Part-4
ー 音霊のお話 ー
まだ、その淡い紫の瞳に世界は綺麗に映るのだろうか。
傾いた首はただ月を見上げるだけで、何を思っているのかわからなかった。少し涼しくなった夜の空気が、開いた窓からするりと入り込んで、少女の長い髪を揺らす。
俺に気付いた少女は、ふわりと笑って窓辺から立ち上がった。
なんだか久しぶりな気がした。会わなかったのは一夜だけだし、梅雨時はそれ以上会えなかったときもあった。なのに、どう声をかけていたかを忘れてしまった。何かを言わなくちゃいけない。言わなくちゃいけないのに、喉に声が詰まって息苦しい。
言うって何を?昨日のこと?昨日…、色を一つ取り戻したこと?それとももう、この世界は綺麗じゃないってこと?
話すことに躊躇いを感じるのは…少女が、あまりにも純粋だから。血だの殺人だのの話をすることに抵抗がある。そんなことがあったことを知って、どう思うだろう。
そもそも話さなきゃいけないなんて義務感も、持たなくていいものなのに。
「…どうかしましたか?」
「……」
「…?」
でも…聞きたい。色を得たのに、何も感じなかった。この優しい淡紫を見たときは、激しく心が揺さぶられて仕方なかったのに。
「…そうだ。今日、綺麗なものを月に頂いたんです」
「え…」
首にかかった鎖を持ち上げて、ペンダントを手のひらに乗せた。輝きを見るに、銀細工でできていて、凝った装飾がきらついた。春に見た桜模様の装飾だった。月明かりを浴びているせいか、その時の光景を再現しているようだ。そのペンダントトップは懐中時計のような円盤型で、上の部分に開くための仕掛けが付いている。他にネジのようなものもあって、少女はそれを摘んで4、5回まわすと、カチリと音をさせて蓋を開いた。
真珠のような音が夜のしじまに溶けていく。耳に心地よく、艶めいた音に一瞬で虜になった。都合のいいことに、心が慰められている気になる。
「オルゴールというのだそうです。あなたと一緒に見た桜が忘れられなくて…そのときの気持ちを、音に認めたら、月がこれを」
「…綺麗だな」
物悲しく、時に花びらが散り降るような旋律も混ざった少女が作った夜桜の曲。森から届く湧き水の音と夜風に揺れる葉の音がリズムを刻み、ハーモニーを織り成す。幻想的で…とても切ない。あの夜、触れた少女の温度を思い出す。泣きそうだった瞳と、綺麗だと言う声。
次第にゆっくりになって、やがて音楽は止まった。
「…思いは晴れましたか?」
「は…?」
「なにか思いつめていたようでしたから」
穏やかに笑う。ふっと息を吐くと、ゆるりと紐解かれるように、さっき詰まっていた声は自然と出た。
「…赤、見えるようになったんだ。俺は多分、お前が言うように忘れてるだけで、思い出せば見える」
「本当ですか…!?では、他の色もきっと見えるようになりますね!」
興奮して喜ぶ姿に面食らう。そんなふうに嬉しそうに笑うと思わなかった。この間、色の見える少女を羨ましがって、当たるような言葉を言ったことを後悔した。少女といても色を取り戻せるわけじゃないし、綺麗事だと思うのは変わらない。でも…あの時言われた言葉…真剣な眼差しが、自分に向けられたものだと思ったら、少し悪い気がして。
こんなふうに接してくる存在、今までいなかった。
少女は近くの本棚から一冊抜き取ると、俺の隣に腰掛けて膝の上で本を開いた。
体がわずかに触れると、ほのかに花の香りが揺らいだ。なんの花かはわからないけれど柔らかい香り。
本を捲る手をそっと包む。自分の手が震えていることに気づいて、ごまかすようにぎゅっと握った。
冷たい温度が、無性に不安を掻き立てる。
本は赤い薔薇の絵が開かれて止まっていた。
少女は驚いたように俺を見上げてしばらくすると、そっと本を閉じた。
それを脇のテーブルに置いて、もう片方の手を俺の手の上に添えた。
「…月が言っていました。記憶は、時にきっかけを得て蘇るものだと。あなたに赤を与えたのは、あまりいい記憶ではなかったのですね」
「……そう、かも」
思い出しても釈然としなかったのは、そういうことか…いいか悪いかはよくわからないけど、少なくとも…進んで思い出したいものではなかった。
「でも、赤い薔薇の花言葉は愛なんですよ。この世界では、相手に思いを伝えるのに贈り物にもするんですって」
愛、ね…。どうしても一連のことと切り離せないな。
「そういえば、この館の庭園にも赤い薔薇が咲いていましたね」
「…そうか。見に行ったのか?」
「はい。あなたを待っている間に。今日はどちらに行かれてたんですか?」
「街を歩いてただけ。今、夏祭りの時期だから…」
「夏祭り?それはなんですか?」
興味を示して少女は尋ねた。一瞬考えてから説明する。
夜に明かりが連なった道を、出店を回りながら歩く。異国の服を着たり、最終日には花火があがったり、人間たちは大いに楽しむそうだ。
この館からも花火だけなら見える。今年も、眩しい大輪の花が夜空に咲いて星々の光を遮る夜が来る。花火特有のあの音と衝撃。
「夜空に花が咲くんですか?それってどんなふうに?」
「…そんなに見たいなら、明後日の夜に見られる。晴れだったらな」
「晴れたらいいなぁ…私も花火、見てみたい」
「そうだな。お前が見たら、きっと俺よりも綺麗に見える」
少女の隣で見たら、俺も、いつもみるときより何か変わって見えるんだろう。あの桜みたいに。初めて出会った時に見た夜空みたいに。
…明後日が晴れたらいいなと、少しだけ思った。




