Part-6
ー 恋咲く夜花のお話 ー
本の中で、何度も読んだ。人が恋におちる経緯も、その時聞こえる音というものも、様々な表現で、けれど同じ現象を綴られた文章。恋とか愛とか、好きとか嫌いとか。登場人物はなんらかの方法で相手にそれを伝えようとする。苦しみと悲しみを味わいながら、すれ違いと運命に振り回されて、それでも想いの成就を願う。好きな人の特別になりたいと願う。
綺麗なままおわる物語は少なくない。それどころか、小さな頃はそれがまるで真実で、たどり着くべきたった一つの結末だと刷り込まれる。それが幸せで、美しいから。物語の中で、確かに恋や愛というものが壊れて砕かれることはある。それが余計に共感性と切なさを植えて、ハッピーエンドを飾る。
けれど多くの場合は、ハッピーエンドにたどり着く前までが現実のことが多いのだと、この世界をずっと見てきた青年は知っている。
成就したとしても、様々な事柄が二人の心を揺らがせ足を取り、互いに立っていられなくなれば保身のために別れる道を選ぶ。悪意ある周りからの影響だったり、環境がそうさせたり。原因はいろいろだけれど、すれ違いが重なれば抱いた尊い想いも簡単に崩れるのだろう。
ー*ー
灰色と、黒と白。その濃淡で埋め尽くされた人混みの中を悠々と歩く。隣でずっとはしゃいだ声をあげる少女に気をつけながら、人が人を無意識に避けていく合間を縫った。 雪洞というらしい灯りは紙質に覆われているからか、ぼんやりとした仄暗さで夜を照らしていた。けれど張りのある物売りの声と、ほかの雑音が多いせいでこの場は異様に明るく見える。
喧騒の中をゆっくり進み歩く傍、隣をいく少女にそっと視線を向ける。どういうわけかいつもと違う、白地に桜の花を裾あたりに散らせた浴衣を着ていた。白い無地のワンピースじゃなくて、今日のための服。腰元は濃い色なのか、黒に近い灰色の帯が巻かれていた。髪も上で纏めて結われて、いつもと雰囲気が全然違って見える。
買ったばかりの白鳥を模した飴細工を、もったいないといって食べられずに握ったまま、目に写るものすべてに感動しているようだ。
淡い紫の瞳の中に、祭りの明かり全てを取り込もうと見開いている。その煌めきは夜空の星を閉じ込めたように眩しかった。
「楽しそうだな」
「はいっ!こんなに賑やかなのは初めてです!」
振り返って満面の笑みを向ける。無邪気な姿にふと力が抜けてく気がして、自分もこの雰囲気を楽しんでみようと思った。
見てみれば、妖精たちも屋根の上や少し離れた丘の上で光を散らして踊り明かしているようだ。マルシェでもやっているのだろうか。そういえばいつからだったか行かなくなったな…一度向こう側に入れば時間の流れもなにもかも違って、こっちに戻ってくるのに手間取るから…
この世界に嫌気がさし始めた頃は、よく逃げ場所にしていた。
「あなたは楽しくありませんか?」
「…さあ…よくわからない。でも、お前が楽しいならそれでいい」
「……私も、あなたが楽しいと嬉しいです。だから…」
ふと目を伏せる。首筋に流れた後れ毛にそっと手を伸ばして、耳にかけた。少女の目線と同じくらいになって覗き込んだ顔はいつもより少し大人びて見える。
「だから…?」
「…えっと…だから、あなたも笑ってくれたら嬉しい」
伏し目のまま、消えそうな声で少女が言った。
「……お前みたいには笑えない。それに…楽しいって思えないと…」
「色があったら、あなたは笑顔になれるんですね」
まっすぐに見つめられる。世界が、今見ているこの紫みたいに綺麗な色ばかりだったら…
でも…あの日から見えるようになった赤…思い出した色の片鱗は、自分が思っていたようなものではなかった。それにたぶん、自分に見える赤はあの血の色に近い赤だけ。赤にもいろいろあって、蝋燭の色は見えなかったから…きっとそう。
「…ごめんなさい…」
「…どうして謝る?」
「……あなたの色を取り戻すのが、私がここにきた役目だと思っていたのに…私、なにも役に立ててない」
飴細工の棒を両手でぎゅっと掴んで、少女は今度こそ俯いてしまった。思いつめた横顔は、少女に似合わない。
細い腕を掴んで歩き出した。
「あ、あの…」
「言っただろ。最初から期待なんてしてない。お前がそんなふうに思わなくていい」
少女には月から与えられた違う役目がある。ただそれだけのこと。
花火が良く見える小高い丘を目指す。もうすぐフィナーレが始まる。人たちが寄り付かなくなる川の向こう側。野原に咲いた花畑が、星と月に照らされて地上にも天の川ができる、星の降る丘。
せせらぎの音の中に人々の声が遠ざかっていく。
「わぁ…!林を抜けるとこんなに視界が開けるんですね」
「…館から出たことなかったのか?」
「はい。庭までしか。でもいつも二階から見上げていた夜空が、どうしてか近く見える気がします…」
窓の枠で夜空を見ていたからだろう。瞳の中で煌めく光が、今にも零れそうだ。桜を見上げていた顔も、そうだった。少女はふとした時に、とても寂しそうな顔をする。
この世界を綺麗だという時の…泣きそうな顔。
「…これから好きに街を出歩いてみればいい。お前の役目も、そこで見つかるかもしれないだろ」
現れる場所があの図書館ならそれはそれで構わないけれど。そこから先はどこへ行こうと自由なのだから。
「…でも私、あなたのところにいたい」
「どうして?」
「……はっきりとはわからないけれど、やっぱり心の奥では感じるんです。駄目ですか?」
しゃがんで野原の花を摘んでいた少女が顔を上げた。そのとき、祭りの明かりがふっと消え始めた。近くから遠くまで、連なっていた明かりが順々に一瞬で。さぁっと丘の上を駆ける風が、静けさを運んでくる。
「明かりが…」
「…おいで。もうすぐ花火が上がる」
もう少し良く見える場所へ。川面にも花火がうつるとっておきの場所。手を引いて丘を登る途中で、長くて高い音が響き渡った。光の筋が夜空を縦に登っていく。その光が一瞬途切れたかと思うと、轟きが耳の奥を伝って体に響くと、大輪の花が咲いた。
暗い夜をパッと照らす。
弾けた光がパラパラと落ちて、続いて二つ、三つ。白い花が弾けて散って、雨の音とともに降り注ぐ。
「わぁあっ…とても綺麗!ねえみて!川面にも花火が見えます!」
「ああ」
さかさまに写った花火が水面に揺れていた。水の中で、光は上に溶けていくように見えた。少女には、花火はきっといろんな色に見えていて、その瞳に惜しげもなく光を散らしているのだと思う。
響く音は絶え間なく続く。
高く登っていく光を追う横顔を見た。煌めく瞳に吸い寄せられるように手を伸ばす。
「…ここにいてもいい」
花火の音にかき消されそうな呟きだった。頬に触れれば少女は振り向く。一度瞬きをして、ふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます…」
聞こえていないと思ったが…少女の声を聞いて、もう一度空に目を向けた。
毎年見ていた花火より眩しく見えるのは、やっぱり隣に少女がいるから。
役に立ててない、そう言った少女の声を思い出す。寂しそうで、思いつめた表情。役に立つとか、そんなことを少女に期待してない。そんなふうに…道具みたいな感覚じゃなくて…
だって、とても…こんなにも穏やかな時間を過ごせている。多分、それだけで十分で…これ以上他に何かを望んでしまうのも怖い。いつか与えられたぶんだけの代償を支払わなくてはならなくなる。今の所、自分の願いはただこの世界を、色づいた世界をもう一度見ることだけ。
それからは…それからのことは、まだわからない。でも…
少女がいるなら…無為に過ごしていた時間も、意味があるような気がする。庭の手入れも、本を読む時間も、街を適当に歩くのも…隣にいてくれたなら、今このときのように飽きることなくその瞳を見つめて、心安らかな時間だけが流れていくような気がする。
幸せ時はあともう少しで終わります




