Part-5
ー 甘露のお話 ー
「そうそう。これは摘みたての紅茶葉なんですよ」
「いい香りね〜。あなたのところの花の種はどれも元気に育ちますのよ。この紅茶も新鮮でいい味なんでしょうね」
「もちろんですよ。どうです?これは試作なので一袋差し上げますよ」
「あらあら、そんなの悪いですわ。きちんとお支払いします」
いつも花の種を買う店で、紅茶缶を売り始めたらしい。バザーの時は露店を出していなかったが、夏祭りは参加しているのか。
「私の店にはどうやら幸を運ぶ精霊がついてくれているようでして。ありがたいことに商品を開発するのに十分な資金に困ってないんですよ」
「まあ…精霊が見えるんですか?」
「いえ。ですがたまに、種の袋がいくつかなくなってる代わりに、金貨が数枚置かれているんですよ。お代のつもりなんでしょうが、貰いすぎてしまってるんです。お釣りを返そうにもお姿が見えなくて…」
店主と話す夫人の脇で、夏の種をひとつ買った。いつものように金貨を置いて、その場を離れた。まだ夜じゃないし、昼間は祭りの準備時間だから人通りは落ち着いているが、それにしてもいつもよりは断然多い。
他に、どこを回ろうか…ガラス細工、帽子、ペンダント、文房具、人形、髪飾り…どれも少女が好きそうなものばかりだな。食べ物、飲み物、デザート…こっちも、少女が興味を持ちそうなものばっかり。そっとため息をつく。あのキラキラした瞳を大きく見開いて、嬉しそうに笑うのが想像出来る。
公園に差し掛かったところで、噴水の縁に腰掛けた。水辺は涼しくていい。風に水面が揺らされて、カラッとした夏の清々しさを感じる瞬間は、あのうだるような暑さを知っているからこそいっそう気持ち良い。目を閉じれば、子供たちのはしゃぐ声とあちこちから談笑が聞こえる。セミの鳴き声が森にいるより遠く、水の流れる音が心地よかった。
かすかに頭の奥で昨日聞いたオルゴールの音色が聞こえた気がした。目を閉じた暗い視界の中に、水の粒のような煌めきの音が見える。
それに混じって、潜めた声が聞こえてきた。
「それにしても、物騒になったわよね…」
「本当ね…人が人を殺すなんて…お祭りなんてやってるけど、本当のところ少し怖いわよね」
「でも、かわいそうね…娘さんを亡くしたんでしょう?事故とはいえ、一緒にいた人を責めたくなる気持ちはわからなくもないわ…」
「…責めるだけで終わったらよかったわね…殺された女の子にも、その子のことを大切に思ってるご家族がいたのよ。気の毒だわ」
そう…だからこそ、連鎖は止まらない。大切に思い思われる存在が途切れない限り。
目を開いて、立ち上がった。ここにいても仕方ない。
涼しい場所から離れるのは惜しいが、今日は予定がある。事件があった崖下に向かった。
血はさすがに洗い流されてるか…
1日経っても赤が見えたままなのは昨日確認できたし、みていて気分のいいものじゃないからない方がありがたいが…
あたりを見渡して、誰もいないことを確認する。そして岩間から黒い霧のモヤみたいなものが染み出しているのを見つけた。昨日よりも多くこのあたりを覆っている。
やっぱりこのあたりに精霊はいないな…穢されてしまったのだから当然だけど、そうなると綺麗にしてやらないといけない。教会で自殺があったときは、神聖な領域だったから他の精霊が浄化したんだろうが、ここはとくにそういう場所じゃない。見ていた俺がやるしかないか。
こんな魔法的なことは久々だ。
もう二度と使わないと思っていた。あの事件以来、遠い記憶と重なる事ばかりだ。否が応でも俺に使命を思い出させるかのように。
足元に波紋が広がる。さあっと清浄な空気が潮風とは別の方から流れて、髪を揺らした。きらきら輝く海面の光が浮き上がって、自分の立っている場所を取り囲んだ。やがて宙のひとところに集まって一つの強い光になると、弾けるように消えた。
染み出していた闇は気配を消して、そこにはただ灰色の風景が広がるだけになった。
あれだけ見殺しにしたのに、まだこういう力は残ってるらしい。
見放されて当然なのに、まだ役目を奪われていないのだとわかって、まだ自分は戻れるのだと言われている気がして。結局俺は、俺を作った偉大な存在の所存に甘えて、願いを追っているだけ。
自分がちっぽけな存在だと思い知らされたようで嫌になる。投げやりな気持ちになるのに、まだ大丈夫という安心感は拭えなかった。
ー*ー
「おかえりなさい!」
聞こえた声に固まる。扉を閉めかけた手が止まって、背後で階段を降りてくるとたとたと軽やかな足音が聞こえる。振り返ると少女が嬉しそうにかけてきた。なにかいいことでもあったのか、笑顔が眩しい。
それに。
「おかえり…?」
「…?帰ってきた人に言う言葉だと、本にあったので…違いましたか?」
「…間違ってない、けど。なんか変な感じ。お前におかえりって言われると…」
言おうとして、急に体温が上がる。
家族みたい、なんて…
「あ…なんだかいい匂いがします…」
こんな気持ちになるのは初めてで、なんだか落ち着かない。鼓動がいつもより速くて、熱くなった体温も治ってくれない。
俺の内心なんて知らずに、少女は長い髪を耳にかけて、ポケットのあたりに顔を近づけた。
「…もしかしてこれ?」
今日買った花の種が入った袋を手に乗せて、少女に見せる。麻袋にリボンで留められた、いつも買う種より少し凝った袋。
「わぁ…!紅茶の香りだったんですね!」
「紅茶?」
間違えて持ってきてしまったのか。どうりで袋が違うと…
「お前、紅茶好き?」
「え…えっと、わかりません…飲んだことなくて…」
「俺もない。まあ…、香りを楽しむ分にはいいか…」
「飲まないんですか?」
飲む気になれない。紅茶の缶はいくつかあるけど、淹れてみても真っ黒で不気味なものにしか見えない。香りがいいからなおさらそれは引きたつ。
「私、紅茶の淹れ方わかります」
「そう。好きにしていい」
「…一緒に飲みませんか?」
通り過ぎようとして、立ち止まる。少女の淡い紫の瞳に見上げられると頷くしかなくなる。その瞳の中で、金色の目の男がひどく戸惑って見えた。
どうして、こんなにも少女は眩しいのだろう。いろんなことがあって、昼間のうちは一人で考え込むことが多いのに、夜になって月明かりに少女が浮かび上がると、そんな迷いや不安は取り払われる。
あれだけ、夜が嫌いだったのに。今はむしろ、待ち遠しい…と思う。人の心はわからないと思ってたけど、自分のことだって揺らいでばかりで、確かなことはなにもない。
「そうだな…」
「じゃあ、淹れてきますね!」
嬉しそうにしてキッチンの方にかけていく背中を見届けて、二階に上がった。いつも少女が月を見上げる窓辺のある部屋。外を見ると、街の方は灯りが大きかった。祭りだから昼間よりももっと人混みがすごいんだろうな…
そして明日は最終日だから…考えるとげんなりしてしまう。一緒に行く約束をしたわけではないから、明日行かないこともできるけど。少女といれば気が紛れるのは確かだ。
「あの、カップ勝手に使っちゃいましたけど…」
半分開きっぱなしにしておいた扉の隙間から、少女がトレーにティーセットを乗せて顔を覗かせた。構わないと告げて、窓際を離れてソファに座る。甘い香りが部屋に充満した。花柄のティーカップから湯気が立ち上っていた。相変わらず中身は黒…いや…
赤い…?
カップの底はもうみたままの血の色にしか見えなかった。脳裏に蘇る記憶に胸が悪くなる。色がわかっても結局口にすることはできそうにない。一度そのイメージが張り付くとなかなか変えられない。鉄臭い匂いではないものの、血が甘く香っていると思うと吐き気が酷くなった。
「…どうしました?」
カップの中身を見つめたまま顔をしかめていた俺に、紅茶を飲みかけた少女が瞳を向ける。
「とてもいい香りです。おいしそう」
湯気の向こうで彼女の笑顔が揺蕩う。少女は口元にカップを持っていった。赤い液体が、小さな唇のなかに流れ込もうとする。
「っ駄目だ」
とっさに身を乗り出して、カップを抑える。激しく揺らされたせいで、紅茶が少女にかかってしまった。自分の指にも少しかかって、刺すような痛みに我に帰る。
「悪い、大丈夫か?」
「あ、はい…なんだか手がひりひりします」
すっと血の気が引く。俺と同じ痛みがその肌の上にあるはずなのに、少女は初めての感覚なのか首をかしげていた。どこか他人事のような目線で紅茶がかかった手を見つめる。
「来て、はやく冷やさないと」
「え?あっ」
焦って手を掴んで、下のキッチンに連れて行った。勢いよく流しで水を出して、もとから冷たい少女の手を濡らした。頭の中で少女に火傷を負わせてしまった後悔が巡っていた。
痛みは知らないままでよかったのに…
「…どうしてそんなに泣きそうなんですか?」
静かな声が、すぐ近くでした。優しくて、縋ってしまいたくなるような声。
「ごめん…さっきも、火傷のことも」
「火傷?…これは火傷というんですね…」
ぼんやりと手を見つめて、少女は呟いた。この目にはその手は白にしか見えない。でも、多分少し赤みがさしているかもしれない。医療系の本に載ってたみたいに染みみたいなものができていないなら、大事にはならずに済んでいるのだろうが…
「…大丈夫か?」
「はい。それよりあなたは大丈夫ですか?私よりかかっていたでしょう?」
あ…そういえばそうだった。思い出せばまたちりちりと痛みが蘇る。でも大したことない。そう言おうとした口が心配げな少女の視線に気づいて止まる。冷たい少女の手に自分の指が包まれてひんやりと気持ちいい。伏せられた目が睫毛の下で濡れているように見えた。
「俺は…平気だから…」
泣きそうなのかと思った。そう思ったら、落ち着かなくなった。早く気をそらしたくて手を離す。少女の視線が俺の指先に止まったまま、まだ納得のいかない様子だったけれど、頷いてくれた。
「…さっき、びっくりしました。どうしたんですか?」
「……あの紅茶、赤く見えたから…」
「…だから、私が飲もうとした時…」
自分でもよくわからないけど、体が勝手に動いてしまった。まるで血を飲もうとしているように見えた光景が、あまりにもグロテスクに思えてならなかったから。
水を止めて、そばにあったタオルで手を拭くと少女はまた微笑みかける。そして俺の手を取ると、また二階に向かった。
すぐに冷やしたからきっと痕にはならないだろうけど…それでもやっぱり、後ろめたかった。
元の部屋に戻ってくると、少女はまた向かいに座る。
「少しの間、目を瞑っていてください」
いたずらっぽく笑う。怪訝に思いながら言われた通りに目を閉じると、なにか動く気配がして、かちゃかちゃと金属がぶつかる音がした数秒後に、いいですよ、と少女の声がした。
「さあどうぞ。もう赤く見えないでしょう?」
見ると、ティーカップの中でまろやかな白がゆっくりと回っていた。さっきスプーンでかき混ぜられたばかりの名残を少しずつ落ち着けていく。
確かに赤くないし、別のものに見える。少女が小さく喉を鳴らして飲むと、目を見開いて頬を綻ばせた。
「おいしい…!」
吐息交じりに言う。
その声を聞いて、そっとティーカップを持ち上げてみた。甘い香り、さっきと違う風味の甘さが鼻を掠める。そっと、縁に唇を当てた。温まった陶器の滑らかな感触のあとに、するりとあつい紅茶が入ってくる。
最初に感じたのは、舌先の痛みだった。熱い温度に焼かれた鋭い痛みを、柔らかい液体がなだめていく。
水のようなさらさらな舌触りではなく、少し濃厚な後味。体の中を流れ動いていく感覚のあと、芯がじわりと温められていった。優しくて安心する、そんな味。
初めて飲んだ紅茶はとても甘かった。知らなかったはずだけれど、甘いと言う味はこうなのだとわかる。砂糖の甘さとミルクの滑らかさ。
好きかどうかはわからないけど、初めて水以外のなにかを口にしたことは自分の中で大きなできごとで、きっと一生忘れられない。
赤を思い出した時よりもずっと、心の高揚が大きくて特別になった。
「美味しいですか?」
「…ああ」
向かいで笑う少女が、答えの全てな気がした。
「…明日、一緒に花火を見に行こう」
少女はそれを聞いて、さっき以上に笑みを深めて頷いた。
新しいものを見つけに行く。少女がいてくれたら、きっとそれができる。
与えられてばかりで、俺は代わりに少女に何ができるだろう。このさき失った色を取り戻すことができたとして、一緒に夜を見れる日がくるだろうか。
いつか、そんな未来を願う日が来たら…




