Part-3
ー 無情のお話 ー
生暖かい温度を頬に感じた。ついで鉄臭い匂いが鼻をつく。それ以外のことは何も感じられなかった。さっきまで聞こえていたはずのいろんな音も、声も、この空間から消え去っていた。
見ているだけで、なにができるわけでもない。自分はこの世界にいるけれど、いない。
いや…なにもできないわけじゃない。
この、始まってしまった怨嗟に終止符を打つことができるのは自分だけだ。
「あんたのせいで…!!あんたがちゃんとあの子を見ていてくれたら死なずに済んだのよぉっ!」
透明な涙でぐちゃぐちゃになった顔に、黒いシミが飛び散っていた。手と、それに握られたナイフもまだらに黒く染まっている。
死んだ娘をあの子と呼ぶこの人は、突然抱えきれないほどの悲しみと絶望に襲われて、そして潰れてしまった。
心の中に黒い感情が見える。
あってはならない、芽生えるはずのない感情が。
ゆっくりと、ナイフを受け入れた体が飛び散った血の上に倒れこむ。友愛の象徴は二つとも憎悪によって殺された。
何百年も、何千年も昔に、こんな光景を何度も見てきた。脳裏に、わずかに残る記憶をどこか達観した意識で探る。
朧げに霞んだ無数の記憶の中に…真っ赤な色を見つけた。
まだこの世界が、綺麗じゃなかった頃。奪い奪われた愛のために、悲しみは自然の流れで憎しみに変わり、また奪う。
『…忘れてしまったんですか…?世界の色を』
少女の声が耳に蘇る。
目を閉じて、そして開いた。灰色だらけの世界に、べたりと塗られた血の色。鮮やかな赤が、黒ずんだ赤がこの世界に現れた。
俺は忘れていたのか。もともと持っていたはずの色を。だとしたらやっぱり、なくした原因はこの世界が綺麗になってしまったからだ。
憎悪に支配されてしまった人間の背後に、口元をにんまりと歪めたフードの影があった。たった一つを与えるだけで、人間はあっという間に忘れていた感情を思い出して、そして…この憎しみの連鎖を繰り返す。
「これがお前のやり方か?」
人がざわめき始めた間を縫って、闇の気配を濃くするそいつに声をかけた。
「くくくっ…ええ、まあ。楽しくて仕方がないでしょう?どうです?あなたの願い、叶いそうでしょう?」
「…ああ…おかげで、血の色を思い出した」
この先、奪ったものへの復讐の連鎖は止まらないのだろう。そうして美しかったこの世界は瞬く間に穢されていく。あれだけ浄化するのに気の遠くなるほどの時間を費やしたのに、いつもいつも、何かが壊れるときは一瞬だ。そこに込められた思いも、味わった苦しみも、全て無駄だと嘲笑うように無情に叩き壊していく。
一連の事件の行く末を、見届ける気にはなれなかった。
自分の中にある、形容しがたいこの曇った感覚を早くどうにかしたかった。
暗い道を足早に歩く。
街灯があるから、室内にいるときほど夜は迫ってこないのに、なにか無言の圧力を背後に感じる気がした。前回も…一番最初に使命に背いた夜もそうだった。これからまたあのまばゆい光に晒される…
ふと、空を見上げる。
灰色に霞みがかった曇り空が広がるばかりで、星の明かりも、月の光も見えない。
今日は…少女に会えない。
それがわかると急に足が重くなった。どうしてだかわからないけれど、この胸のうちの得体の知れない感情の答えを得るためには、少女が必要だと思った。
ずっと見たかった色の一部を取り戻したというのに、こんなにも心が空虚なのは一体どうしてなのだろう。




