのが遅ければ遅いほど、痛みも大きくなることにずっと気づけずにいたんだ。




