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旅人と黄金色の文字  作者: 白藤あさぎ
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      Part-3




   ー 落涙のお話 ー




「もう、どうにもできないのですか…?」


少女が小さく呟く。鎮火されつつある家から目を離して、少女に目を向ける。建物が壊れる音でほとんど聞き取れないほど小さな声だったけれど、確かな響きをもったそれは不思議と耳に入ってきた。


「ああ」


起こってしまったことはもう変わらない。そして始まってしまった連鎖も、もう止められない。

このまま何も変えようとしなければ、世界は失った感情を取り戻してやがて色づいていく。このまま、全てを見過ごしていけば。


「お兄ちゃん…おうち、もえちゃったよ…ままとぱぱは…?」


舌足らずな幼い声が、そう言った。泣き止んだ妹がまだ突っ立ったままの兄の腕を揺すった。少年はゆっくりと首をまわして、妹の方を見つめる。その目は燃える家を見ていた時と同じ。空虚でなにを見ているのかわからない、そんな目だった。


「もういない」


淡々とした声で言う。躊躇いも憂いも、何一つ感情を滲ませない声で、妹の腕を掴んだまま離さずにいた。

その言葉の意味を妹がどうに取るかはわからない。言葉通りの意味だけれど、端的であって婉曲的でもある。


悲しむと思った。漠然としかわからなくても、両親がもういないということを聞いて、妹はもっと涙を流すとそう思った。

けれど想像していたよりもずっとこの家族の闇は深くて、だからこそそれが取り払われた時の反動は大きい。

妹は歪んだ笑みを浮かべて、その瞳を爛々と輝かせた。


「じゃあもう、わたしをたたく人はいない?お兄ちゃんとふたりで、ずっといっしょにいられるの?」


ごしごしと涙を拭って、兄を見上げる。兄は相変わらず無表情だったけれど、ゆっくりはっきり頷く。

こんなにも露骨に、家族が壊れていくさまを見たのはもう随分久しい。揺らぐことのない絆があるはずなのに、一体どれほどの歪みを溜め込めばそれをこんなふうに壊せるのか。


このくらいの歳の幼児が、絶対的存在であるはずの親を失って嬉々としている光景は少し痛い。それでも、この二人にとってはそれが幸せの形なのだと納得する。ひどい思いをたくさんしてきたこの場所から、呪縛のような関係から解き放たれたのなら、たとえ世間一般で見る不幸でも、幸せといえるのだろう。

だから…今この二人が抱いている暗い感情をどうにかしようとは思わない。これから生まれる恨みの連鎖を止めようとは思わない。


心は抑え込むべきじゃない。それは本人が望まない限り、本当に不幸なことだから。


「いつまでここにいる気だ…?」


少年とその妹を、苦しげな顔でずっと見つめたままの少女に声を掛ける。どんな光景を見たのかは知らないが、自分が関与していないことでどうしてそうも辛そうにするのだろう。

自分の身にふりかかったことじゃない、痛みも知りようがないのに。自分の火傷の痛みを感じないくせに、どうして。


「…だから、行かなくていいと言ったのに。お前はずっと、あの館から見える景色だけを眺めていればよかったのに」


思えばまた胸の内に息苦しさが蘇る。


「…まやかしだったのですね…あんなに綺麗に見えていた世界は、もう汚れている」


すっと潤んだ瞳から白い頬に涙が伝った。

長い睫毛の影が落ちたと同時に、音もなく零れた。


「……綺麗なままがよかったか…?お前が見せられた光景が一切ない世界がいいと思うの…?」


少女の頬に手を伸ばして、冷たい肌に乗った濡れた温もりを拭う。息苦しさはずっと止まない。喉元まで締め付けられて声が掠れた。

俺はようやく、自分の役目に背く理由を見つけられた気がしたんだ。言い訳と言われても、逃げと言われても、自分のためにいいことを選んだ。

それが正当化することだったとしても、色を見るために、元ある世界に…心持つもののあるがままに任せることにした。傍観者でいることを選んだ。


でも…


少女は泣いている。


なんの力もない、自分の存在理由もわからない少女が、自分の痛みを感じることのできない少女が、元の形に戻りつつある世界に涙を流して嘆いている。

ただそれだけのことが、自分の中でとても大きなことだと思い知った。泣くことに意味なんてないし偽善的であるのに、突き放すことができない。


少女の横髪に光る髪飾りが銀のシルクのような照りを放っていた。これを贈った祭りの夜、初めて見た少女の微笑みを思い出す。もうあの笑顔を見ることができないかもしれない。見れないどころか、こんな世界に嫌気がさして月夜に現れることがなくなるかもしれない。

少女にとってこの世界が見るに堪えない残酷なものに映るなら。


起こったことは取り消せない。戻せない。壊された家族の愛も、少年が憎悪から家族を殺したことですでに失われている。それがたとえ正当性のあった攻撃だったとしても、意志があってそうしたのなら結果は変わらない。


でも、これからさき起こりうる恨みの連鎖は止められる。たとえば、この兄妹が今後出会う人々に対して、両親を思い出して闇にとらわれないようにすることができる。命を奪うことへの抵抗が薄まった心を抑えることができる。本人がそれをどう感じるか、そんなのはおかまいなしに負の感情を心から無くす。俺ができるのはそれだけ。


「ごめんなさい…この涙はあまりに自分勝手です…最初から、何もできないことを覚悟の上で来たのに」


自分で涙を拭って、まっすぐ少年たちを見る。

その心が完全に今回のことに仕方ないと見切りをつけたのではないことは、考えなくてもわかる。まだ、炎のように激しい葛藤を抱えている。

揺れる淡紫の瞳が、月の光を帯びたような色に変わった。見る角度によって多彩に変わるそれが、今は(うれい)の心を映したように沈んでいく。


いつか本で読んだ。紫は、青と赤を混ぜてできる色。

一番初めに少女の瞳の色を見た時を思い出す。寂しげだけれど、強くて優しい色だと思った。そんな感覚はとうの昔になくしていたはずなのに、その時確かにそう思った。今、そう感じた意味がわかる。


「…助けてって…聞こえたの。あの火事の煙を見た時……」


少女はゆっくり歩き出す。しっかりと手を握り合った兄妹の元で、大して身長の変わらない彼らに視線を合わせるように膝をついた。


「だから…なにかできると少しは期待してた……でも、違ったから…私は、あなたのような役目が欲しい」


その瞬間、耳の奥で何かが割れる音がした。薄氷か、それともガラスか、少女の声そのものが弾けて響く。なにかの力が宿ったように、急に少女の姿が淡く輝きだした。月が沈みかけているときに似ている。でも違う。直感でそう思った。


小さな手が、兄妹のものと重なる。


何が起ころうとしているのか、自分の本能は理解していた。

重なった手から、繋がったそこから黒い塊が一気に少女に流れ込んでいく。少年と妹の、癒されなかった傷の数々と行き場のなかった怨嗟の感情が渦巻いて全部吸い込まれていく。激しく叩きつけるような衝撃を感じた。黒い塊は、抱いた本人のその時の感情そのもの。それがどれほど深く濃く重いのか、触れてみて初めてわかる。


白い姿が、真っ黒に染まっていく。

自分の中でガラガラと何かが崩れ落ちる音が止まなかった。


呆然とその光景を見ているだけで…

壊されていく光に手を伸ばすことをせずに。




まだ、自分が必死になって役目を果たそうとしていた頃


目の前で起こっていることを、自分の身で何度も…何度も何度も体験した


今あの小さな体の中で、いったいどれほどの声が交錯しているのだろう




気が遠くなるほどの年月。神様の願いのために、それが正しいことだと信じていた。自分の心が壊れていたことにも、世界が光の陰影でしかなくなっていたことにも気づけないまま。いつしか自分の意思と関係なく世界に染み出した闇を掬うようになった。


苦しい役目だったのに、それに背いている今も苦しさは変わらない。


月が沈む。


その合図もわからないまま、激しい黒い渦は少女を飲み込んだまま消えた。




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