ごめんね
お母さんが部屋に来なくなってから、いったい何日が過ぎただろう。
その間もわたしはずっと、部屋に閉じこもっていた。部屋から出ればどれだけお母さんを悲しませることになるか、わかっていたから。
わたしは、ご飯もトイレも必要ない。だからこのまま部屋の中で何日でも何か月でも待ち続けられる。そう思っていた。
だけどこのところ、不意に意識が途切れることがある。自分で自分がわからなくなる。指先が上手く動かせないときがある。今も、ベッドの上で寝たきりのまま動けなかった。
怖かった。このまま誰にも見てもらえないまま、自分が消えてしまうのかと思うと。怖くて、怖くて……薄れかけた心に、怖いという感情だけが強く残っていた。
外は、明るい。
いつもならこの時間、窓の外からお母さんの洗濯をする音が聞こえてくるはずだった。それだけが、わたしの楽しみだった。そこにお母さんがいるんだって、そう思えるから。だけど今日はそれさえも聞こえない。どうしたんだろう。また奇跡が降るんだろうか。ううん、今は災いの雪って呼ばれてるんだっけ。
今、街では何が起こっているんだろう。何か大変なことが起こってるのはわかる。だけどそれしかわからない。お母さんの話してくれることがわたしのすべてで、そのお母さんが部屋に来てくれない今、わたしには何もわからなかった。
来てくれなくなる前、お母さんの様子はおかしかった。言うことがどんどんちぐはぐになって、機嫌も一層悪くなって、わたしは、頭を叩き割られたこともあった。だけどそのあとお母さんは「ごめんね」って、謝ってくれた。泣きながら「悪いお母さんだね」って、抱きしめてくれた。それが、嬉しかった。
わたしは、お母さんが好きだった。仕事でいつも家にいなかったお父さんの分まで、ずっとわたしと一緒にいてくれた。わたしのことを好きって言って、抱きしめてくれた。そんなお母さんが、大好きだった。
それなのに、わたしが病気になって、お父さんが死んでしまってから、お母さんは変わった。悲しかった。前の優しいお母さんに戻ってほしかった。
いつか、わたしの病気が治りさえすれば、元の優しいお母さんに戻ってくれる。そう思って今日まで耐えてきた。なのに、状況はどんどん悪くなっていくようだった。
今、わたしは一人ぼっち。もう優しいお母さんじゃなくてもいい。今はただ、わたしの傍にいて欲しかった。
目頭が熱くなった。でも、涙は出なかった。この身体は涙が流せない。そのことがこんなにも、辛いだなんて。
声だけで泣いていると、部屋の扉の向こうから誰かの足音が聞こえた。わたしは泣くのをやめて、耳を澄ませた。わたしのよく知っている足音。いつもより重たそうで、引き摺るような音だけど、でもこの足音は、きっと……
わたしが期待に胸を膨らませていると、足音は部屋の前で止まった。そして何日かぶりにドアが開かれた。そこへわたしは、精一杯の笑顔を投げかけた。「待ってたよ、お母さん」「わたしのことを見捨てないでくれて、ありがとう」そんな言葉を、頭に思い描いて。
だけど――
「――――」
扉の向こうのその顔を見た瞬間、すべてが固まった。わたしの笑顔も、言葉も、時間も、すべて。
お母さんは、泣いていた。
目を真っ赤に腫らして、髪の毛はぼさぼさで。べたべたになった顔を、また新しい涙で濡らして。
そんな壮絶な顔に、わたしは何も言えなくなった。
「ごめんね」
ベッドの上に横たわるわたしを見て、お母さんはそう言った。その手には金槌と、木で作られた四角い箱が抱えられていた。
「こんなお母さんで、ごめんね」
やめて、と、叫ぼうとした。何をされるのか、わたしには直感でわかったから。だけど言えなかった。恐怖が、わたしの喉を締めつけていた。
お母さんがベッドの横に跪いて、金槌を握り直す。少しずつ振り上げていくその手は、小刻みに震えていた。
「ごめんね。ごめんね、ごめんね。ごめんなさい、カノン。ごめん、ごめんね。ほんとうにごめんなさい。ごめん……」
何度も。何度も何度も。
呪いのように、お母さんはその言葉を繰り返した。言葉と一緒に、涙が幾筋も零れ落ちる。
やがてお母さんは、振り上げた手を止めた。
最後にお母さんは、にこっと笑った。涙を流したまま。
そんなお母さんの、その顔は間違いなく、わたしの大好きなお母さんだった。
笑ったお母さんが、何かを言った。だけどその声は、わたしの耳には届かなかった。
お母さんが、目をぎゅっと瞑る。そして振り下ろす。金槌が、わたしの額めがけて、降りてくる。衝撃と、ガラスの割れる音が、目の前が、ひび割れて。わたしは、わたしは……
* *
「ぃやぁぁぁああああああああああ!!」
絹を引き裂くようなその悲鳴に、私は飛び起きた。
同時にマントに手を入れて身構える。辺りはまだ暗い。今夜は月も隠れていて、見通しは悪かった。それでも、すぐ隣で寝ているカノンがうなされているのだけは見て取れた。
「いや、やめて、やめてぇぇぇ! お母さん……いや、いやぁああああああ!」
両手を振り回して暴れるカノン。地面に叩きつけられた左手の、指が一本砕けて散った。それでも尚カノンは暴れ続ける。
夢を見てる? でもこれは、起こさないとマズい。
「カノン、カノン、カノン!」
両手を抑えて耳元で叫ぶ。力が強すぎて手首が砕けた。飛んできたガラス片が私の頬を引き裂く。私は軽く舌打ちすると、馬乗りになって肩から抑えつけた。
何度か呼びかけたところで、ようやくカノンがパッと目を開いた。
「あ……あぁ、……お母、さ、……え?」
「カノン、大丈夫? 私が誰か、わかる?」
「……ラルゥ、さん」
「うん」
身体の力が抜けたのを感じて、私はカノンの上から降りた。じんと痛む頬を隠すように、ちょっとだけ顔を背ける。カノンの砕けた手首はすぐにくっついて元に戻った。
ゆっくりと上体を上げたカノンの、呼吸はまだ荒かった。こんなとき相手が人間なら水でも飲ませて落ち着かせるところだけど、ガラス人形となると何をしてあげたらいいのかわからない。
「カノン、どうかしたの? 何か、悪い夢でも見た?」
「ゆめ……夢? いえ、あれは……」
まだ夢から覚めきらないかのように、呆然とカノンは自分の額を指でなぞった。
「あれは、夢じゃ、ないです……」
カノンは、そう言った。小さい声で、しかしはっきりと。
「また、記憶が戻ったってこと?」
「はい……」
「……あんまり、いい記憶じゃなかったみたいだね」
カノンがこくりと頷いた。
その記憶のことを聞いてもいいものか、私は悩んだ。トラウマになっているようなことをわざわざ話させるのは、きっといいことじゃない。だけど聞かないと、今後の方針にも関わってくるだろう。どうしたものかと、悩んでいると……
「私は、殺されたのです」
カノンは、自分から話してくれた。その、悪夢を。
「殺されたのです。私は――お母さんに」
カノンの話を聞いて、いくつかわかったことがあった。
まず一つは、カノンは記憶をなくす前からこのガラス化の病気にかかっていたということ。そしてもう一つは、カノンはガラスの国の中で生まれ育ったということだ。
私は前に、カノンは外の国出身だろうと予想したことがあった。あれは彼女がガラスの海や雪を珍しがっていたからだけど、もしかしたらそれは、単に病気で家から出してもらえなかったせいなのかもしれない。
「どうしてお母さんがあんなことをしたのか、私にはわからないのです。本当に、優しいお母さんだったのに……」
自分の大好きな人の手に掛けられたことが、よっぽどショックだったらしい。焚火の前で膝を抱えてうずくまるカノンの背中をさすりながら、私は、もしかしたら『あの子』もこんな風にショックを受けていたのかなと考える。
あれは仕方がなかった。その結論が、私の中ではとっくに出ている。おじいちゃんもそう言ってくれた。
だけど、あの子そっくりなカノンが、あの子と同じような境遇で私の目の前にいるこの状況に、私は運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「……お母さんのこと、恨んでる?」
声を出す時、喉がひりつくのを感じた。
緊張してる。そのことを自覚して、私は自責の念に駆られた。この子はあの子じゃない。この子が母親を許しても、許さなくても、そんなことは私とは関係ないのに。
「わからないのです……」
カノンはゆるゆると首を振った。
「お母さんのことは、大好きでした。大好きです。今も、きっと。だけど、私の大好きなお母さんが本当のお母さんだったのか、私にはもう、わからないのです。だって、だって……」
カノンの声が、滲む。雫は見えないけれど、カノンは涙を流しているんだと、私は思った。
「本当のお母さんだったら、私にあんなこと、しない……。わたしのこと、大好きだって、言ってくれた、お母さんなら……」
その言葉は、まるで私を責め立てているかのようだった。胸が、ぎゅっと締め付けられた。
言いたいことは、いくつかあった。人の心なんてそんなわかりやすいものじゃないだとか、好きだからこそそうするしかない時もあるんだとか。だけど、言えなかった。何を言っても私の中では言い訳になる。自分と、そのお母さんを、重ねずにはいられなかった。
何も言えない。何もしてあげられない。それも全部、私の勝手な都合で。
罪悪感に蝕まれながら、私はただただ、カノンの背中をさすってあげることしかできなかった。夜が明けるまでずっと、そうしていた。
* *
旧王都は旧王都と呼ばれているけれど、それはあくまでも王政が滅んだという意味でしかない。新しい王都が別にあるなんてことはない。だからこの国の経済の中心は今も昔も変わらず旧王都。要するに、ここが首都だった。
そんな場所だから、私も過去に立ち寄ったことは多い。なんだかんだ手続きだとか、欲しいものがあるとかで。そのお陰で旧王都に着いた私は、特に迷うこともなくまっすぐ宿屋まで先導できた。もちろん、トカゲは途中でトカゲ小屋に預けてきた。
ただし、迷わずに済んだのはここまでだ。ここから先、情報収集となると、この王都でどうすればいいのか私にはさっぱりわからない。
王都はもちろん人も多い。だけどその分、人が冷たい。田舎なら知らない人に話しかけてもみんな答えてくれるけど、この街だと大体無視か、やんわり逃げられる。そもそも気軽に人に話しかけられるような雰囲気じゃない。確かずっと前、おじいちゃんと一緒に来た時は、酒場とかに入って話をしてたような気がする。でも私お酒はあんまり好きじゃないし、あの騒がしい空気とかニガテなんだよね……
「あの、ラルゥさん?」
宿を借りてベッドに腰かけて休んでいた私に、立ったままのカノンが声をかけてきた。その声に私はなんとなく急かされたような気がして、慌てて立ち上がった。
「あ、ごめんね。次どうしようか考えてて。とりあえず酒場に行けば誰かから話が聞けると思うんだけど、カノンも行く?」
「いえ、待ってください」
カノンが首を振った。その表情は、昨日までのカノンよりも少しだけ固いように見えた。
「私、行ってみたい場所があるのです。できればラルゥさんも一緒に。いいですか?」
* *
悪夢を見てから、カノンはまた口数が少なくなってしまった。
もともと気を遣いすぎる子だから、露骨に暗くなったりはしない。だけど無理して明るく振舞うその様子が、却って痛々しかった。言ってあげたかった。「無理しなくていいんだよ」って。だけどその瞬間、彼女の何か大事なものを壊してしまいそうな気がして、私には言えなかった。
私は、人と話すのが苦手だ。落ち込んでる人を励ます方法なんて知らない。私がもっと普通だったら、なんとかできたんだろうか。
普通なんてどうでもいいと思っていた。私は私でいいんだって。おじいちゃんにもそう言われた。でも今は、普通が知りたかった。
「やっぱり……」
雑踏の中、前を歩いていたカノンが、そう呟いて立ち止まった。行きたい場所とやらに、着いたんだろうか。
「やっぱりって、何が?」
後ろから覗き込むと、カノンは雑貨屋の立て看板を見ていた。年季の入ったそれは門を入ってすぐのよく見える場所にあって、そういえばさっき通りかかった時もカノンはその看板を気にしていた。
私も改めて、その看板をよく観察してみる。絵は何度か書き直しているみたいだからまだ見られるけど、如何せん素体の板がボロボロだ。ケチらずに新しい板を使ったほうがいいんじゃないだろうか。そもそも、ガラス板じゃなくてわざわざ木の板を使っているのがよくわからない。高級感を出したかったのかもしれないけど、ここまでボロボロじゃあその意味もなさそうだ。
「わたし、これを見たことある気がするんです」
カノンのその言葉に、私は思わず顔を上げていた。
「本当に?」
「はい」
短く答えて、早々にカノンは歩き出した。その向かう先は私も知らない道だ。だけどカノンの足取りに迷いはなかった。
「…………」
聞きたいことは、あった。だけど何かに突き動かされているかのようなその様子を見ると、話しかけるのがためらわれた。私は何も言わずに、カノンについていくことにした。
私たちは、最初こそ人通りの多い大きな道を歩いていたけど、やがて道は狭く、どんどん複雑になっていった。こんな道、地元の人しか知らないんじゃないだろうか。それでもカノンはずんずん突き進んでいく。もしこれで迷子になったらどうしようと不安に駆られながらも、私は黙ってカノンに付き従った。そうして、二十分ぐらい歩いただろうか。
カノンが、一軒の民家の前で立ち止まった。家と家の間にあるのに、なぜか孤立して見える、不思議な雰囲気の家だった。
私はカノンの横に立った。フードの下で、カノンがごくりと喉を鳴らしたのが見えた。それで私にも察しがついた。
「ねえ、カノン。ここって……」
「はい」
私の言葉を引き取るように、カノンは言った。
「ここが、私の家です」




