Part-2
ー お菓子の家のお話 ー
蹲った小さな背中を、どうすることもできずにみつめていた。その瞳が何を映したのかはわからない。相変わらず家は炎にみまわれて中の様子はわからないし、それだけじゃここで何が起きたのかもわからなかった。
熱風が肌をうねって舐めるように流れていく。
火を消そうと街の人間たちが躍起になって走り回っているほか、これはもうどうにもならないと、諦めた顔で離れた位置から見ているだけのものたちもいた。
その中で、そのどちらでもない三つの影をみつける。
ひとつは、目の前の惨状に耐えきれずにしゃがみ込んだ少女の影。
あとの二つは、少女より幼い面立ちの小さな子供だった。兄妹だろう、兄の方が妹の手をぎゅっと握って離さずにいた。ほとんど真上を見るように首をぐっと傾けて家を見つめていた。瞬きもせずに、その目に映しているものが本当に目の前の光景なのかわからない、空虚な視線だった。
妹の方は泣きじゃくって震えていた。兄に左手を繋がれているせいで、垂れ流しの涙を片手だけで拭わなくてはならなかった。
子供がぬいぐるみの片腕を持って歩き回る姿みたいに、妹は兄に引きずられているようにもみえる。
強い光にあてられて、それらは全部黒く焦げて見えた。
少女は…ことの顛末を知ったのかもしれない。その場にいなくとも、火事から事件を知っても、人ならざるものはその地で起きた出来事を感覚的に見てしまうことがある。意図して見る見ないを決められるわけではなく、頭の中にふって湧いたイメージのように、時には鮮明に、時には断片的に、過去が流れていく。
強い思念があるときはそれが起こりやすい。
起こってしまったそれを、もう誰も元に戻すことはできない。
蹲る少女の肩に触れた。小さくて薄くて、自分の手がとても大きく感じられた。炎に近いところにいるせいか、容赦なく熱が襲う。白黒の世界でも火事の激しさは変わらない。
両手で顔を覆っていた少女が、顔を上げて俺を見る。傷ついた淡紫の瞳が揺れていた。炎の光のせいなのか、それとも別の何かがそこに揺れていたのか、そのどちらでも、やっぱりと落胆する。
傷つくとわかっていながら、無力であることを嘆くとわかっていながら。
ここまで走ってきたのは自分自身だというのに、どうしてそんな顔をする。
「…視たのか…ここで起きたこと」
黙って頷く。堅く口を引き結んで、なにか言葉にすることを恐れるように押し黙っていた。ここに来たことを後悔していればいいと思った。そしてもう二度と、世界のこんな汚れたことを見ることがなくなればいい。
綺麗な世界はもうない。それは夢か幻か、存在していたかどうかも危うい誰かの妄想だったかもしれないのだから。
もう、その世界を知るものはいない。
愛と悲しみだけの綺麗な世界があったことを語るものはいない。
「それで、役目は見つけた?」
苦しげに眉を寄せる。堅く握った拳が震えていた。俺と目を合わせることはせずに、足元を睨みつけていた。ここに立ってここに存在していても、目の前の現実に踏み込むことはできない。それを否が応でも突きつけられて、少女は絶望と後悔と、誰かを責めたい気持ちと葛藤していた。
それをただ静かに見つめて、何も感じなくなった自分の心を思う。
この目に少女を見つけた時、もう知ってしまった後だとわかったら、ここにくるまでに抱いていた焦りや不安は影も形も無くなっていた。
あれだけ激しく突き動かしていた思いが、ぽっかりと空に飲まれたように無い。
そんなことより、壊されたのが四つのうちのなんだったのか、それが気になる。残るはストルゲーとエロース。この状況からして、おそらくストルゲーの方だろう。家族の象徴である家が燃やされ、子供二人が生き残った。
もうこれで、この一家に収まることなく人々は家族に対しても憎悪を持つことができる。
また、連鎖が生まれる。
友愛よりももっと深く濃い闇が蔓延する。
家族だから。
生まれ落ちた時から強く繋がれたその絆は、断ち切ることが困難で一度壊れれば修復も難しい。家族というつながりが持つ世間一般に定着した考えのおかげで、人が自覚しているよりもずっと重く太い足枷になりうる。それに救われることが多くとも、それに裏切られ苦しめられるのもまた多い。
傷つけ傷つけられようと、価値観が違おうと、家族というくくりの中にある深く根強い愛というものが、他人との間には許し難いそれらを受け入れ溶かしていく。崇高なように思えるけれど、そう言ったものを窮屈と思わない瞬間がないなんてことはありえない。
おそらく愛というよりは執着、しがらみといった類の情なのだろう。
ー*ー
その家族には欠陥があった。
何をきっかけにして両親の不和が始まったのか、少年には思い出せない。小さなことの積み重ねが徐々に心を侵食していったのだと想像する。人々の心はもうすでに犯され始めているから、他人に対する不平不満は形になって外に現れるようになって、この家族もそれが例外じゃなくなっていたのだろう。
家族で囲む食卓で、母の父に対する小言が多くなっていた。少し前なら苦笑して済ませていたことも、最近母は不愉快を露わにして言う。仕事から帰ってきた父にしてみれば、疲れた中でそんなことを聞かされても適当な相槌しか打たないのは至極当然の反応だった。それがまた母を苛つかせる。
向かい同士に座る二人の隣で、母側に座っている幼い妹の顔が少しずつ俯きがちになっていた。
自分の前に置かれたプレートの料理を全部食べきるまでここから立ち去ることもできずに、味のしない料理をひたすら口に運んだ。
妹を気にすることで、少年は自分の気を両親から逸らすことに必死だった。両親が階下で口論する声の中に、爆弾が仕掛けられていないことをただひたすら願った。具体的にどんな言葉があっちゃいけないのか、漠然としたニュアンスしかわからなくても嫌なことであるのは間違いない。
ちょっと前までは…まだ母がいろいろと我慢を溜め込めるだけの余裕があった頃は、少年と妹の存在は二人にとって癒しであるはずだった。お互いに不満を持ち合っていても、子供に向ける声音と笑みには甘く優しい心があって、そのときだけ、二人は確かに繋がっているはずだった。
けれど、それも次第に捻れ始める。
まだ駄々をこねる年齢の妹に、母が初めて手をあげた。
妹の首が母の手に合わせて左右に勢いよく振れる。名前を呼ばれて振り返る時なんかとは比べ物にならないほど速く、弾かれた頭が目を見開いてこっちに傾いたとき、背筋がぞっと総毛立った。
怖いと思った。
あんなに簡単にぐらぐらと頭が動くのに、母は勢いを止めない。そのまま首が千切れたらどうしよう。次叩いたら、こっちに頭が飛んでくるかもしれない。泣き止まない妹を、甲高い声でなにか喚きながら叩く母は、母の形をした何かだった。
怖かった。すごく怖かった。
見ていられなくて、壁際に蹲った。全身が震えて、涙だか鼻水だかわからないしょっぱいものが口に入ってきた。
助けたい。助けたいのに、あの手が自分を襲うと思うと怖い。床にぺったりついた足はもう立ち上がりそうになかった。
喉の奥が熱い。絶え間ない叫び声が頭に直接響いて割れそうだった。
その時間が過ぎても、僕らはずっとその場で泣き崩れていた。しゃくりあげる音だけが部屋に響いていた。声が自分のものだけだとわかると、ようやく顔を上げた。床に投げ出された妹の手足を見つけて、四つん這いで近寄る。目を閉じた妹の目尻は幾筋も涙の跡がこびりついていて、ほっぺがすごく赤かった。鼻血に髪の毛が絡んで固まっていたし、ぼろぼろだった。
こんなに痛いと訴えていながら、妹はあどけない寝顔で眠っている。それがたまらなく苦しくなって、呼吸に合わせて小さく上下する胸元に縋り付いて泣いた。あの恐ろしい時間が終わったのだと、今は安らかな時間なんだと、それだけで涙が止まらなくなった。
あとで触った妹のほっぺはすごく熱かった。火傷するくらい、熱かった。
そのときの傷は、自分たちが自覚しているよりもずっと深くて大きかったんだと思う。妹はそれから固く口を閉ざすようになってしまったし、両親のいる間は極力自分たちの部屋で静かに過ごすようにした。波風を立てないようにびくびくしながら、ひたすらいい子でいた。わがままを言わない、お手伝いもちゃんとする。母が怒りそうな父の不始末も先回りして片付けるし、妹が不意に涙を流すときは必ずそばにいるようにした。
両親の喧嘩に僕らの名前があがるときも、前ほど息苦しくは無い。自分たちが原因で二人が今あんなに怒っているんだと、初めは嫌で嫌で仕方なかったそれも、耳は拾わなくなり始めていた。
父は酒に溺れ、母はヒステリーになっていく。怒号と何かが割れる音は毎日続いた。それでもまだ、この家の中に温度があると感じるのは、自分では抗えないしがらみのせい。もう幸せな家族に戻ることはできないのに、それを許してしまいたくもないのに、どこかでそんなことがあったらいいなと願ってしまう。街中ですれ違う家族の形を羨ましく思ってしまう。
両親によって壊された幸せを、両親によって取り戻すことができるという事実が、少年の心に完全に闇を落とした。
それ以外のことに目を向ければ、いくらでも突破口はあったはずだった。周囲に助けを求めることもできた。幼い妹の手をとってそこから逃げれば、あるいは血の繋がりはなくても、それ以上の繋がりを手に入れることができるかもしれなかった。あらゆる可能性というものは、すべてが過ぎてからようやく気づくことができるものも多い。確かに家族という特別な関係を再構築する者たちには心に翳りがあるものばかりだろう。何かしらの事情を抱えて、同じ境遇の者たちが集まって理想を築く。それでも、一番最初の家族にこだわりを持つことはないのだと、年を経ればわかる。
少年は幼すぎた。そして哀れにもその心はもうズタズタだった。自覚の無いまま崩壊は進んでいき、事件は起きた。
加減を知らない手が母の体を突き飛ばす。不意をつかれた母は料理の途中で握っていた包丁を手放した。何が起こったのかまだわかっていない様子で、ゆっくりと体を起こす。困惑した顔の母を、少年は光の無い目で見つめていた。竃にかけられた鍋を両手でひっくり返す。熱く煮えたぎった湯がじゅっと音を立てて母の肌を焼いた。首を絞められたみたいな耳を劈く悲鳴と、逃げられない痛みにのたうちまわる姿が滑稽で、少年の口元にはうっすらと笑みが広がった。
落ちた包丁を拾い上げて、母の体に跨がろうとしたときだった。
甲高い悲鳴を聞いて、父がキッチンに入ってきた。惨状を見て戸惑い立ち尽くす父に、咄嗟に包丁を投げた。学校の授業でボールを投げるようにはいかない。柄を掴んで胸のところを狙ったけれど、わき腹に浅く刺さって、切り込みを入れたくらいで、肉の抵抗に負けて落ちた。けれど衝撃を与えるには十分だったようで、急な痛みに傷を抑えて膝をついた父が目を見開いてこちらを見つめた。ぎょろぎょろと焦点の定まってない、ぐらついた視線。まっすぐ父に向かっていき、まだうまく力を入れられない体を力の限り突き飛ばして竃に倒した。頭から炎に突っ込んで、母よりも低く唸って叫び声を上げる。
髪の毛が焦げる匂いがした。頭から火をふいて、父は立ち上がろうにもすぐに膝から崩れ倒れる。母に目を向けると、気を失ったのか死んでいるのかわからなかった。ただいつの間にか悲鳴を上げなくなっていたし、動かない。瞼が爛れて目がいつもより大きく見える。化粧なんかしなくたって、十分はっきりした目元になったと思う。まわりの皮膚はどろどろだし、綺麗じゃないけど。母の髪から覗く、父がいつかの結婚記念日に贈ったピアスが光る。
二人がとても動ける状態じゃないことがわかると、少年は次のことを考えた。
調理台の上に置かれていた油をキッチンからダイニングの方にばら撒いて、酒瓶を離れたところから投げ入れる。
大きな音がして火が一気に勢いをつけてあたりを取り囲む。急いで二階に上がろうと玄関の方に出ると、両親の声を聞いて様子を伺おうとしていたらしい妹が降りてきていたところだった。
何も言わず、妹の手を掴んで背後に迫る熱から逃げるように家を出た。
掴んだ手が痺れた痛みを訴える。ふと見ると、両手に水ぶくれができていた。いつできた火傷か悩んで、気づく。鍋を掴んだ時、あれはとても熱かった。自分の皮膚が焼かれている痛みも感じないほど夢中だったようだ。きっとこの傷はずっと治らない。そして、今日のことをこれから先何度でも思い出す。
それから焼けていく家を眺めた。赤く燃え滾る炎が全てを飲み込んでいく。
楽しかった思い出も、憎らしかった日々も、絡まっていた足枷も全部炎に焼けて黒こげになって仕舞えばいい。
この先どうすればいいのかとか、そんなの考えてない。ただ自分を苛んでいたいろんなものから一気に解放された浮遊感だけが少年の体を満たしていた。圧迫された息苦しさもなにもかも、上がる煙と一緒に夜空に霞んでいく。
隣で泣いているだけの妹も、きっとこれから先笑顔を取り戻す。奪われた幸せを、固まった心を、少しずつ取り戻して溶かしていける。
ゆっくりとまばたきをして開かれた少年の瞳に、炎が揺らいだ。
大好きだったものが大嫌いになる瞬間は一瞬ですか?




