Part-8
ー 悖る心のお話 ー
もしもあの時、ああしていれば。
意味のない後悔ばかり積み重なっていく。考えても仕方ないことに思考を奪われる。前を向くだけの強さも、過去を振り切るだけの勇気も、青年にはない。あるのは、弱くて脆くてぼろぼろな心だけ。
自分の中のほんの些細な光に気づいていたら、あるいは。
自分の願いを犠牲にする覚悟ではなくて、共に追い求める選択肢もあったことに気づけたら、あるいは。
どうにもならなくなる前に、少女への気持ちを自覚していたなら、あるいは。
矛盾だらけの気持ちは、ただ簡単な一言で全てに答えがでる。
痛みも苦しみも辛さも悲しみも、ほんの些細な安らぎをも感じることができていたのなら、気づく機会は幾度もあった。
けれど、たとえ気づいたって、自分で認めることを拒んだのなら、青年にもう救いはないだろう。
ー*ー
肌寒い空気を泳ぐように歩く。昼間のどこかの街を、そうして歩くだけで石畳から滲み出た黒い感情を掬った。
見えるもの全てがくすんで汚れている。街灯も、ベンチも、店も、垂れ下がった旗も、噴水から溢れる水も、馬車も木も人も、靄がかかったみたいだ。カンバスの上に乗った黒炭の線を、指で擦ってぼやかした風景のよう。
相変わらず自分の頭の奥では無数の声が飛び交っている。
聞こえてくるはずの鳥の鳴き声や人々の話し声、馬の蹄の音も扉が開閉する時のベルの音、水が流れる音。
金木犀の甘い匂い。パン屋の前を通るときの香ばしい匂い。落ち葉が湿った匂いと、花壇の土の匂い。
感じるはずのそれら全てがうるさい声にかき消されてわからない。きっとそれらに触ったところで、秋の空気に晒された冷たさしか感じないのだろう。
灰色にしか見えなくなった世界と同じように、この手も、耳も、鼻も、冷たさと、怨嗟の声と、血の匂いしか感じなくなっているのだろう。
こんなに濃い闇を纏っているのに、全てが俺を素通りしていく。すれ違うその瞬間にも新しい感情を押し付けていくのに。
「見えてますよ。我には、あなたが。醜く歪んで怨恨そのものに取り憑かれたあなたの姿が」
突然声がした。
頭に直接、渦巻いていた声の一部として響いてくる、聞き覚えのあるしわがれた声。とっさに振り返ったが誰もいない。周囲を見ても、めまぐるしく景色がまわるだけでその姿はなかった。
「誰を探しているんです?見えなくなってしまったんですか?悲しいですねぇ、ずっとここにいるのに」
「っ…どこに…!」
「あなたの心の中ですよ。闇に染まったあなたの中は入りやすい。居心地もよくてずっと住まえそうだ」
後ろから声がついてくる。それから逃げるように走り出した。
「やめろ…っ、出てけ!」
「抗ったって無駄なことくらい、わかっているでしょう。ねえ…そんなことよりいい知らせですよ…もうすぐあなたの願いが叶うんです」
甘い声音だった。塗りつぶされたはずの感情をゆるりと撫で下ろすような、しわがれた声が、その時だけ何故か艶めいた女の声に聞こえた。
振り切ろうと走っていた足が止まった。
首筋に纏わりつくようなねっとりした声は止まない。
「もう嫌でしょう…?こんな思い。投げ出してしまいたいでしょう?願いを叶えたいでしょう?」
「……自分で、選んだ。役目を果たすって決めた…今更願いなんて…」
願いなんていい。言おうとした声が喉元につかえた。
本当に…?
そう思っていたなら、今もまだ走ってこの声から逃げ続けているはずだろう。
「あとひとつ、壊すだけで願いが叶ったのに。どうしてそれを一度投げ出してしまったんです?誰がそうさせたんですか?」
「誰も…俺が自分で…」
「あの少女でしょう。彼女が現れたから、あなたはあの光に当てられて心を捻じ曲げられた」
違う。そんな苦しい思いは…
「しなかった?本当ですか?色の見える彼女が羨ましいと思っていたでしょう。あなたに色を取り戻させると言いながら、何もしてくれなかったでしょう。彼女のことを思って、あなたは自分の中で相反する思いをいくつも抱えたでしょう」
少女がいなければ。悩みも葛藤もなかった。この役目に戻ることも、それに対する迷いもなかった。分裂しそうな矛盾した思いをいくつも抱えることはなかった。今頃、この世界は四つの愛を失って、あるべき形に戻って、俺は色を取り戻していたはずだった。
「あなたの始まりの感情を教えてあげましょう。彼女が汚れた世界を見て、悲しむことがないように、彼女が自分の役目を肩代わりして、今あなたが感じている苦しみを負わなくて済むように。確かに自分で決めたことでも、少女のことを思う気持ちが大きかった。あなたが今そんなに苦しんでいるのは、あの少女のせいですよ。でもその代わりに少女はあなたになにをしてくれたんです?」
違う…そんなふうに思ってない。恩を売りたくてしてたわけじゃない。そんなふうに思ったら見返りを求めてしまうと自分でわかってた。だからその気持ちは、ずっと閉じ込めておくつもりだった。自分で勝手に嫌がって、自分で勝手に始めたことだ。少女のせいじゃない。違うのに…そう思わせるように、無理やり頭に絡む声が言った。
闇に隠していた自分の汚い感情が少しずつ露わにされていく。
「…もう十分でしょう?」
そっと語りかけてくる。誰かに言って欲しかった言葉。優しい声音で、寄り添うようにそっと。
「十分、あなたはやったでしょう?もう自分の願いのために生きたっていいんですよ」
緩く心を撫でられる感覚がした。全身の力がふっと抜けて、肩が軽くなる。
もう、謂れのない恨みを引き受けなくてもいい。もういろんなことに苛まれて、正解を探さなくてもいい。他人の幸せの形を考えなくてもいいし、役目を捨てることに勝手な罪悪感を抱いて苦しまなくてもいい。
今まで感じていたどっちつかずの気持ちも、全部自分のことだけ考えて選んでいい。
どろりとした液体がゆっくり心を侵食しながら垂れてくる。蝕まれている感情がなんなのかわからないまま、それは勢いを止めない。
「どうしたら…いい」
「…簡単なことです。あの少女から、色を貰えばいい」
それは具体的にどんなことをすればいい。少女からといったって、今までそんなようなことを言っておいて結局なにも取り戻せなかった。
「あの目、特別な力が宿ってるんです。あなたにもあれの色だけはわかったのでしょう?」
「…ああ」
「あの目を通してなら色を見ることができた。ならそれを抉って喰らえばいいんです」
思ってもみなかった答えに固まった。確かに、ずっと欲しいと思ってた。言われてみればあれだけ色が見えていたことに納得がいく。特別な力ってことは、それを取り込めば俺は失った色を取り戻せるのか。元どおりの世界を見られるってそういうこと…?あの目を、抉って……
「…四つの愛は壊れていない」
「…………。その話をした時は、あなたの願いがなんなのかわかりませんでしたからねぇ…試してみる価値はあるでしょう」
そういえば、こいつの願いは再び世に闇を蘇らせることだった。闇の存在が堂々とその性を全うできる世界に戻すこと。俺の願いとこいつのそもそもの目的が繋がっていたかどうかは不確かだった。
ならば少女の目を貰うというのは、確実に俺の願いを叶えるための行為。そこに世界を巻き込むことはない。
ー*ー
暗い宵闇の刻。フードの中は完全なる闇で、その表情は伺えない。月明かりを浴びながら、いつもと変わらない世界を見下ろしていた。
『四つの愛は壊れていないだろ』
青年の声を思い出す。
ああそうだ。まだ壊れていない。けれど今夜にでも、それは失われるだろう。そしてあなたの願い通り、渇望していた色を取り戻す。愚かにも自覚のないまま、捻れて曲がって歪んだ心で大切なものを壊して、全てを理解すると同時に後悔に打ちひしがれて苦しむだろう。
間違いなく確実に、この未来を実現させるために布石を着々とうってきたのだから。
どれだけ甘く囁いたって、欲しい言葉を与えたって、心の闇を払いはしない。むしろそれは闇を助長させて、取り返しのつかないことになるように仕向ける。そうして絶望と後悔を抱えて一生己を苛み続ける。
自分がしていたことの報いを知るがいい。
人の心を奪って縛り付けることの罪深さを知るがいい。
悩み悔いて、中途半端に役目を手放したことも、自分の自覚のない恋心のために再びその役目に戻ったことも、この手のひらで踊らされていたにすぎない。そうやって苦しむように仕向けられていたのだと知ってももう遅い。
同じ苦しみをあの残虐非道な悪魔にも思い知らせてやる。
絶望しろ。そして死ね。
お前に幸せな瞬間など訪れてたまるか。これは報復、復讐だ。甘んじて受けてもらおう。
人を嫌って憎むことが、失われた愛の証明だった。その気持ちを忘れたくないと願った心を奪われた。そのときお前が与えた痛みと苦しみを、その身をもって贖ってもらう。




