Part-8
ー 箱の底のお話 ー
この世界で、一番最初に人が持った心は一体何だったのだろう。パンドラの箱という神話の中では、よくないものが充満し始めたのはそれを開けてしまってからだ。だとすれば、始まりは今のこの世界のようにとても美しかったのだろう…神様が望んだのは、パンドラの箱が開かれる以前の世界を取り戻したかったからかもしれない。
青年は思う。
傷つけ傷つけられる人の心は、たとえ神様であろうとこの世界からなくすことはできない。感情を与えたその瞬間から、それは変えようのない定めとなった。けれどその心をどうするのか、そこから生まれ得る感情のコントロールは委ねられる。だとするならば、それが争いを生む憎しみや恨みに変わらぬように、だから片翼の天使は生まれた。
人々の黒い感情を全てその身に引き受け、光の方へ導く。この地に滲むあらゆる怨嗟の声をずっと、とどまっている思念の声すら吸い上げて、長い時を経て世界を綺麗にしてきた。
けれどそうして降り積もっていく闇に、天使の心はやがて歪み始めた。
世界を見ていくうちに、自分の役目に疑問を抱く。幸せがどんなものなのか、わからなくなった。その人にとっての幸せは、自分が考えるものと同じなのか…清く正しく諍いもなく、笑顔ばかりの日々が、あるべき幸せの形なのか…
あるべきとか、正しいとか、本物とか、それはいったいなんだというのだろう。
そんなものを、神様に与えられた使命だけで生きている自分が決めてしまっていいものなのだろうか。
復讐の心を無理やり奪われた人間は、そこから立ち直るために…幸せになるために身を裂かれる思いで怒りを捨てて悲しみにくれる道を選んだ。
失う痛みに耐えかねた人間は、もう二度と人を思うことはなかった。たったひとりで生きていくことを選んだ。
綺麗になっていく世界は、同時にとても冷たくなっていく気がした。透明なダイヤモンドのように、キラキラ輝いて美しいけれど、冷たい。
かといって、人が人を傷つけ合うことは痛ましく、いいことではない。ときにはなんのいわれもなく悪意だけで奪われる命があることも知っている。私利私欲のために、権力を振りかざして他人を不幸にしようとする傲慢さが誰にでも生まれ得ることはわかっている。
なにがよくて、自分に何ができるのか、考えても答えはでないまま。ただ生まれた役目として心のうちから吸い取った闇ばかりが積もり、誰もその深さに気づけず、どうにもできずにやがて天使は心を失った。
ー*ー
いつも見える風景が、街の方から立ち込めている黒い煙に汚されていた。この暗い空の上で見えづらかったから最初は気づかなかった。
「…あれはなんですか?」
少女が声をあげる。なにか異変があるらしい。読んでいた本を置いて、同じように窓の外を見ると、僅かに夜空に揺れる煙が見えた。その煙を辿って視線を下に降ろすと、林の向こうがちらちらと明るく光っている。
「…火事…?」
「えっ…」
なにか嫌な予感がした。今までは…と言っても二回だけだが、前触れのようにあの魔物が不気味な気配を揺らして現れていたのに、今回はそれがない。だとしたら単純な事故か…でも、最初に感じた嫌な予感は確かだ。闇を感じるようにできているこの体が、なによりの証拠。
また起ころうとしている。
それも、今ここに少女がいるときに。じわりと胸になにかが擡げた。この世界で起こっていることを少女が知るかもしれない不安、焦り、罪悪感。知らないままでいてほしい思いが、一気に頭を支配する。
窓を閉じて、カーテンを閉めた。月明かりを遮ったせいで、部屋の中は蝋燭と少女自身のぼやけた明かりだけになった。周りが暗いせいか、彼女の放つ光がいつもより眩しく見える気がして、目をそらす。
街の様子を見に行かなくちゃいけないと思うけれど、今行くと言いだしたら少女も付いていくと言うだろう。また見過ごすことになるけれど、それは今さらだ。もう今日は帰れと、そう言おうとした時だった。
「私、様子を見てきます」
まっすぐな声で少女は言う。いつにもまして真剣で、初めて少女の中の決意というものを見た気がした。それは簡単に曲げられるものでもない、光を宿すもの特有のまっすぐな決意。少女も何かを感じ取っている。
「は…?なんで?行ってどうする」
止められないと、その目を見たらわかる。それでもそう言わずにはいられなかった。いいものなんてない。いけばきっと…傷つく。綺麗な世界はないと知りながら、どうしてそこに行こうとするのかわからなかった。
「…行かなきゃいけない気がするんです。なんだか嫌な感じがして…」
「…だったら、ここにいろ。そんなところにわざわざ行かなくていい。何かできるわけでもないんだろ」
少女は何も言わない。ただその視線が静かに自分を見つめているのを感じていた。そして、きっと気づいている。俺に後ろめたいことがあることも、なにが起ころうとしているのかも。
目を合わせることができずにいる俺の傍を通り過ぎて行こうとする。
「お祭りの日の夜…あなたは役目を見つけてみたらいいと、そう言いました。だから私は私の思うようにします。私たちはこの世界に存在するけれど、いていないようなもの。なら、なにもできないことを恐れはしません」
まるで揺らぎのない心は、もう何を言ったところで変わらない。
羨ましいと、そう思った。色が見えることにではない、この与えられた役目の差に。できることがあるのに何もしないでいる俺とは心持ちが違う。助けられるとわかっていながら、傍観することを選んでいる。だったらいくらでも無情になれるのに、そうすることに罪悪感を抱くのも苦しい。
少女にはわからない。
今のこのジレンマをぶつければ、だったら傍観者をやめたらいいというだろう。罪悪感だなんて偽善的な感情、捨てたらいいと言うだろう。
矛盾しているこの心を育て続けた結果がこの苦しみだ。悪魔でありながら、そうなりきれずにいる自分に苛立って、少女のような真っ当な光に縋って甘えたくなる。こんなに厄介なもの、いらなかった。心なんてなければ、こんなに苦しい思いはしなくて済んだ。この魂が燃え尽きるまで、役目を無心に果たすことができた。
頭のどこかでわかっていたことだった。
最初に少女に対してあたたかな気持ちになったときから、それが生まれて初めての感情だったこと、どうしようもなく縋って求めている心があったこと。それを感じた時から、長く続くものではないとわかっていた。
わかっていながら、抱かずにはいられなかった。
離れていく背中を見つめて、その終わりを悟る。穏やかな時間は、もうきっと二度と訪れない。だからこそ抱いた気持ちがどうしようもなく尊く、幸せであったことを思い知る。
耳の奥で玄関の扉が閉じるのを聞いた。
少女の光を失った館は、夏だというのに酷く寒く感じる。
また、呑まれそうになる。
彼女が走り出した先は果てのない闇の虚。小さな背中が飲まれていく。
揺れる銀の髪飾りから零れた光が、少女の残り香だった。
ここまで拙い文章にお付き合いいただき本当にありがとうございます。
第2話 夏 はこれにて終わりになります。
次回、幕間を挟みまして、秋に移ります。
またお会いできたら嬉しいです
白藤あさぎ




