ー幕間 3ー
ー狭間の館にて 旅人の想いー
日が落ちて、あたりは夕闇に包まれていた。ここにきた最初の頃の庭とは一風して、青が強く景色に透き通っている。夜は、物思いに耽る時間。心が仄暗さと混ざり合って、少しだけ不安定になる時間。
昼間は誰かと笑いあって、悩みや不安を滲ませずに振る舞える人々も、夜のこの色と月の細やかな光の前にはすべて包み隠さず心をさらけ出す。
後ろ向きな自分に、長い時間をかけて向き合える。
悪魔は書庫で、少女は桜の木の下で、私は庭の外れで。この物語の終結に向けて、静かに時間を流していた。
この後、彼らがどうなるのか聞かなくてもわかる。もう、愛は失われてしまった。痛みに泣く彼女の声を聞くことができなかった、彼の手によって。彼が少女を憎しみを持って壊したことで。崩壊に進むだけの話を、私は綴らなければならない。
それが役目だ。
長い長い旅路の途中で彼らに出会ったことは、きっと運命だったのだろう。
話の中で二人に関わった時点で、ここに来ることは必然だった。
静かに笑みを零す。もう抱くことのない感情のおかげで、こうしていい出会いに繋がった。彼らにしてみれば勘弁して欲しいと思うだろうが、なんだろう…私は少し嬉しいのかもしれない。
一番大切なものを失う悲しみ。愛し愛されることの恐怖と、自分の欲望と相手を尊重することとの板挟み。捻れる心が切なくて苦しくて、それでも抗いがたいただ一つの感情に人々は執着する。
複雑で難しくて矛盾だらけの心を、それでも尊いと思うのは、根底を知ればそれが愛以外の何物でもないとわかるから…
青年は、確かにぐちゃぐちゃでデタラメで、自分の気持ちも保てないような情けないひとだけれど、少女と過ごした時間を思い起こせばただひたすら彼女を守ろうと必死だった。
『恋心ではない。そんな綺麗な感情じゃ、絶対なかった』
そう語った悪魔を思い出す。だったらどんな言葉でその感情を表すのか聞いた。そうしたら、少し考え込んで彼は言った。
『ただあいつを、縛り付けておきたかっただけ。今ここにいるのも……罪悪感があるだけだ。贖罪の機会を与えて欲しくて…』
俺は…許されたい。
誰に、何を…?
少女に、すべてを。
許されたとして、それが一体なんになるというのだろう。そんなこと、彼女は望んでませんよ…許すとか許されるとか、それ以上に彼女に受け入れて欲しい想いがあるはずです。
きっと許されることを望んでいる限り、彼は彼女のことが永遠にわからないだろう。ここにいるあの子に、これから先もずっと気づけないままだ。
だったら、私ができる手助けは一つしかない。彼が望む最後の願いのために、私自身の罪滅ぼしのためにできること…やることがある。
二人の答えを、道の先を、愛の果てを知りたい。
この世に存在するありとあらゆる形を綴って、そうして導く自分の答え。ずっと探し求めているもの。正直それは、二の次だけれど…この役目の終着点は、もっと深い別のところにある。
美しい庭園の風景を眺める。ただただ穏やかな心だけが、今の自分の全てであることが嬉しかった。忘れたことのない過去の光景を思い出しても、それがどれほど凄惨で悍ましくても、たった一つの心が…
最愛の人への思いがあるだけで、闇に飲まれることはない。
「彼も、それに気づけていたら…」
何かが違ったかもしれない。
皮肉なことに、押し隠すべき気持ちを間違えてしまった。少女のためを思う気持ちを隠してしまったがために、苦しさとすれ違いが生まれた。彼なりに、見返りを求めてしまう可能性を潰したかったのだろうけど…
自分で勝手にやることに見返りを求めることもどうかと思うが、自覚していただけよかったのだろう。
特にあの心の状態じゃ病みすぎて、いろいろなことを少女にぶつけてしまっていただろうから。
唯一、彼に寄り添うことのできる少女に。
ふと、彼から聞いた役目のことを考えた。他人の恨みつらみを引き受ける、という役目。言葉だけで聞くと想像しづらい。具体的なことを聞いたが、それでも馬鹿馬鹿しいという感想以外でてこなかった。神様とやらは、なにが目的でそんな役目を彼に託したのか不思議でならなかった。
誰かにぶつけたくて堪らない感情があることはわかる。たとえそれが、ぶつける相手に関係のないところで生まれたものであったとしても、鬱憤が溜まって爆発する時は唐突に来る。家族の話でも、父の言動で溜まった母の負の感情は、子どもたちに向いた。だから子どもたちは、それを父母に返した。
そういう突発的に抱く感情や、僻み妬みで生まれるぶつけられる謂れのない感情を、青年が代わりにその対象になってやる仕組みらしい。そうして『存在するもの』に危害が及ぶことを避ける。確かに、それなら復讐の連鎖は生まれない。彼はどこにもぶつけようがないのだから。
本来なら、と今は言うべきなのだろうが。
そんな何のメリットもない役目に囚われて苛まれて、一つの魂としての当たり前の感情を知らないまま、ようやく得た救いでさえも彼は失おうとしている。
彼が引き受けた全てを、今度は少女が引き受けることになるのだろう。今度こそここで、連鎖は止まる。少女の深い心によって、ただ彼を助けたいという願いのもとで、どんなに激しく辛い感情を背負っても、彼女は心を見失うことはない。
泣いて欲しくないって、言ったら良かったのに。自分から滲み出る黒い感情を晒したくないと、言ったら良かった。
外に出るな、街に行くな、そんなことばかり言っていたら、彼女は苦しいに決まってる。どうして、と問う彼女に、何もできないだろなんて。嫌われたいのかって言ってやりたいくらいバカな返答だと笑い出したくなった。
不器用なんて言葉じゃ済まされないほど利己的で、外面だけは本当に悪魔らしい。
でも…これから自分の素直な思いを知るだろう。そして、それをたくさん我慢することになる。彼自身が言った、『罪悪感』のために。自分の気持ちを知った上で、それを言葉にすることは許されないと思うこと。自分の気持ちがわからないまま、漠然とした思いだけを抱えること。一体どっちのほうが辛いだろうか。
せめて最後の物語の中で、固まってしまった心が緩く溶けるような幸せが訪れることを願う。青年をずっと苦しめてきた役目による黒い声も、そのための葛藤も、すべてから解放された今、残された少女への恋心だけをあたためて。
そして彼が訪れた幸せに気づいて、大事にしていくことを願う。今の私には、それが許されるだろう。
失うかもしれないなんてこと、きっと誰もが考えていたくない。けれど、いつ失ってもおかしくないのも事実で、幸せであればあるほど、それは頭の隅に追いやってしまいたい現実だ。
でもそこから目をそらしてはいけない。ずっと一緒に居られると疑わずにいてはきっと後悔する。世界も知っていることなのに、目先の幸せに囚われて、多くの人はそれでもなお、大切なものを傷つける。傷つけて失ってから気づいて、悲劇を語る。それはとても愚かしく無様だ。
だから。彼女がそこにいてくれたことで自分がどれほど救われたのか、忘れてはいけない。
そこには罪悪感とか、許されたいだなんて思いはいらない。そんな感情は自分勝手で傲慢だ。
ありがとうと、確かな愛情を表す言葉を伝えるだけで幸せになってくれることの幸せを、彼にも知って欲しい。
相手が自分に求めたことが、自分が相手に望んだことであること。それがどれほど幸せでかけがえがないことなのかを知る。パズルのピースが合わさる瞬間。
いつか失うと知っている恐怖の中で、それでも許された時間すべて、彼女の幸せを願うこと。その尊さを知る。
この物語はもうすぐ終わる。
それでもまだ遅くはない。今ふたりは、ここにいるのだから。




