カノン
私はガラスの海を歩くとき、ほとんど荷物は持たない。武器とか水とか最低限の物以外は、ぜんぶ相棒のオオトカゲに持ってもらっている。そうでもしないと、ただでさえ足を取られやすいガラスの海を一日中歩くことなんてできない。それに体力は温存しておかないと、いざという時に困る。その点、このトカゲは足の構造からして海を歩きやすいようにできてるし、いざという時はいざという時で……まあ、アレだし。
ただし、私が今ガラス人形を抱えて歩くことができたのは、体力を温存していたことだけが理由じゃない。単純に、軽かったからだ。
最初に見たときは、こんなに大きなガラスの塊は絶対に一人では運べないと思っていた。だけどひっくり返したり転がしたりしているうちに、この人形はそこまで重くないことがわかってきた。たぶんだけど、同じ大きさの人間よりも軽い。
中身はきっと空洞なんだろう。そうするとかなり脆いということになる。というか脆かった。背中に背負おうとしたときにパキパキっと音を立てるのを聞いて、私はやばっ、と思った。
だけどその時に私はまた、信じられない体験をした。
ヒビが入ったはずのガラスが瞬く間に元に戻ったのだ。それどころか、背負おうとする私の身体にもたれかかるように、その形が変わった。
もう、幻覚とかで済ませられるレベルじゃなかった。
このガラスは生きている。少なくとも普通のガラス人形じゃない。
そうとなれば、放置なんてできなかった。今は眠っているようだけど、そのうち起きるかもしれない。起きたら人の言葉を喋るかもしれない。人の形をしてるんだから、そう考えるのは自然だった。
それまではとりあえず、この子を安全なところで保護しよう。私はそう決めた。
この子――そう、私は、この子をとりあえず人間として扱うことにした。
幸いなことに、人形が倒れていた場所の近くに洞窟があった。その洞窟で、私は一晩を過ごすことに決めた。
洞窟は、ガラスから突き出た岩場の中に自然にできたものだった。
海を旅する者にとって、洞窟や廃墟みたいな風を防げる拠点は重要だ。だって、風は脅威だから。風に舞い上げられたガラスの粉塵が、目から口から服の裾から、身体の内外問わず至るところに入り込んで害を成す。特に夜に吹く風は、寝ている間に肺を侵食していくことがある。
そんな脅威も、洞窟の中なら一先ずは安心だった。
入口から差し込む光を頼りに出来る限り洞窟の奥まで進んだ私は、背負っていたガラス人形をそっと岩の上に寝かせた。そっと置いたのにまた人形はパキパキっと音を立てて、最初と同じ寝ている体勢になった。今わかった。このパキパキは気にするだけ無駄だ。これからはもうちょっとぞんざいに扱おう。
ふうっと息をついていると、薄暗がりの中から私のほうをじぃっと窺う黄色い瞳が視界に入った。相棒のトカゲだ。
「……いくらぞんざいに扱うって言っても、踏んづけたりしたらダメだよ」
荷物を外してやりながら、そう釘を刺しておく。もちろんトカゲに人の言葉はわからないから、これは気休めにもならない。今日は眠らずに見張っていたほうがいいだろうか。
だけど見張るにしても、露骨に起きていては意味はないかもしれない。寝たフリをしてみて、そのときにトカゲがどんな行動に出るかを見てみないと。
そうと決まれば即行動だ。私はマントを脱いでガラスを振り払うと、それにくるまって横になった。
「じゃあ、おやすみ」
普段はやらないそんな挨拶をわざわざトカゲに投げかけて、私は如何にも寝ていますという風に寝息を立ててみた。目はつぶって、耳だけはしっかり研ぎ澄ます。聞き慣れた低い唸り声を意識して、私はそこにいるであろうトカゲを瞼の裏から睨みつけた。
さあ、トカゲ。やるならやれ。その瞬間に私は起き上がってお前を叱りつけてやる。そうすればさすがの爬虫類でも懲りるだろう。大丈夫、私は夜更かしには慣れている。そのせいでおじいちゃんにもよく叱られたぐらいだし、なんなら今晩一晩中、こうやって寝たフリを続けることだって……
…………………………………………………………………………………………ぐぅ。
* *
寝てた。
完っ全に寝てた。
ハッと目が覚めると、洞窟の中も外も真っ暗闇になっていた。そんな中、手探りで荷物を探り当ててカンテラをつけてみると、警戒していたトカゲは私が寝る前と同じ位置で大人しく眠っていて、心配していたガラス人形はちゃんと五体満足だった。
なんだか、情けなさと申し訳なさで居たたまれなかった。
あともう一つ、嬉しくないことに、私が眠りについたのはたぶん陽が沈む前だった。そのせいでこんな暗い時間に目が覚めてしまった。もう眠れそうにないけど、だからってこんな時間帯にトカゲを叩き起こして歩き出すのは気が咎める。
「はぁ……」
私はため息をつきつつ、腰を上げた。暗闇の中にいるのは目が寂しい。だからといってカンテラの点けっ放しは油がもったいない。仕方がないから、夜空でも眺めて時間を潰すことにしよう。
マントを着て、カンテラを片手に洞窟を出る。見上げると、夜空にはまん丸い月が浮かんでいた。そうか、今日は満月だった。
私はカンテラを入口の脇に置いて、月明りを頼りに岩場を登った。暗さのせいで足を滑らせないように、慎重に。大した高さもない岩場の天辺までくると、私はもう一度空を眺めた。何物にも邪魔されない、空だけの空が、視界に広がった。
空には、うっすらと雲がかかっていた。そのせいか星はほとんど見えない。だからこそ煌々と光り輝く月がより鮮明に見える気がした。
こんな風に月を眺めるのはいつ以来だろう。考えて、真っ先に思い出したのは、子供の頃に一緒にいた女の子と観たときのことだった。おじいちゃんとの思い出じゃないのは、自分でも少し意外だった。
あの子と一緒に過ごした時間は短い。短すぎて、私はあの子の顔もよく思い出せない。それでも、あの子という存在が今の私を形作る重大な要素になっていることは否定しようもなかった。もしあの子と出会っていなければ、今こうして旅を続けていることもなかっただろう。
考え事を続けていると、ぐぅ、とお腹がなった。
気の抜けた音に自分で苦笑する。そういえば昨日の夜は何も食べずに寝てしまったんだっけか。空もだんだん明るくなってきたし、そろそろトカゲを起こして朝食にしよう。
そう思って、腰を上げた時だった。
「――きゃああああああああああ!」
洞窟の中から、悲鳴が聞こえた。
聞き慣れない声。だけど私はなんとなく、あのガラス人形の声なんだろうなと思った。あの綺麗な人形が悲鳴をあげれば、こんな透き通った高い音が出るだろうなと。
私は、特に慌てなかった。慌てても仕方ないと思った。生きたガラス人形だなんてケッタイなものを保護してしまった以上は、多少の揉め事は避けられないだろうとわかっていたから。
ただ、あえて言わせてもらうなら。
「起きるのは、私が朝ご飯を食べたあとにしてほしかったな……」
空きっ腹を撫でさすりながら、私はそんなことを一人呟いた。
* *
洞窟に戻ると、ガラス人形が自分の手を見てわなわなと震えていた。
信じられないという風にそのガラスの瞳を震わせて、腕をこすったり、髪の毛を引っ張ったりしている。そんなことをしたらまたパキパキ割れたり、キーって嫌な音がするはずなんだけど、どうしてかそんなことはなかった。ガラスが動く時点で常識は通用しないってことだろうか。
「あの、大丈夫?」
恐る恐る、声をかけてみた。一応、いつでも武器を取り出せるように手はマントの中に入れておく。ガラス相手なら、ナイフよりその辺の岩のほうが効果あるのかな。
だけどそんな私の警戒は、幸いなことに杞憂に終わった。
「な、なん、なんなのですかこれは! わたしに何をしたんですか!」
私と目が合った途端、人形は怯えたように後ずさった。その反応から私は推察する。このガラス人形について。考えをまとめるのにそんなに時間はかからなかった。だって私は、昨日この洞窟へ来るまでの間にもいくつか予想を立てていたから。
大雑把に分けて、予想できるのは3つ。
① 生きてるように見えるだけの機械仕掛けの人形
② 職人が作った人形に魂(?)を吹き込んだもの
③ 人間が呪いか何かでガラスの姿に変えられた
この反応からして、たぶん……
「つまり、あなたは元は人間だったってこと?」
「そんなの、決まってるじゃないですか! 早く元に戻してください!」
半ば悲鳴のような声。
これで確定した。この子は人間だ。身体はガラスでも、心は間違いなく人間だった。
その事実に、私はほっとした。どうやらこの洞窟までわざわざ運んだのは無駄じゃなかったらしい。人命救助のつもりがただのお人形遊びでしたでは、あまりにも恰好がつかない。
反面、面倒なことに巻き込まれたな、とも思った。旅に不測の事態は付き物とはいえ、ここまでのことはそうはないんじゃないだろうか。身体をガラスに変えられてしまうだなんて。
さて、ここからどう収拾をつけたらいいのかなと考えながらも、私はとりあえず、洞窟の奥で震えている女の子に事情を説明してあげることにした。
「まあ、落ち着いて。私は別にあなたには何もしてないから。ただ、倒れてたからここまで連れてきて寝かせただけ」
「ふぇ……じゃ、じゃあ、このヘンな身体はなんなのですか?」
「さあ?」
首を捻る。むしろ私が聞きたかった。
「もともとガラスになりやすい体質だったとか、ない?」
「そんなヘンな体質聞いたことないです!」
うん、私もないや。
結局、また首を捻ることになった。女の子は頭を抱えて「夢だ……これは夢だ」とかやっている。その反応はよくわかる。私も朝起きて突然身体がガラスになっていたら、パニックになると思う。
とはいえ、そのまま放っておいても話は進まない。
「とりあえず、お互いに自己紹介しない? 私はラルゥ、旅をしているの」
手始めに自分の名前を名乗ってみた。相手に名前を尋ねる時はまず自分から名乗るものだって、おじいちゃんも言ってたし。
そんな私に女の子はパチパチと瞬きすると、頭を抱えていた手を胸の前でぎゅっと握りしめて、言った。
「わた、わたしは、カノン、です」
「カノンさんね。カノンさんは、どこに住んでる人?」
「わたしは、あの……、………………あれ?」
そこでカノンの動きが、ピタッと止まった。
「わたし……えっと? わたしはカノンで……あれ?」
「か、カノンさん?」
見るからに尋常じゃないその様子に、私は慌てて声をかけた。すると、カノンは目尻を落として、泣きそうな顔になって、こちらを見返してきた。
「わ、わからないのです……」
「わからない?」
「はい……」
その、救いを求めるような、縋るような目で、
「名前以外……なにも、思い出せないのです……」
そう、カノンは言った。




