Part-5
ー 色縋りのお話 ー
ひとつ、またひとつ。血が垂れて染みが広がるように、闇に心が覆われていく。抱かれるはずのなかった感情の箍が外れてしまった人々の心は、そう簡単に幸せと悲しみだけに染められない。
3つも愛を失った世界は酷かった。言葉の裏に隠された悪意が露骨に見えた。他人を傷つけても報復を恐れない傲慢さが醜く蔓延っていた。
もとから人を恨むことが控えめな人間が、それに喰われていく。傷つけて傷つけられて、被害者と加害者の境界も曖昧に歪みながら、誰もが自分を正当化している。恨みや憎しみ、怒りだけじゃない。嫉妬や僻みも、誰かにぶつけたくて仕方ない全てをその身一つに引き受ける。
吸い取った瞬間になだれ込んでくる数多の感情によって、自分の心がべったりと塗りつぶされて見えなくなった。
それは全部、やるべきことを怠っていた自分のせい。
今抱えているこの汚い感情が重いのは自分のせい。
青年はそう何度も言い聞かせた。
いわれのない憎悪は青年の心を歪めるだけで、明るい未来に導きはしない。
確かにあったはずの少女への思いも、覆われた心に埋もれてもうわからない。
再び役目に戻った大義を失って、青年の心は今度こそ修復できないほどに壊れていった。
ー*ー
薄明かりの中に影が二つ浮かびあがる。開いた窓からひっそりと冷たい風が忍び入って髪を揺らした。
少女は、最後に見たときと変わらない姿でそこにいた。あの連日の秋雨が終わってから秋も深まって随分経つが、自分が館にいなかった夜もここに現れていたのだろうか。
白い髪に、少女が動くたびにきらりと飾りが光る。
久しぶりに見る柔らかい輝きに体がふっと浮いたような感覚になった。何日ものあいだ、無心で世界を飛び回っていたから忘れていた。その瞳にとらわれている間は、不安にならなくてもいい。荒々しく今も心の深淵で飛び交う無数の感情は、この静かすぎる館の夜に浚われて緩やかになっていく。
少女はじっと俺を見つめた後、ふっと目を細めて微笑んだ。
「もう会えないかと思いました」
鈴のような声で言う。
ずっと待っていたんですよ。少しだけ眉を下げて、また言った。
「…ここに来てたのか?」
「はい。でもあなたがいなかったから、ひとりで街を周ってたんです」
無意識に顔をしかめる。あれだけのことを目の当たりにしながら、まだ街に行こうという気があるのか。もっとひどいものをみるかもしれないのに。
「…行くなって言っただろ」
「……でも、やっと自分の役目を見つけたから…」
なんで…?お前がそんなことしたら意味ない。少女が自分みたいな思いをするのが嫌で、館に帰らずに世界中をまわってきていたのに、勝手に出て歩き回っているなら意味ないじゃないか。
「やめろよ」
自分で想像していたよりずっと低く圧のある声だった。喉の奥が熱を持っている。言葉に魔力でも宿っているように、少女は固まったままこちらをみつめていた。
「街に出るの、やめろ。お前は今まで通りここで本を読むか月を見上げていたらいい」
言い切ると、少女は一度瞬きする。重そうなまつ毛が目元に影を落として遠ざかる動きがとてもゆっくりだった。
その一度の間にまた淡紫がわずかに変わる。刻々と変化をやめない神秘的な瞳に見つめられると、息がつまる思いだった。特に今は、自分の見られたくない部分も見られているようで落ち着かない。
「……だって、あなたがいないから…この館はひとりでは暗いの…」
とくんと小さく心臓がなった。それは少女が現れる前に自分が感じていたことだった。
翳りの濃い瞳が、犇いていた感情を緩やかにしていく。
「…前より長くはいられない。でも、月が沈む前にここに戻ってくるから…」
ここで、帰りを待っていてほしい。
少女がいるとわかっているなら、それが導になるから。
「約束ですよ。私も、もう街に行かないって約束します」
そう言いながら左手の小指を出した。自分のを少女のそれに絡めて、きゅっと力を入れる。
約束した小指から視線を上げると、少女はとても優しく微笑んだ。それをみて安心して、自分も頬を緩める。
冷たい指先がするりと離れた。急に肌寒さを感じて窓に目をやると、やけに澄んだ満月が星の明かりを飲み込んで光を放っていた。
「…綺麗…」
呟く少女の横顔は、最初と変わらない憂い顔だった。揺蕩う髪に見え隠れして、表情は少ししか見えないけど、その少しで十分だった。
そんな顔をさせているのは自分だ。
役目を欲しがった彼女から、それを奪うようなことをしたから。でも仕方ないと言い聞かせるしかない。こんな役目、ないほうがいい。
「今日は、なんだかたくさん流れ星が流れてる」
「……お前の目は、俺と違って光も多く見えたりするのか?」
「あなたには見えませんか?」
「月が明るすぎて、周りの星は見えない」
銀河や星雲の靄も見えるけれど、新月や三日月の夜に比べて星明かりは少ないと思う。もしも少女には全て見えているのなら、夜が暗いと思うことなんてないと思うのに、どうして館にひとりでいるのをそう感じるのだろう。
それきり、少女は黙った。
俺に見えない色の話になると、二人の間の空気が微妙にずれる。俺に色を取り戻させることが役目じゃないとわかった今、そのことにちょっとした居心地の悪さを感じているのかもしれない。
血の色を思い出せたのだから、同じような方法できっと他の色も思い出して、見えるようにできるんだろうけど、生憎、失うまでは見えて当然だったものに強い印象はなくて、結局赤…それも血の色しかわからない。
失くしたのは世界が綺麗になったせいだと、四つの愛を失えば元通りの世界になって見えるようになるのだと、それだけを思って、あの魔物が掻き回すことを止めなかった。確証はないけど、賭けるだけの価値と可能性のある話だった。でも動き出した直後に、月夜に俺の目の前に現れた少女の存在が、それを阻んだ。
もうその願いを諦めなくてはならない。心を殺すことに決めたのだから、いい加減、囚われてばかりいられない。少女のことは考えないで、ただ自分の役目だけに集中しよう。自分が果たしていれさえすれば、もう悲しむことはないのだから。
「今日、ちょっとだけ不思議なものが見えたんです」
静けさにそっと声を添える少女を見遣った。今までの話と違うらしい。背の低い少女の目は伏せられて見えたけれど、口元が微笑んでいた。
悪いものではなかったのだとわかると、また夜に目を向ける。下で妖精たちの光が淡く踊っていた。ここ最近、庭の手入れを怠っていたからか、ずいぶん数が少ない。枯れ花が多いのだろう。
「さっき、小指を絡めた時に思い出したんです。街で見かけた男女の左手の小指に、細い赤い糸がつながって見えました。あれはなんだったんでしょう…」
運命の赤い糸か…。誰が結んでいるのかわからない、不思議なもの。伝承ではそういう妖精が繋いでいるという説がある。見えたり見えなかったり、運命といいつつ他と関係を築いていたりするから、妖精のいたずらと言われているけれど…
ただどんな本にも載っていることは、それを切ると悪いことが起こるということ。
「赤つがりって言うらしい。つがりは、糸で結んで繋いだもののこと。よく恋物語で運命の相手の表現として出てくるし、実際に俺も、繋がっているもの同士をみかけたことある」
「…みんなに繋がってるものなんですか?」
「さあ。自分のは見えないらしいし、他人のだって、あれば必ず見えるものでもないんじゃないか?」
「……」
自分の左手の小指をじっと眺めている少女にどうかしたかと聞いてみると、一瞬だけ俺を見上げて、すぐに目を逸らした。
「あなたと繋がってたらいいなと思って…」
「俺と?どうして?」
「…そうしたら、離れていても、会えない昼間も、あなたのこと少しなら感じていられるのかなって」
「……感じていたいの?」
よく意味がわからない。そうすることでなにか変わることがあるのだろうか。繋がったら、少女が見ている景色も見えるようになるとか?でも、そうだったら俺の見ているものも伝わってしまう。そんなの絶対駄目だ。
「っなんでもないです…!忘れてください…」
嫌だと言いかけた口が止まる。何故か泣きそうに目を潤ませて、少女は慌てて言った。心なしか、頬がいつもより淡く染まっている気がする。もしも少女と繋がっていたら…俺は、あの感情の慟哭に押し潰されそうになっても光を失わずに居られるのだろうか。
そこまで考えたところで、頭が完全に否定する。窓枠に置いていた手に力が入って、気づけば眉間が引きつっていた。そんなことあるわけない。赤い糸が実際どんな効果があるものなのかわからないのに、そんな想像をしても仕方ない。
なににも期待せず、ただ決めたことを淡々と。
思考を止めて無心にならなければ、また疑問を抱いてしまうだろう。正しいとか正しくないとか、幸せとか、願いとか。
俺が役目に戻ったのは、もう二度と後悔しないため。ただそれだけ。少女は関係ないから。全部自分の意思だから。




