Part-7
ー 軋んだ歯車のお話 ー
永遠に終わらないと、あの魔物は言った。これから先もずっと続く苦痛だと。もしもそうなら…いつかきっと慣れがくる。現象が下火にならなくたって、俺の方はそうじゃない。心が死ぬ瞬間が来て、もうそこから何も感じなくなる。それまでの辛抱だと思えば、まだ、大丈夫。
夜が来てひとりじゃなくなれば気も紛れる。
自分で選んだことだとしても、今はまだこの役目を全うすることに反発した心がある。けどこれがいつか当たり前に思う日が来て、そうしたら、少女と一緒に少しずつでも、自分の願いを追うことに気持ちを割けるようになるかもしれない。こうして不確定な未来のことを想像できているのだから、まだ…まだまだまだまだ、壊れきってない。大丈夫。
館に戻ってきて、少しだけ庭を歩いた。最近花の手入れを全然していなかったからあちこち元気がない。新しく種を植えてもいないし、少女が来てからというもの、今まで自分がひとりだったときにどんなふうに過ごしていたのか思い出せなくなってしまった。
今日死んでいった命と、そこで生まれた憎悪が体を重くする。目を開けていても閉じていても、耳を塞いでも塞がなくても、襲い掛かる悪意の塊はそう変わらない。意識が他に向かない限り、ずっと付き纏ってくる。
声を上げて叫び出したい衝動を無理やり押さえ込んで、バラの生垣に隠れるように座り込んだ。両腕で膝を抱いて、親に叱られた子供みたいに膝に顔を埋める。
今日は少女に会えそうにない。
顔、見られたくない。
きっと酷い。無傷でいつもと変わらないけど、滲み出ているものにきっと少女は気づく。気づいてほしいから、見せられない。
ほら、また矛盾してる。
ここに戻ってくるだけじゃ、約束を違えたことになってしまうかな。月が沈む前に戻ってくるって約束だった気がする。だったら…会わないままでも…
『……だって、あなたがいないから…この館はひとりでは暗いの…』
少女の声を思い出して、少しだけ顔を上げる。夜のせいで血の色になった薔薇がそばで眠っていた。細い茎で重い頭を支えきれずにくたりと項垂れて見えた。
足に力を入れて立ち上がった。暗い道を、一歩一歩確かめながらゆっくり進む。次の瞬間には足元がなくなって、果てのない奈落の底にでも落ちていきそうなくらい、景色は闇に溶けていた。林の向こうに沈みかけた月の光は些細なもので、もう頼りにはできない。
軋む音を立てて館の扉を開く。庭よりも暗い館の中に重苦しい音が木霊していった。奥まで伸びていく音を無意識に追いかけて、その後に聞こえるはずの軽く弾むような足音を探す。
それが聞こえてくると、二階のあの部屋を目指して自分も歩き出した。
「お帰りなさい…!」
廊下の角から少女がぱっと姿を表す。
淡紫が俺を捉えた瞬間、その顔から微笑みが消えた。
大きく目を見開いて、その場に立ち尽くす。その表情を見て、やっぱり今日は会わなければよかったと思った。驚愕、衝撃、困惑、表現できない感情がありありと顔に浮かぶ。
「血、が…それ、どうして…」
かすれて震えた声が言う。怯えて動けない様子の少女に一歩ずつゆっくり近づいた。怖くても視線を外せないのか、距離が近くなるにつれて少女の目線は俺の顔を追って上に向く。泣き出しそうな顔を見下ろした。怪我が治っても、服についた血は消えない。
「怪我、したんですか…?」
「ああ。もう治ったけど」
この話はしたくない。何を聞かれても何を言われても、応えたところで理解できるはずない。
そんな自分の思いとは反対に、少女は苦しげに訳を尋ねる。
「どうして?こんなに酷い怪我…一体何が…」
「そんなこと聞いて何になる…原因がわかったところでどうにかできるわけでもないだろ」
「……。どうもできないけど、だからって見過ごせない。最近ずっと思いつめていたでしょう?何があったんですか?」
最近ずっと?前から俺の様子が変わったことに気づいていたけど、気づかないふりしていたのか?その理由を今まで尋ねなかったのは、少女なりの気遣い?だったらなんで今回も、知らないふりをしてくれないんだよ。
前だってそうだった。自分でなにもできないくせに、感情に任せて飛び出して、行って見たことに勝手に傷ついて泣いて。
「何も。ただ役目を果たしていただけ」
「役目…?こんな、怪我を負うことが…?」
少女の声を鬱陶しく感じた。痛みなんかわからないくせに苦しげな顔をする視線が煩わしい。
「お前だって望んだろ。よく知りもしないで、俺みたいな役目がほしいって願った。それがこれだ。事実を知っても、まだほしいって思う?」
静かに、でも確実に腹の中が波打っていた。徐々に高くせり上がってくる勢いを止めるための箍が軋んで壊れそうだった。
もうこれ以上話していたくない。選ぶ言葉がひとつひとつ刺々しかった。そうしたいわけじゃないと、言った後で言い訳めいたことを思う。
「よかったな、自分じゃなくて。こんな痛い思い、しなくて済んで」
自分が望んだ役目がこんな仕打ちを受けなくちゃいけないものだって知ってたら、間違っても欲しいだなんて思うもんじゃない。
その言葉を受けて、少女はぎゅっと目に力をこめた。そして静かにいった。
「そんなふうに思ってない…」
俯いて、服の裾を掴む。熱の籠った声だった。
「そっか。お前は痛みなんて感じないもんな。前に火傷した時だって平気だったから、いくら体をずたずたに引き裂かれたって大丈夫なんだろ。恨み言を浴びせられながら、そいつが一番辛いと思う仕打ちを憎悪が悲しみに変わるまで受け続けることだって、お前には容易いことなんだろ?」
言葉が止まらない。言えば言うほど、なんで自分はこんなことを続けているのかと苛立ってくる。
なにがきっかけで始めたことなのか、問いかければ答えは後悔したくないからという。なにに対して…?結果待ちの自分を改めたくて、後悔しなくて済む方を選んだはずが今はこうだ。
少女との約束を守ろうと、会いたくない気持ちを抑えて会いに来た結果猛烈に後悔してる。
「…そうだと言ったら、ここから出ることを許してくれますか?」
感情を押し殺した声で少女は淡々と言った。頬に流れていた涙を拭おうともしないで、まっすぐこっちを見つめてくる。
いつからそんなに泣いていたのか、動揺してすぐに答えられなかった。途切れることなく流れ続ける涙を見てようやく自分が少女をひどく傷つけたことに気づく。
「…約束を破棄したいってこと…?」
こくんと頷く。細い顎の先から雫がまたひとつ落ちた。
何をしようと、もう何も変えられない。少女がまた街に出て行こうとするのを止める気さえ起きなかった。
好きにしたらいい。俺だって今日、違えようとした。できなかったのは、寂しげな声を思い出したからだけど…もう俺に、少女をここに縛り付けておくだけの理由がない。もうなんだっていい。もう疲れた。考えることをやめてしまいたい。どうせ矛盾だらけで、自分が本当はどうしたいのかだってわかんないんだ。
「いいよ。俺も…少し一人でいたい」
救いにはならなかった。少女を見ても、話をしても。ならもうここにいてもどんどん自分の中の闇が濃くなるだけで、意味ないだろう。
たぶん、こんなふうに傷つけることが多くなる。泣くのをみるのが嫌だと思ってたのに、今は自分が少女を泣かせてる。ひどいことを言ってる自覚がありながらそれを止められないのは俺も嫌だから…会わないほうがいい。
少女に一歩近づいて、流れ続ける涙に自分の袖を押し付けて拭った。
「ごめん」
今の自分の状態とか、言い訳はどうでもいいけど傷つけた。
たとえ体の痛みはわからなくても、泣くってことは、心が痛がってるわけで。それは目に見える傷よりタチが悪いことを知っていた。知っていたのに、自分の口から出る言葉を飲み込めなくて少女に当たった。みっともない。もう本当に…自己嫌悪と後悔に塗れて消えてしまいたい。
「…今…お前を傷つけることしか言えない…言いたくないって思っててもうまく抑えられないから…しばらく会わないで」
心にもないこと言えないし、口をついて出る言葉は全部本心だ。傷つけたくないって思いより、溜まっている色々を吐き出してしまいたい気持ちのほうが強いから、取り返しがつかなくなる前に離れよう。
こんなふうに…本心と本音を隠して、我慢して、それとうまく折り合いをつけながらでも関係を続けていくのか。
そうまでして誰かと繋がっていたいと思うのか。いや…ひとりでいるために、誰かの存在が必要なのか…自分を見てくれる人がいると安心できるから…
本当の孤独というものを味わったことがあれば、あんな押しつぶされそうで息苦しくて、知らぬ間に消えていくことほど怖いことはない。ひとりでいたいと望めるようになったのは、自分がひとりじゃない証拠。誰にも認識されない虚しさと怖さは、どんな酷い怨嗟の声より重く黒い闇。それだけは、もう二度と味わいたくない。




