ガラスの住む家
よくよく考えれば、それは予想できたことだった。
カノンのお母さんが、カノンを箱詰めにして捨てたんだと仮定する。その捨てた場所は私がカノンを見つけた大木の下で間違いないだろう。街の近くだと誰かに見つかってしまうかもしれないから、離れた場所に捨てたいと思うはず。だからといって、別に旅人でも何でもない普通の女の人が、そこまで街から遠く離れた場所まで行けるとも思えない。
あの大木に一番近いのは、南の街。そして二番目がこの旧王都だ。旧王都の中でも南のほうに住んでいるのなら、あの大木までだって行くのはそんなには難しくない。
そんなことを頭の中で訥々と考えながら、一方で私はカノンの様子を窺っていた。
カノンは、ここが自分の家だと告げて、それっきり動かなかった。フードを深く被っているせいでその顔はほとんど見えないけど、それでも私はカノンが不安に耐えているのがわかった。
昨日の夜だ。カノンがあの夢を見たのは。時間にすればまだ一日も経っていない。それなのに、その夢の中で自分を叩き潰した人が、この家の中にいるかもしれない。そんな状況で緊張しないでいられるはずがなかった。
「お母さんは……」
カノンのその声は、聞いているだけで心が痛むような、震える声だった。
うまく言葉にならないのか、そこでカノンは一度口を閉じた。私は待った。待つことだけが、私に出来る唯一のことだった。
「……お母さんは、私を見たら、悲しむのでしょうか」
それを、聞いた時。
私は初めて、カノンという女の子の本質に触れた気がした。
胸が熱くなった。そして、わかった。この子は、お母さんのことを恨んでなんかいないんだって。嫌ってもいないし、怖がってもいない。だってこの子はこんなにも、お母さんのことを思いやっている。自分も辛いだろうに、それよりもお母さんのことを心配している。
そのことが、嬉しかった。情けなくて、自分で自分が嫌になるぐらい情けないけど、どうしようもなく嬉しかった。まるで、自分が許してもらえたみたいで。今すぐに、その震える身体を抱きしめてあげたかった。
だけど、この子にそうしてあげられるのは、私じゃない。
だから私は、代わりにその手を握りしめた。
「…………!」
マントの下の身体が、ピクリと震えた。
大丈夫なんて言えない。カノンのお母さんの気持ちなんて私にはわからない。だけどカノンが今、お母さんに会いたいと思ってることはわかった。だったらその手助けをしてあげたい。力になってあげたい。カノンのお母さんが悲しんでも、嫌がっても、せめて一目、二人を会わせてあげたい。
思いを込めたその手を、カノンがおずおずと握り返してきた。フードの下で、その蒼い唇から力が抜けたように見えた。それだけで、私がここまでついてきた甲斐はあったと、そう思えた。
カノンが足を踏み出す。私はそれに合わせて歩いた。やがて扉の前に立つと、カノンは一度だけ深呼吸して、ドアの横の呼び鈴の紐を引いた。
カランカランと音がする。はーい、と女の人の声が聞こえた。その瞬間、カノンの手が離れた。不思議に思って顔を覗き込もうとするも、その時には既にドアが開こうとしていた。
「はい、どちらさまですか?」
顔を出したのは、凛々しい顔立ちの女の人だった。それを見たカノンが、一歩、後ずさる。
その反応は、大好きなお母さんに会ったにしては少し妙だった。そして目の前の女性も、カノンの母親にしては若すぎる気がした。まさかと思ってカノンに顔を近づける。
彼女は、ほとんど聞こえないようなか細い声で、こう言った。
「…………、誰……?」
* *
カノンの母親も、あるいは他の親族も、もう誰もその家には住んでいなかった。
住んでいたのは、カノンとはまったく縁もゆかりもない女の人。髪を雑に束ねたその人は、突然現れた見ず知らずの私たちをあっさりと部屋へ通してお茶を振舞ってくれた。飲まなかったけど。女の人のほうこそ、もうちょっと私たちを用心したほうがいいんじゃないかと思ったけど、でもそれを私が言うのもおかしいだろう。
「そっか。その子、前にここに住んでた子なんだね」
男性のようにハスキーな声で、女の人は言った。色々なところを端折った私の話を、疑う様子は微塵も感じられなかった。
「でも、ごめんね。何年か前にこの家は、私が買っちゃったの。ずっと空き家だって聞いたし、この辺りの静かな雰囲気が、好きでさ」
家の中は、ガラス細工で埋め尽くされていた。
花に、動物に、カップに、楽器。ありとあらゆるものがガラスで作られていた。この中なら、マントを脱いだカノンも違和感なく溶け込めるような気がする。
「お姉さん、職人さんなんですね」
「まあね。そんなに儲かってるわけじゃないから、半分は趣味みたいなものだけど」
言いながらお姉さんが「お近づきの印に」と透明なガラスの花を一輪ずつくれた。そんな安売りしてるから儲からないんじゃないだろうか。それとも宣伝の一環なのかな?
私とお姉さんが話している間、カノンはずっと黙って下を向いていた。でもこれは、顔を見られてバレてしまうのを警戒してるだけだ。塞ぎこんでるとか落ち込んでるわけじゃないと思う。たぶん。
「衝動的にあれこれ作るんだけど、ほとんどは売れないの。だから溜まってくばっかり。この家も結構広いのに、日に日に作品で埋まっていって、代わりに要らないものを捨てていったから……元々この家にあったものとかもほとんど処分しちゃって、たぶん手掛かりとかはもうないと思うんだ」
「前に住んでた人がどこへ行ったとかは、聞いてませんか?」
「いやあ、私が知った時にはもう空き家だったしね、ここ」
がっくりと肩を落とした。どうやら望み薄のようだ。せっかくここまで来たのに。
諦めて別のところを当たってみるしかないのか。まあそれでもお礼ぐらいは言っておこうかなと思ったところで、突然カノンが立ち上がった。
「あの、お願いがあるのです」
そんな風に立ってしまえば、いくらフードを被っていてもお姉さんから顔が見えてしまっているだろう。お姉さんが、ぱちぱちと目を瞬いていることからも、それは確実だった。
「わたしの部屋だった場所を、見せてほしいのです」
* *
お姉さんは、快く了承してくれた。
「いや、ほんとに色々捨てちゃったから、名残とかはあんまりないと思うんだけど。今は倉庫みたいに使ってるし。ごめんね」
申し訳なさそうにそう言って案内してくれるお姉さんは、なぜか、カノンのガラスの身体については少しも触れてこなかった。一体何を考えているのか、はたまた何も考えていないのか。
ガラス細工は廊下にも溢れていた。本当は人二人分ぐらい幅がありそうな廊下も、こうなると一人通ることすら難しい。先を歩くカノンが今どんな顔をしているのか、後ろからでは窺い知ることはできなかった。
「ここだよね? あなたが使ってた部屋」
ドアを指さしながらお姉さんが聞く。目の前のフードがこくんと揺れた。
廊下の奥まったところにあるそのドアは、ごくごくありふれたものだった。ドアノブに鍵穴はついていない。つけていたような跡もなかった。カノン自身も言っていた通り、お母さんに監禁されていたわけではなかったらしい。
「中に入る前に、これだけは言っておきたいんだけど……」
お姉さんが、ドアノブを掴みながら言った。
「この部屋の中にあるのは、全部ただのガラス細工よ。私はあなたたちのことは知らない。あなたの身体のことも知らない。もしかしたら何かしら関係はあるのかもしれないけど、だとしてもそれは私が意図してやったことじゃない。いい?」
思わせぶりなその言葉に内心首を捻りつつも、私はとりあえず頷いておいた。少し遅れてカノンも頷く。
それを見てようやく、お姉さんが扉を開いた。
「…………!」
思わず息を呑んだ。
そこには、大量のガラス人形がいた。
カノンと同じ、髪の毛から指の先まで精巧に作られたガラス人形が、何体も。すべて女の子だった。服を着せられてるものもあれば、裸のものもある。カノンのように動いたりはしていないけど、それでも息遣いが聞こえてきそうなその忠実な作りは、私に息を呑ませるには十分だった。
私は思わずお姉さんに目を向けていた。そんな私に、なぜか少しむくれたようにお姉さんは言う。
「だから、ただの趣味よ。こういうのを作るのが好きなの。趣味が悪いって言われるから、あまり大っぴらにはできないけど……」
『趣味が悪い』の意味が私にはよくわからなかった。こんな綺麗なものに、悪いところなんてあるんだろうか。そりゃあ、砂漠のど真ん中に置かれてたら私も趣味が悪いと思うけど。人間そっくりのその人形たちに不気味さはなくて、私はただ、綺麗としか思わなかった。
だけどカノンは、そんな人形たちに特に大きな反応は示さなかった。
ただ「失礼します」と固い声で呟くと、人形の間を縫うようにして部屋の中ほどまで進む。お姉さんが「触らないでね! 壊れるから!」と叫んだ。やっぱり壊れるんだ。当たり前か。
カノンが、部屋のある一点でしゃがみこんだ。床板の隙間を、指先でカリカリやっている。その様子をお姉さんと一緒に覗き込んでいると、やがてガポっと音がした。カノンが床板を一枚外したのだ。ほへ、とお姉さんが間の抜けた声をあげた。
「お姉さんは、ここが開くことを知っていましたか?」
お姉さんが首を横に振る。それだけ確認すると、カノンは開いた穴に手を差し込んだ。
そうして取り出したのは、一冊の本だった。いや、日記帳、だろうか。
「良かった、残ってて……」
カノンはその日記帳を、ひとしきり大事そうに抱え込んだ。それが誰のものかなんて、聞くまでもなかった。
「この日記、持って帰ってもいいですか?」
カノンは立ち上がりながら、そう聞いた。お姉さんは、もちろん断らなかった。
* *
三月九日
今日は、わたしの身体がガラスになってからだいたい一週間になる。あまりにもすることがないので、日記をつけようと思う。恥ずかしいから、お父さんにもお母さんにも見られないように隠しておくことにする。
ガラスの身体そのものは割と快適。ご飯を食べられないのは時々辛いけど、生身の身体だったころよりはずっといい。わたしは最初、わたしをこの身体にすることがお父さんの目標だったんだろうと思っていたけれど、どうやら違うらしい。ガラスの身体を生身の身体に戻すところまでで目標達成なんだとか。それを聞いたとき、わたしはひどく安心した。ずっとこのままって訳じゃないんだって。
最初は、すごく驚いた。朝目が覚めたら、自分の身体がガラスになっていたから。そんなわたしの隣でお父さんは大喜びしていた。両手を振り上げて、今にも踊りだしそうなほどに。目には涙まで浮かべていた。あんなお父さん、初めて見た。
よくわからないけど、お父さんはきっと、わたしのためにがんばってくれたんだと思う。きっと今もがんばってくれてる。それだけはわかる。でも、この身体のせいで部屋に閉じ込められてるんだって思うと、素直に感謝できなかった。外へ出たい。外へ出て、ハルちゃんとまた遊びたい。そう思うんだけど、言えばきっとお母さんを悲しませる。そのことがわかるから、わたしは何も言えなかった。
お母さんは、わたしのこの姿に最初は戸惑っていた。そんなの、当たり前だ。わたしだって、夜に窓ガラスに映るあの姿が自分だなんて、未だに信じられない。でも、しばらく話すうちにわたしがカノンだってわかってくれたみたいで、少しずついつものお母さんに戻ってくれた。どこか辛そうにしてるのが悲しいけど、でもわたしが元の身体に戻れば、きっとお母さんもまた笑ってくれると思う。
お父さんの姿を、あの日から一度も見ていない。いつ元の身体に戻れるのか、聞きたいんだけど。今日、お母さんに聞いたら「大丈夫よ」と言われた。何が大丈夫なんだろう。お母さんのその様子は、少しも大丈夫そうには思えなかった。
早く、治りたい。
* *
「……このとき、お父さんはもう死んでいたのです」
ベッドの上に広げた日記帳の、最初のページを指さしながら、カノンは言った。
古びた宿屋の二階の部屋。お姉さんの家から戻った私たちは、そこで持ち帰った日記帳を広げていた。
外はもう暗い。旅の疲れもあって、私の身体は眠気と空腹に襲われていた。でも、この日記帳だけは確認しておかないと、落ち着いて休めないと私は思った。
「死んでたって……一体どうして?」
「わからないのです……」
日記帳を捲りながら、カノンは言う。
「お母さんは、何も教えてくれませんでした。ただ、死んだとだけ。でもきっと、わたしの身体のことと関係があったんだと思います。だからお母さんは、わたしに気を遣って何も言わなかった……」
カノンの身体。ガラスの身体。それを元に戻すことがカノンのお父さんの目標だった。だけどガラスに変えたのもお父さんだった。それだけを聞くとまるでマッチポンプで、何をしたいのかさっぱりだ。
「わたしにも、わかりません。いえ、ただ忘れてるだけかもしれないのですが……」
日記帳のお陰でカノンの記憶はかなり鮮明になってきているけれど、まだ所々があやふやなようだ。特に、身体がガラスになる前のことがまったく思い出せないらしい。まるで、そこに大きな溝でもあるかのように。
「カノンのお父さんは、どうやってカノンをガラスに変えたんだろう?」
「わたしもよくわからないのですが、たぶん魔法の一種だと思うのです。父は、錬金術師だったので」
「錬金術師?」
私の知らない言葉だ。もしかして、普通の人の間では常識だったりするんだろうか。首を捻る私に、カノンが説明してくれた。
「そういう、職業なのです。魔法を使って金や、銀や、宝石を作る……と聞いています。そうは言っても、父が作れるのは、ガラスだけでしたが」
「ガラスなんて、作れてもねえ」
言うまでもなく、この国にガラスなんて溢れかえっている。お姉さんの家にあったようなガラス人形ならいざ知らず、ただのガラスはゴミ以下だ。水を作れる魔法とかだったら、重宝されただろうに。
「その魔法でカノンをガラスに変えたんだとすれば、同じように魔法で元に戻せるのかな」
「……わからないのです」
俯き加減に首を振るカノン。気落ちしたその様子を、もはや取り繕う余裕もないらしい。
どうにかして元気づけてあげるべきなんだろうと思う。だけど私にはその方法がわからない。結局私は、まるで何も気づかないみたいに、明るく振舞うしかなかった。
「まあ何にせよ、やっぱりカノンのお父さんとお母さんを探すしかないね。それか、その錬金術師? とかいう人」
「そう、ですね……」
カノンはまだどこか腑に落ちない様子で日記を捲っていた。
話すことがなくなって、途端に居心地が悪くなった。それに、空腹もそろそろ限界だ。
カノンに一言断りを入れて、私は食事を取りにいくことにした。もちろんカノンは誘わない。それぐらいの気遣いは私にもできた。




