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二人と一匹

 私という人間はその育ちが特殊なせいで、知識にも相当な偏りがある。普通の人が知らないことを知っているのに、知っていて当然のことは知らなかったりする。

 そんな私でも、記憶喪失というものはちゃんと知識として持っていた。脳に何らかのダメージを受けたせいで記憶がなくなる症状。安静にしていればそのうち治るっておじいちゃんは言ってたけど、でもそんな常識がガラス人形にも通用するのかは、わからなかった。――おじいちゃんだってきっとびっくりするだろう。ガラスが人間みたいに動いて喋るって聞いたら。

 それに安静にするにしても、こんな海の真っ只中だと長く留まってはいられない。カノンはもしかしたら何も食べなくても平気かもしれないけど(朝ご飯食べる? と聞いたら、食欲がないと断られた)、私はもたない。まずは街へ戻らないと。

 そんなわけで、私は朝ごはんを携帯食料で手早く済ませると、早々に荷物をまとめ始めた。

「とりあえず、近くの街まで一緒に行こう。歩ける?」

「は、はい……」

 カノンが頷いて立ち上がるのを見て、私は安心した。ここから街までは普通に歩いても一日弱かかる。いくらカノンが軽くても、その距離を背負って歩くなんてのは勘弁してほしかった。

 と、そこで私は、あることに気がついた。

「…………、」

「な、なんですか? わたし、なにかしましたか?」

 カノンのことをじっと見つめていると、彼女は怯えたような声を出した。

 そんな彼女の足元を、私は指さした。その、靴どころか靴下も何も履いていない、ガラスの素足を。

「それ、痛くないの?」

「え? あ……そういえば。痛くは、ないのです。岩がゴツゴツしてるのは感じますけど」

「そう……。じゃあさ、服とかチクチクしてない? 呼吸が苦しかったりは?」

「……? いえ、特にそういうのは」

 昨日私は、カノンをガラスの上でゴロゴロ転がした。普通なら粉塵が服にまとわりついて痒くてたまらないはずだし、粉塵を吸い込んだ肺に違和感を感じてもおかしくない。

 やっぱり、人間の常識は通用しないんだろうか。ちょっとだけ便利そうだなと思った。カノンには絶対に言えないけど。


* *


「わあ……!」

 洞窟の外に出た途端、カノンは目を輝かせた。

「す、すごいです、これ……まるで夢の中みたいです」

「『おとぎの国』って、外の人は呼ぶみたいだけどね」

 そう言いながら、私はカノンのその反応について考えていた。

 この国で育った人間なら、今更こんな景色に感動したりはしない。ということはきっと、カノンは外の国出身なんだろう。

 それがどうして、こんな海のど真ん中に置き去りにされていたのか……謎は尽きない。

「本当に綺麗です。こんな景色が国中に広がっているのですか?」

「そうだよ。まあ、綺麗なだけでいいことなんてほとんどないけどね」

「?」

 首を傾げて目で問いかけてくるカノンに、私はこんな暗い話をしていいものかとしばし悩む。せっかく、景色のお陰で色々と忘れてくれているのに。

 だけど、元々私は底意地の悪いほうだ。瞬き二回分ほど悩んだだけで、結局は話すことにした。

「この国には、空からガラスの粒子が降ってくるの。雪みたいにふわふわ漂うからみんな雪って呼んでるけど、別に冷たいわけじゃない」

「暖かい雪ですか。神秘的ですね」

 そのメルヘンチックな物言いが、まるで他人事のようで少しイラッとした。この子にそんなつもりはないのはわかっているけれど、なんだか私は、思いっきり怖がらせてやりたくなった。

「そうだね、神秘的だね。……その雪が、人体に無害ならね」

「え?」

 呆けるカノンに、私は更に言い連ねる。

「雪を吸い込みすぎるとね、肺に溜まって、咳が止まらなくなって、最後には死んじゃうの。目に入れば失明することもあるから、雪や風の日はマスクやゴーグルなしじゃ外を出歩けない。それだけじゃないよ。雪が屋根に降り積もれば建物が倒壊することもあるし、山にいる人は雪崩に巻き込まれて死ぬこともある。この一面の海だって、ガラスの地層が厚いせいで草木は碌に生えてくれない。環境に適応した限られた動植物しか生きていけない、過酷な世界なんだよ」

 そこまで言い切ってから、私はカノンを見やった。

 カノンは、目を白黒させていた。

「えっと、あの……ごめんなさい」

 なんで謝るの、と言おうとして、寸前で、私の話し方に問題があったことに気づく。畳み掛けるような高圧的な物言い。カノンからすれば、自分の不用意な発言が私を怒らせてしまったとしか思えないだろう。

「……ううん、私のほうこそ、ごめん」

 本当に、何を熱くなっているんだろう。

 この国に外からやってきた人は、誰だってカノンのような反応を示す。カノンの言い方が特別に無神経だったなんてことはない。前に道楽でやってきた金持ち親子に比べれば可愛いものだ。あの親子にだって私はそこまで腹は立たなかったのに、どうしてカノンに限って……

「あの……ラルゥさん?」

「なに?」

 呼びかけられて、私は明るく返事した。さっきの失敗を取り返すように、意識して明るく。

「その、わたしはマスクもゴーグルもないのですが、大丈夫なのでしょうか?」

「あ、うん。実はさっき洞窟で聞いたのがそのことだったんだけど。大丈夫なんじゃないかな。だってほら、身体がガラスなんだし」

「…………、」

 カノンは何か言いたげにしていたが、言わなかった。だけどその様子を見ただけで、私には彼女の考えてることがわかってしまった。きっと『身体がガラス』という部分が引っかかったんだろう。

 ガラスになったことを気にしてる人に、それこそ無神経な物言いだったかもしれない。失敗を取り返そうとしてぜんぜん取り返せてなかった。自分が嫌になる。

 だけど、そんな素振りを見せればまた気を遣わせてしまう。私はあえて無神経な振りをしてカノンへと近づいていった。彼女は、ガラスの海へ足を踏み入れるところだった。その恐る恐るといった様子が、ちょっと可笑しい。

「どう? 痒かったりしない?」

「いえ、大丈夫みたいです……むしろ、なんでしょう……」

「…………?」

 カノンが顔を上げた。

 その目元が、心なしか柔らかくなっている気がした。

「ちょっと、きもちいいのです」

「気持ちいいんだ……」

 ガラスどうしで馴染んだりするんだろうか。その感覚、できるものなら私もちょっと味わってみたい。

「問題ないなら、いこっか。街まで丸一日ぐらい歩きっぱなしになるけど、大丈夫?」

「はい。あ、いえ、あの……自信は、ないのです。でも、がんばります」

 正直で、だけど前向きなその返答は、なんとなく好感が持てた。

 カノンを安心させるように笑顔で頷き返してから、私たちは街へと向けて歩き出した。ガラスの海を、今度は二人と一匹で。


* *


 向かう方角は南。目指すは私が昨日の朝に出発したばかりの、あの街だった。

 要するに引き返しているわけだけど、そのことを惜しいとは思わない。元々当て所ない旅だし、旅に慣れていない人がいる以上、極力冒険はしないに限る。

 歩き始めてしばらく、カノンは無言だった。私も普段は一人旅が多いから、話しかけたりしなかった。話すにしても何をどう話せばいいのかわからないし。

 そういえば、おじいちゃんがいた頃はどうしてたっけ。おじいちゃんは無口だったし、私も元々こうだから、無駄なお喋りとかはあんまりしてなかった気がする。あ、でもそういえば、あの例の女の子は割とお喋りだったような……

「あの、ラルゥさん」

 昼頃になって、久しぶりにカノンが口を開いた。そのとき私は、西の空にキラリと光るものを見つけて距離を見計らっているところだった。

「ひとつ、聞いてもいいですか?」

「ん? なに?」

 目を空へと向けたまま、私は問い返す。そんな私に、カノンは意を決したように言った。

「ラルゥさんは、どうしてわたしに良くしてくれるのですか?」

 歩いている間、カノンがずっと悩んでいるのだろうことは、人付き合いに不慣れな私でも察することができた。

 ガラスの身体に記憶喪失。こんな大きな問題を二つも抱えて、悩まずにいられるわけがない。そして悩み続けていれば、そのうちに私のことに考えが及ぶのも当然のことだった。

 カノンの側からすれば、私は怪しいだろう。その自覚はあった。

「あ、ラルゥさんを疑ってるとか、そういうのではないのです。ただ、どうしてかなあと」

「いや、そこは疑っておいたほうがいいと思うけど」

「そうですか?」

「うん」

 自分で自分が不利になるようなことを言ってから、私は再度考えた。私がカノンを助ける理由。

 いくつかの理由が頭をよぎるが、どれも言い訳臭い。私は結局、特に面白みのない答えを口にする。

「たぶん、大した理由はないんだと思う。私の旅って明確な目的地があるわけでもないし。困ってる人がいたら、助けて損をしないなら助けなさいって、おじいちゃんも言ってたし」

「目的地がない?」

 あれ、そっちに食いつくのか。てっきりおじいちゃんの格言のことを何か言われるものかと。

「ではラルゥさんは、何のために旅をしてるのですか?」

「それは、まあ、えっと……」

 どう説明したものか、悩む。言い淀んでいるとカノンが「言いにくいことなら別に……」と固辞した。いや、そういうわけじゃないんだけどね。

「ある場所を、探しているの」

「場所、ですか?」

「うん、場所。どこにあるかはわからないし、あるかどうかもわからないけどね」

 あえてぼかした言い方をしたけど、カノンがそれ以上踏み込んでくることはなかった。気を遣ってくれてるんだろう。正直、助かる。

 それからまた、無言の間が続いた。カノンの質問がやんで、もちろん私からも話しかけない。ほんの少し居心地の悪さを感じたけど、あれこれ考えても疲れるだけだ。私はすぐに考えるのをやめた。

 結局、そこから街へ着くまではさして会話もなく、黙々と私たちは歩き続けた。


* *


 私は、人の顔や名前をあまり覚えられない。会って別れて一時間もすればどんな顔をしてたかよく思い出せなくなるし、名前は半日もすればだいたい忘れてる。ちゃんと覚えられるまでには、最低でも五回ぐらいは会って話をしないと難しい。

「ん? おめえ、ラルゥじゃねえか?」

 そんな私にとって、その浅黒の顔の人の名前をまだ覚えていたのは快挙と言ってよかった。やっぱり、子供のころに会っていたのが大きいんだろう。

「やあ、一日ぶり、アーノルドさん」

「アーゴットだ」

「…………」

 快挙、ならず。

 むしろ昨日の朝、間違えずに名前を思い出せたことのほうが快挙だったのかもしれない。

「なんだ、まだ街にいたのか。すぐ旅に出るんじゃなかったのかよ」

「ちょっと、ね」

 本当は一度街を出て戻ってきたんだけど、わざわざ話す必要もないだろう。深く突っ込まれたら面倒なことになりかねないし。

「なんかあったのか? 後ろの嬢ちゃんと関係が?」

「まあね」

 また言葉を濁しながら、私は内心で舌を巻いた。

 私の後ろにいるのはもちろんカノンだ。彼女は今、私のマントをすっぽりと被って顔も身体も隠している。ガラスの身体を人に見られないためだけど、そんな格好でよく女の子だってわかったものだ。当てずっぽうだろうか。

「いやいや、当てずっぽうなんかじゃねえよ。腰つきを見りゃあ男か女かぐらいわかる。腐っても接客業、これぐらいは基本スキルだぜ!」

 それは接客のスキルじゃなくてスケベな男のスキルじゃないかと思ったけど、言わないことにした。乾いた笑いでテキトーに流す。

「ところでアーリエルさん。最近、この辺りで変わった病気の話とか出てない?」

「アーゴットだ。病気って、例えば?」

「身体がガラスになるとか」

「ふーん……」

 アーバインさんの目線がカノンのほうへ移った。

 露骨すぎた、だろうか。後ろに身体を隠した子を連れて、こんな質問。情報収集するなら、カノンは宿屋にでも待機してもらっていたほうが良かったかも……いや、この子を一人にしとくのもそれはそれで危なっかしいか。

「聞いたことねえな」

「そう……」

 その答えに私は息をついた。事情に踏み込んでこられなかった安堵と、情報を得られなかった失望、両方がこもった吐息だった。

 さあ、このあとはどうしよう。人の顔を覚えられない私はこういうときに話の聞ける相手が数えるほどしかいない。この街ならトカゲ番のダリウスさんに、宿屋のリリィさんとマックスさん。だけどみんな知らないって言ってたし、他に話を聞けそうな人は……

「でもま、そんな病気があってもおかしくねえんじゃねえかと俺は思うけどな」

 店先で考え込んでいると、アンリエッタさんがそんな意味ありげなことを言った。

「? どういうこと?」

「いやなに、大した話じゃねえさ。ここはガラスの国。世界広しと言えど、ガラスの雪が降るなんざこの国だけだ。ガラスにまつわることなら何が起きたってこの国じゃあおかしくねえ。だろ?」

 根拠は弱い割に、妙に説得力のある話だった。ただ、残念なのは何一つ解決に繋がらないということだろうか。

 カノンのこれがこの国に入った影響だとして、なら治すにはどうしたらいいんだろう。国の外に出る? もちろんそれも試す価値はあるんだろうけど、ここから雪の降らない地域までは物理的に距離がある。その前にできることはやっておきたい。

 そもそも、この国はどうしてガラスの国なんだろう。空から降るガラスは、いったいどこからやってくるものなんだろう?

「さあなあ。俺も詳しくは知らねえが、降り始めたのはそんなに昔じゃねえって聞いたぜ」

「そうなんだ」

「ああ。何十年か前、金に目がくらんだ王様がなんかとんでもないことをやらかして、その罰としてガラスが降るようになったとかなんとか」

「へえ……」

 それが本当だとすれば、迷惑極まりない話だった。王様一人のことに国中が巻き込まれるだなんて。しかも何十年も後に生きてる私たちが。

「気になるんなら、旧王都へでも行ってみたらどうだ? あそこならもっと詳しい話も聞けるだろ」

「この街じゃダメなの?」

「ダメじゃねえが、信憑性は低いわな。人によって言うこともまちまちだしよ」

 そこまで聞いて、私の口からは知らずため息が零れていた。

 旧王都は、私がカノンを見つけた場所の向こう側にある。つまりそこへ向かうとなれば、昨日今日と歩いた道を明日もまた歩くことになる。いくら当て所ない旅でも、さすがに三度同じ道を歩くのは精神的に堪えるものがあった。

 こんなことなら、引き返したりしないでそのまま北へ行けば良かったかな……

 そんな風に後悔しても、今さら後の祭りだった。

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