Part-2
ー 虚心のお話 ー
ほんの、出来心だったの。
だって、まさか本当にやるなんて思わなかったから。
でもね……もし私があの子を殺したというのなら、誰にも私を咎めることはできないわ。だって…凶器は目に見えないとても厄介なものだから。
ー*ー
その心がいつから女の中で燻っていたのか、感情を知らない人々は気づくことができなかった。女自身も、得体の知れない思いがあるという漠然とした意識だけで、正体はわからなかっただろう。
水面下で静かに、息を潜めて。しかし確実に芽生えていた友人への感情は、どろどろに溶けて汚れていた。
たとえようはきっといくらでもあるのだろう。ギリギリまで注がれたコップの水。ぷっくり丸みを帯びて浮いた水面は、爪の先の振動でたらりと溢れる。あるいはもっと激しさを伴うなら、はち切れそうなほど膨らました風船。今か今かとビクビクしながら息を吹き込んで、表面が薄く白んでくる頃にはもう手遅れ。
もたらされた結果は、この地面に広がったシミのように叩きつけられて激しいのに、きっかけは髪の毛ほどの細い糸をぷつっと切るだけ。本当にあっけなく、脆く、一瞬で。
崩れ行く音が聞こえたなら、まだ救いはあったのかもしれない。
一人の女の死体が海に面した崖下で見つかった。
水に落ちたら助かったかもしれない高さだったが、凹凸の激しい硬い岩盤に叩きつけられたようで、一目で即死だとわかった。血がゆっくり広がってできたシミじゃない。先の尖った血痕が、筋状に、まるで頭を中心に黒い花を咲かせるように飛び散っていた。
口元から血を垂らして、目は制御がきかなくなったみたいに後ろにごろりと剥いている。
崖から落ちたって… かわいそうに。あんなに綺麗な子だったのに…
足を踏み外したみたい… ありゃ助からんな…
集まり始めた人々が口々につぶやく。誰も、それが誰かの意図するところだったなんて疑いもしない。
遺体の前で蹲ってしゃくり上げるもう一人の女の、歪んだ唇にも誰も気づかない。
その二人は、街では仲の良さが評判だった。どこにいっても何をするにも、夜それぞれの帰路に着くまで、ずっと一緒だった。
可愛くて気立ても良くて、誰にでも好かれる一人と、控えめだけれど穏やかで、なんでもそつなくこなすが器用貧乏な一人。二人はお互いに足りないところを補いあって、バランス良く関係を築いていた。
かのように見えた。
女の言葉は、まるで魔法が宿っていたかのようにもう一人を崖下へ誘った。無邪気さを装って、けれど声色は黒く澱んでいた。悪意はあった。怪我すればいいと、最悪死ぬことになったって、自分は親友を失った被害者だ。それに、たとえ責められたって、私は傷つけられた。あの子に、傷つけられたのだから。その報いがあって当然だ。
目に見えない、とても厄介なもの。
悪意なく簡単に人を傷つける。だからこそ傷つけられた方は、その痛みを公にすることはできず、内側に溜め込むしかなかった。
悪気はない、という逃げ口上の狡さ。無邪気さを許容する考えが定着したこの世間。自分が加害者にされそうになった時の、許しを乞う涙の白々しさに気づいてしまってから、黒い感情を知った。
言葉ほど鋭利で残酷な凶器があるだろうか。相手の一生を握りつぶすことも、束縛することもできてしまうそれは、形ないからこそ罪深い。
行動、生き方、考え方、性格、心すら、誰かの言葉で形作られていく。
青年はそっと目を閉じた。波の音が耳の奥で聞こえていた。潮の香りに混じって鉄臭い匂いが気分を悪くする。べっとりとした空気に纏わりつかれているようで不快だった。
片翼の天使はここにも舞い降りなかった。
また一つ、この世界から悪意によって壊された愛。四つのうちの一つだったフィリア。
『信じる方がいけないの。私の言うことを全部鵜呑みにして』
虚偽の心を隠し持っていた娘と、ありのまま疑わずに全てを受け入れていた娘。そんな二人の間でも、愛があったというのだろうか。信頼関係があったのだろうか。
ああでも…そんなのは測りようもないのか。女の傷つけられた心は、もう一人を思っていたからこそ生まれ得る感情。忘れていた。愛と哀しみが、この世界では表裏一体の感情だったということを。
でもそれが、女の心の中で浄化されることなく黒く変色してしまったから…こんなことになった。
どんなにひどく傷つけられた心でも、天使がいれば、それは緩やかに哀しみを経て幸せな思い出へと至る。憎しみや恨みが抱かれたとしても、その瞬間に全て天使が引き受ける。
見なくてもわかる。この世界は、もう綺麗じゃない。考えなくたってわかる。片翼の天使は、もう誰の元にも舞い降りない。
弱い笑みが漏れた。
舞い降りる…?片方しか羽がないくせに、どうやってそれができるんだ。
死体が運ばれていくのを横目で見る視界の中に、太陽が入り込む。雲の隙間から降り注ぐ光の筋が、海面をわずかに照らしていた。陰影の濃い雲の群れの中で、それはささやかな救いの手に見えた。薄暗くなり始めたこの世界の上に、眩しくて目も開けられない光がある。
黄昏の刻。どうしてかこの時間は、諦めにも似た感情と…寂しさを感じる。何が失われても、どれだけ濃い闇が世界を支配しても、血と怨嗟で穢されても、光だけは失われない。
のまれそうになる夜にだって、光はある。
だったらもう、なるがままに任せればいい。自分の生きたいように生きて、願いを追って、叶えようと手を尽くしてたって。
それが、神から与えられた使命を投げ打つことだとしても。
太陽に背を向けて歩き出そうとした。
次に目に入った光景に、青年は目を瞠った。
死んだのはどっちでしょう




