宵闇に舞う雪
ちょっとやってみたいことがあった。
カノンの身体に関することだ。カノンと出会ったとき、私はカノンの身体をパキパキやったけどあっという間に元に戻った。でももし、その壊れた欠片を私がぎゅっと握りしめて離さなかったら、どうなったんだろう。
「ねえ、カノン。やってみたいことがあるんだけど」
「なんです? ラルゥさん」
「腕、ちぎってみてもいい?」
「ダメですよ! 何を言ってるのですか!?」
自分の身体を抱きしめてカノンが大きく後ずさる。お尻のところに焚火が当たってるけど、それ、熱くないんだろうか。
「ごめんごめん、冗談だから。だから代わりに髪の毛、ちぎってみてもいい?」
「いえ、ちょっと待ってくださいです。何のために、どれくらいちぎるのか、先に教えてもらってもいいですか?」
あれ? 渋られてしまった。おかしいな。人と交渉するときは先に無理なことを持ちかけてから現実的な話に持っていくと上手くいくって、おじいちゃんに教わったのに。
仕方なく私は、事の経緯と私の興味について話した。パキパキの件でカノンがちょっと嫌そうな顔をしたけど、特に何も言われなかった。なるほど。これが人助けのメリットなんだね。おじいちゃん、おじいちゃんの言葉の意味が、いま実感としてわかった気がするよ!
「まあ、そういうことなら、別にいいのですけど……」
「ありがとう!」
渋々といった感じだけど了承してもらえたので、私は嬉々としてカノンの後ろに回った。
「あ、でも、あんまりちぎらないでくださいね! 少しだけ、少しだけなのですよ!」
「わかってる、わかってるから」
言いながら私は、さてどこから手を差し込もうかと悩んでいた。
カノンの髪の毛はサラサラだ。いや、ガラスだからサラサラは違うけど、つまりは艶やかで、乱れたところがないってことだ。
普通、どんなに綺麗な髪をした女の人でも一本や二本は髪の毛が飛び出している。だけどカノンにはそれがない。まるで水が流れるように、しっとりとした一体感のある髪だった。
とりあえず、一本だけつまんでみようと指を伸ばす。パキパキしないように慎重に。だけど慎重にすればするほど、指が滑ってうまくつまめない。
なんだか、イライラしてきた。
「あ、あの、ラルゥさん。まだなのですか?」
「待って。もうすぐ、もうすぐだから」
ああ、もうめんどくさい!
痺れを切らした私は、親指と人差し指に力を込めてカノンの髪にズボッと突っ込んだ。
「あ、」
ズボッというより、バキッと音が鳴った。
ボロッと零れ落ちた束を、私は反射的に手で受け止めた。
「ら、ラルゥさん!? なにか怖い音が聞こえましたけど!?」
「だ、大丈夫! 大丈夫だから!」
えっと、大丈夫じゃない、かもしれない。
私が指を突っ込んだところから下の髪が、ごっそりと千切れ落ちていた。左手にはその残骸。冷や汗がだくだくと背中を流れ落ちる。
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。これ、直るんだろうか。いや、直る。直るはず。一昨日は直ったんだから。直って、お願い!
私のそんな願いが天に聞き届けられたのか、手の中の髪の毛がぴくぴくと動き始めた。カノンの頭のほうへ向かっていくのを感じて、私は咄嗟に手を握りしめた。
……いや、後で冷静に考えればどうしてそこで握りしめたのって話だけど、そのときは当初の目的「カノンの一部を私が握りしめていたらどうなるのか」が頭にあって、ついそうしてしまっていた。
私の手の中でしばらくもがくように動いていた髪の毛は、やがて動かなくなった。あれ? もしかしてこれでもう直らないの? とまた冷や汗をかき始めた私は、次の瞬間、信じられない光景を目の当たりにした。
カノンの髪の毛の下。ちょうどお尻の辺り。そこにあったガラスの粒子が、ふわっと浮き上がったのだ。
浮き上がった粒子は、カノンの千切れた髪にピタッとくっついた。そして形を変え、あっという間に私がやらかす前の元通りの髪が出来上がった。私の手の中には、千切れた髪の毛がちゃんと髪の毛の形で残っている。
しばらく、言葉が出なかった。
「あ、あの、ラルゥさん?」
「…………」
「ラルゥさん? ら、ラルゥさん! そ、その、そんなに、悲惨な状況なのですか? お願いですから何か喋ってください! 怒ったりしませんから! ラルゥさん、ラルゥさん!」
「……………………カノン」
「あ、は、はい。なんですか?」
カノンが私のほうを振り返る。その目が、不安そうに揺れていた。
私は、カノンの両手をぎゅっと掴んだ。カノンがヒッと悲鳴をあげる。だけどそれには取り合わず、私は言った。
「カノン、もう一個、頼みがあるんだけど」
「な、何なのですか? いえ、そんなことより私の髪の毛は……」
「髪の毛は大丈夫。それよりね、これは単純に興味本位のお願いなんだけどね」
「は、はい?」
「身体の真ん中で、カノンを半分こしてみてもいい?」
「絶、対、イヤですーーー!!」
全力で逃げられた。
それからまた近くに来てくれるようになるまで、ものすごく時間がかかった。
* *
私たちは、オアシスで野営の真っ最中だった。
オアシスとは、ガラスの海から大地が露出した地形のこと。一昨日寝泊りした岩場と違って、ここみたいに肥沃な大地では当然草木が生い茂る。緑があれば生き物がいるし、水も少しは採れるし、地べたに寝転がっても肺炎にはなる心配はない。まさにオアシス、天国だった。
私とカノンは、焚火を囲んで暖を取っていた。トカゲは少し離れた位置にいる。オオトカゲも大抵の動物の例に漏れず、火は苦手だ。
「ラルゥさんって、薄着ですよね」
唐突に、カノンが言った。
「え、そう?」
「はい……寒くないんですか? それ」
それ、と言われた私の恰好は、袖のないシャツと短パンだった。身体が成長しきってから、この服装を変えたことがない。この辺りは、気候も割と安定してるし。
「まあ、寒いときはマント羽織るから」
「でも今は脱いでるじゃないですか」
「焚火があるからね。あのマント、結構重いんだよ」
「……? そうでしたっけ?」
カノンが首を捻る。そういえば、街でマントを貸したんだっけ。確かにあの時は軽かっただろうから、首を捻りたくなるのもわかる。うーん、どう説明しようかなあ。面倒だなあ。もう説明しないでいっか(思考時間コンマ五秒)。
私はカノンを放置して、焚火にそこらへんで拾ってきた木をくべた。こうやって焚火を作れるのもオアシスならではだ。オアシスじゃなかったら、まず燃やすものが見つからない。そんなときは重たいマントに身を包む以外に暖を取る方法がない。
「ていうか、そう言うカノンのほうこそ薄着じゃない。ワンピースだけとか。街で買ったマント、着ないの?」
「いえ、それがですね。この身体だと、そこまで暑いとか寒いとか感じないみたいなのです。なんとなくは、わかるのですが」
「へえ、そうなんだ」
危うく「便利な身体だね」と言いかけて、私は慌てて口を噤んだ。
でも実際、便利な身体だと思う。ご飯はいらなくて、疲れも痛みも感じなくて、怪我をしてもガラスさえあれば元に戻る。いっそ交換して欲しいぐらいだった。
そんなことを言えば、またカノンを傷つけてしまうかもしれない。だから言わない。言わないけど、私はいつまでこんな腫れ物に触るみたいな対応を続けていくんだろうか。もちろん、言葉は選ばないといけない。でも、言うべきことは言わないと……おじいちゃんも言っていた。気を遣いすぎるのは、気を遣わないよりもタチが悪いって。
いつしか、ちらちらと雪が降り始めていた。私の予想よりも三時間遅れだ。辺りはすっかり暗くなっていた。
私はすぐに立ち上がってマントとゴーグルをつけた。マスクは、まだいいだろうか。おじいちゃんがいたら怒られそうだけど。でも、あれをつけると話がしづらいし。
そう、私は、もう少しカノンと話したいことがあった。そのためにはマスクが邪魔だった。
「ねえ、カノン。こんなこと言ったら傷つくかもしれないけど……」
私は窺うように、カノンの顔を見た。カノンは無邪気な顔で、こてんと首を傾げていた。
「無理して元の身体に戻る必要、ないんじゃないかな」
「…………」
カノンは、何も言わなかった。
私は続けた。
「確かにガラスの身体は珍しいけど、見慣れればなんとも思わないよ。街では面倒を避けたかったから隠したけど、たぶん隠さなくても問題なかったんじゃないかな。リザードマンやエルフと似たようなものだって」
カノンは、何も言わなかった。だけどそれは、彼女も否定できる言葉を持っていないってことなんじゃないかと私は思った。
人と違うのは、確かに辛い。人は自分とは違うものを排除したがる生き物だから。
だけど中には、そうじゃない人たちもいる。カノンが探すべきは、そんな人たちなんじゃないだろうか。身体を元に戻す方法じゃなくて。
「ラルゥさんは、どうですか?」
しばらくして口を開いたカノンは、そう問いかけてきた。
「私?」
「はい。ラルゥさんは、こんなわたしでも普通の人と同じように接してくれるのですか?」
「……もちろん」
答えるまでに少し間が空いてしまったのは、これが嘘だからだろうか。
嘘じゃないと、そう思いたい。でも自分でもわからない。普通に接するって、どうすればいいんだろう? 私の普通は、普通だろうか? 一つだけ確かなのは、私は他の人と接するのと同じようにカノンと接してはいないってことだ。それは決して悪い意味じゃないけど、褒められたものでもない。他人と他人を重ねて、優しくしているだけ。偽善よりもよほどタチが悪いナニカ。カノンが許してくれたそれを、だけど私は胸を張って口にすることはできない。
「ごめんなさい。もう少しだけ、考えさせてほしいのです」
私の迷う気持ちが伝わってしまったのか、答えるカノンの顔は、少し暗かった。
でもそうじゃなくても、記憶も戻っていない状態でこんなことに結論は出せないはずだ。私はただ、そういう道もあるってことを教えたかっただけ。だから、これで良かったはずだ。
「うん、まあ、そうだよね」
私は笑顔を作って、空を見上げた。
夜空を舞う雪が、月の光を反射してキラキラと瞬いていた。いつもなら煩わしいとしか思えないそんな光景も、なぜか今日だけは美しく、そして、どこか空恐ろしいものに思えた。
挿絵は、らるるさん(@raruru48)が描かれたものです。




