プロローグ
***
街外れの森のなか。
喧騒から逃れて、物寂しい自然の音が溢れた森のなかに、
悪魔の棲む図書館がある。
門から大きな洋館の玄関口まで誘うように石畳が敷かれ、庭には美しい花が彩り咲乱れていた。外観は一見図書館には見えないだろう。石造りの立派な屋敷で、両開きの窓がたくさんついている。
誘われるように石畳をたどる。花々に迎えられ、まるで自分がこの館の主であるかのようだ。
指が呼び鈴のくぼみに沈むと、深い重みのある音が館内に響いていった。
ひとりでに重厚な扉が開いた。シックな色使いのホールがあらわれ、明るすぎないシャンデリアが木のやわらかなてかりを届けてくる。
ゆるりと弧を描いた階段を目線でたどると、踊り場に一人の少女が立っていた。柱の陰に隠れるようにして、そっとこちらの様子をうかがっているらしい。
その姿は、廊下から漏れる陽の光のせいかどことなく輪郭が危うく見えた。
「こんにちは。素敵な館ですね…」
声をかけると、少女は警戒を解いたのかゆっくりと階段を降りてきた。健気な足でトコトコと近づいてくる。
艶やかな長い髪が緩くウェーブして揺れる。纏うオフホワイトのワンピースは素材も相まってやわらかそうに舞った。館の雰囲気に合って、とても可愛らしいドールのような少女だ。
「…彼に会いに…?」
澄んだ声で静かに問いかける。
少女の言う彼、とは、この館のあるじである悪魔のことだろう。
「ええ。お会いできますか?」
「はい。ご案内します。こちらへどうぞ」
前を歩く少女について、窓が連なる廊下をゆっくり進んだ。二人分の足音が床の木目に浸みていく。窓の外、中庭は噴水を中心に生垣で区切りがなされ、内側には薔薇の花、ガゼボに続く石畳の両脇には色とりどりの草花が植えられていた。
曲がり角を過ぎると、さぁっと風が抜けた。急に陽の光で視界が白んで、思わず目をつむって足を止める。花の甘い香りと、木の葉の擦れる爽やかな音が世界を満たす。ゆっくりと瞼を開ければ、石のアーチが連なった回廊が続いて、そこから中庭に降りることができた。
アーチ型の影の中、足元で風に運ばれた白い花びらが戯れていた。
あまりに目に映るものに気を取られていたせいか、前を歩いていたはずの少女がいないことに気づかなかった。
このまま回廊を進んでいくべきか、中庭に降りるべきか悩んで立ち止まる。
陽の光に紛れて、少女は消えてしまったのだろうか。そう言われても納得できてしまうくらい、とても不確かな存在のように思えた。
立ち止まっていても仕方ないので、とりあえず中庭に降りて散策することにする。
屋敷を周って迷子になるよりは誰かに見つけてもらいやすいだろう。
回廊を一歩踏み出すと、暖かい陽気に包まれた。目を閉じればいろんな音が聞こえて来る。
屋敷を取り囲む森の奥から小鳥のさえずる音、噴水の水が沈む音、本当にささやかだけれど、妖精の語らいが音の合間に織り混ざっている気がした。
穏やかな昼下がりに、頬が緩む。生垣の中の白いバラに手を伸ばして、やわらかな花弁を指でそっとなぞった。みずみずしく弾力のある感触が、植物の生きている証。ここに存在しているすべてが眩しいほどに美しすぎて、虚構を見ているようだ。世界の残酷さを何も知らない、無垢で穢れのない命の群れはなぜか無性に切なく感じる。
石畳を進むかかとの音が心地いい。庭の奥にある噴水に向かって歩いて行くと、薄い水の膜の向こうに揺れている影が見えた。水面に立ち込める飛沫、大きく弧を描いて、一番上できらりと光って落ちていく丸い玉。不思議なことに、その水一つ一つが小さな魚やイルカのように見えた。立つ波も魚の背びれのようだ。
「ここに人が来るのは久々だな…」
こちらをみないままその人物は言った。
円形の噴水を回り込んで、声の主が見えるところまで進んだ。影に身を包んでいるかのような真っ黒い服。周りに彼と同じ色がないせいか、その姿はとてもはっきり見えた。
深い藍色の髪に鋭い金色の瞳。視線を真っ直ぐ合わせることには少しの躊躇いを感じる。けれどそらすことも許されないような威圧感。
「こんにちは。初めまして。あなたが、この図書館の悪魔?」
「…ああ。俺に何か用か?」
悪魔というのは、文献や物語を読む限りでは、字のごとく悪の魔物として描かれる。人の心に棲みつく負の感情の象徴とされることもあれば、神話に出てくる人のカタチをしたもの、角と翼を生やした醜い小鬼の姿であるときもある。
人の望みを叶える代わりに魂を喰らう大悪魔…とは、彼は違うのだろうか。この庭と同じ、彼も作り物のように美しすぎる。
「お話を書くことが仕事なんです。悪魔に会える機会はそうありませんから、ぜひあなたの物語を聞かせていただきたいと思いまして」
「…俺の話…?そんなたいそうな物語、俺は持っていないが。たとえあったとしても、お前に語るわけないだろう」
おかしそうに彼は目を細めて口端を微かにあげた。悪魔という割に、ずいぶん穏やかな物腰だ。それとも、そう思わせて油断させるためにしているのだろうか。けれど私も彼も、お互いに対して警戒心というものがない。この庭の空気のせいだろうが、考えて見れば不思議な感覚だ。
「……そういえば、ここにくるとき小さな女の子に会いました」
少し先の石造りの東屋を見やる。柱に絡まる白いバラ。あの可憐な少女を思い出して、隣の悪魔になんともなしにつぶやいてみる。
ほんの少しだけ、空気が変わった気がした。
「…それで…?」
「とても可愛らしい方ですね。途中で見失ってしまったのですが」
今頃どこにいるのだろう。もしかして、私を探してくれていたりするのだろうか。だとしたらそれは彼女にとって難儀なのではないかと思う。
「見えているのですか?あの少女は」
白い髪に白いワンピース。彼女を彩る色は存在しない色。そんな彼女の、唯一不自然な場所。顔の上半分、目の部分を覆った包帯を思い出して問う。私を迷いなく案内していたけれど、その姿を見ていろいろと想像することはできる。
真実を知りたかった。
そこに、私の求める片鱗があると確信したから。
悪魔は答えず、ただ静かに遠くを見ていた。
揺れる前髪の下、後悔と憂いが見え隠れする。
「…あいつは…アレは幻想。本物の彼女はもうこの世にいない」
悪魔は静かに呟いた。
「あの少女の幻想は、あなたがここに留まっていることとなにか関係が?」
「…どうかな。お前、物語を紡ぐのが仕事だって言ったな」
「ええ。いろんな世界を歩き回ってるんです」
彼は立ち上がって、そばにあったバラの生垣に手を伸ばした。黒い装束を着た彼にはよく似合う、真っ赤なバラ。不思議なことに、触れられた花はかすかに生き生きとしだしたように見えた。
私が色々問い掛けるのを、物語を聞き出そうとしていると思ったのだろう。
語りたがらない人によく使う手だけれど、彼には通じなかったらしい。
それでも、彼の物語は少しだけ、読めた気がする。
もうこの世にいない少女。
彼も失くしたのだろう。
乗り越えられない悲しみの壁。大切な存在を、失った傷。
「なら知っているか?失ったものを取り戻す方法を」
その答えはもう知っているのでしょう。静かに目を伏せて首を振る。
苦しげに微笑む顔が全てを物語っている。彼がここに…この歪な光に溢れた図書館に囚われているのは、見つかるはずのない答えを求めているから。
誰もが求めるもの。誰もが求めて、ときには間違った道に迷いこむ。私もずっと、探し続けているのですよ。
愛というものの正体を。こうして世界を渡り歩くことで、いろんな形を見てきた。目の前の彼のように、喪失感に耐えられずに面影を探し続ける人。面影を追って、命を絶つ人。奪われた腹いせに、奪う人、その連鎖の繰り返しも。呪われた方法に手を染めて、なんとか取り戻そうとした人もいた。
何百人、何千人の物語を紡いでも、わからない。
目の前の彼からの問いに、答えることはできない。もっとも、彼は答えなんて望んでいないのだろうけど。
「色々試して、それでも駄目だったんでしょう。でも、彼女の声を聞くことならできるかもしれません」
「幻想の声を聞いても意味はない。あれは俺自身が作り上げたものだ」
「…あなたの物語次第です。記憶、というのは侮れないものですよ。時にはその声で、思いで、この場所に残された魂の片鱗を呼び起こすことができるでしょう。もしも話を聞かせてくださるなら、そのお礼に彼女の声をあなたにお聞かせするお手伝いができるかもしれません」
悪魔は深くため息をついた。柵に寄りかかって、金色の瞳に諦めの色を滲ませる。彼もわかっているのだろう。そろそろ潮時であること。悠久の時というのは、初めは受け入れられないほどの現実さえも緩やかに溶かしていく。山から溢れた川が激しさを伴って下って、それでもやがて穏やかに大きな波の一部に交わるように。
たまに思う。そんなふうに流れを失っていくことが、とてもやりきれない。痛みが痛みでなくなっていくことが、無性に寂しく感じてしまう。失った瞬間のあの大きな感情の乱れ。決して忘れないと誓った痛みは、どれほど抗おうが時間は無情に奪っていく。
人間はとても強い生き物だと、誰かは言った。
その一方で、とても脆く弱い生き物だと、別の誰かが言う。
どちらも真理で、真実だ。
大切に思っていた事実は、流れにかかわらず確かに抱いていた感情なのだから、本当は時間とともに痛みが薄れていくことを寂しいと…いや、後ろめたく思うことはないのだとわかる。
それでもなんとなく胸が痛むのは…やっぱり心を持つもののエゴなのだろうか。
「大した話でもないんだがな。誰にでもある経験だし、なんだか自分の不幸自慢をするようで気が進まない」
変なところで人間らしい悪魔だ。いや、プライドの高さは相応しくもあるのか。ここに留まるほど未練があるくせに、何を今更。
「まあ、いいじゃないですか」
「…はぁ。何から話せばいいのやら」
「…そうですね、あの少女との出会いを聞かせてください」
薄い空を見上げる。形のはっきりしない雲が穏やかに流れていた。この世界…この庭の上の空は、ここの外と繋がっているのだろうか。
ほんのり陽だまりのひとすくいをのせてきた風が、花の素朴な香りを混じえて流れていく。
「なあ、お前にはこの庭の景色、どう見えている?」
東屋への石畳を歩き出した悪魔の隣に立って、色とりどりの生垣を横目に見る。どう、の意味を計りながら、最初見たときの印象通りに答えた。
「とても鮮やかで綺麗です。見たことのない花も咲いているし、どれも生き生きしていて嬉しそうだ」
「…ここは、少女のために作った庭だった。たくさん花が咲いていて、光に溢れている昼の庭。これが完成した日、少女は俺の前から消えた」
出会いの話を聞いたのに。まあいいか。話を聞くのは望んでいたことだ。
東屋の下は、石造りのせいか少し硬い涼しさがあった。白い柱と、絡まる深緑の蔦の上品な色合いが、そっと空気に柔らかさを添えているようだ。
少女のためにと、悪魔は言った。
目の見えない状態でも、見せてやりたかったのだろうか。それとも、目を閉じてても感じるこの庭のあたたかさを贈りたかったのだろうか。
「俺には、全てが白と黒の濃淡で埋め尽くされた世界に見えていた。色の抜けたキャンバスって、よく例えであるだろ。それか、今でいうならモノクロの写真か…」
「ああ、昆虫の見る世界もそうらしいですね」
「…俺が虫だと言いたいのか?」
「まさか、例の一つですよ」
面白くなさそうにこちらを見る悪魔に、笑って答える。彼は少し顔をしかめただけで、また視線を庭に向ける。
いや、庭の先の、館を見ていたのか。あの二階の窓。日の光が当たってよく見えてなかったけれど、ぼんやりと白い何かが揺れている。
悪魔が幻想だという少女があそこにいるのだろう。
「…見えていた、ということは今は違うのですか?」
「ああ」
「……彼女から与えられたのですか?」
「まさか。そんな綺麗なもんじゃない」
世界の色を得た悪魔と目を失った少女の物語。
嘘みたいに綺麗すぎる光に溢れた庭。およそ図書館とは思えないような石造りの館。ここで紡がれた二人の物語は、悪魔のいうとおり誰にでもある話なのかもしれない。
彼が得たもの、失ったもの。
その二つを計る天秤と、物語を紡ぐための金色の文字。
必要なものは揃ってる。始めよう、願いのために。