プロローグ
見渡す限りの、ガラスの海だった。
空の青と、ガラスの蒼。そんな青一色の世界を、私は相棒のオオトカゲと一緒に歩いていた。時折トカゲがぐるるぅと唸れば、私はその喉元を掻いてやる。あんまりやりすぎても調子に乗るので、程々に無視する。トカゲは今日も元気そうだ。少し前までと違って無造作に頭を撫でてくる人がいない分、機嫌は良さそうに見えた。
私は、南の大木を目指していた。言うまでもなく、カノンを見つけたあの大木だ。
行き先のことは誰にも、あのおばあさんにも話していない。その目的も。だからおばあさんはこれからずっと罪悪感を抱えたまま生きていくことになるんだろう。それでいいと思う。あの人は悪くないとは言っても、それぐらいは感じていてもらわないと割に合わない。不幸は平等に訪れるべきだ。私を除いて。
強い風が吹いた。ゴーグルをつけマントを整えながら、私は天を仰いだ。雲一つない空。なのに風だけが吹いている。妙な天候だった。
おじいちゃんは、私にたくさんのことを教えてくれた。だけどこの世界のすべてを教えてくれたわけじゃない。私は知らないことがたくさんある。この天候のことも、カノンのお母さんのことも、そしてこの先に待ち構える結末も。
確信は何一つない。だけど行って損をすることもない。だったら行こう。行く理由? そんなもの、考える必要はなかった。おじいちゃんの言葉を思い出すまでもない。私が行きたいから。行って、確かめたい。カノンのためじゃない。私が、そうしたいから。
私は、歩いた。ガラスの海を、一人と一匹で。
* *
大きな木が視界に入った。
青一色の中で嫌でも目立つその緑の色に、私はどこか懐かしさを覚えた。ここでカノンを見つけたのはたった数日前のことなのに、なんだかおかしい。
特に警戒することもなく、私は木へ近づいていく。木の下にガラス人形が倒れてることはない。そこにはただ、木があるだけだった。
その木の傍に立ち、幹にそっと触れて、目を閉じる。
カノンのお母さんは、この木に触れて何かを思ったんだろうか。私にもその気持ちを少しは感じ取れるかと思ったけど、もちろんそんなことはなかった。私は目を開いて、トカゲの荷物を下ろした。中からバラバラのスコップを取り出して、組み立てる。
組み立て終わると、私は木の周りを掘り始めた。ガラスの地層は柔らかくて掘りやすい。だけどどこにそれが埋まっているかわからないから、見つかるまでには時間がかかるだろう。今はまだ昼前だけど、もし一日掘り続けても見つからなかったら、私はテントを張るつもりでいた。それだけの準備を整えてきた。
だけど、そんな準備は不要だった。
昼前になって、スコップの先に何かがコツンと当たった。私は更に掘り進める。偶然にしても出来すぎだと思った。まるで、私が掘った場所に吸い寄せられてきたかのように、それはそこにあった。カノンの話とは大きさがだいぶ違ってたけど、それに間違いない。
周りも掘り進めて、私はそれを地表に引っ張り出した。それは、木の箱だった。人一人がすっぽりと収まりそうな大きさの箱。五十年の歳月のせいか、箱はボロボロに朽ち果てていた。
その箱の、ほとんど意味を為していない蓋を引き剥がして、中を確認する。あれがあるはずだと思った。私の予想通りなら。なかったら、また別の手を考えないといけない。だけどあるはずだ。カノンのお母さんが、カノンのお母さんなら。
そしてそれは、確かにあった。
それだけは、朽ち果てずにそこにあった。なぜならそれはガラスの箱に納められていたから。カノンのお母さんはこうなることを見越していたんだって、それだけのことからも窺えた。
私は、その中を見なかった。私が見る必要はなかった。
ガラスの箱をそっと脇に置いて、そしてその横に、マントの中から取り出した髪の束を置いた。
ガラスでできた、カノンの髪。オアシスで野宿した日に、カノンの頭から私がちぎり取ったもの。
私はその髪に向かって念じた。私には確信があった。
神使のなんとかエルさんは言っていた。この世界には魂がある。魂はどこにでもあって、どこにもないと。
警吏の人たちは、カノンの身体を粉々にした。そしてその粉すら持ち去った。あれは、単なる見せしめのため? ううん、違う。身体が一部分でも残っていれば、カノンは復活できる。だからこそあの人たちはあそこまでのことをしたんだ。
あのあと私は、念入りに持ち物を検められた。たぶんカノンの身体を持っていないか確認したんだと思う。だけど、そのとき既に宿に置いていた荷物までは調べられなかった。だからカノンの髪の毛を私が持っていたことを警吏の人は知らない。カノンだって知らなかっただろう。言ってなかったし。
私が髪の毛を捨てずに持ち続けていたのは、実験も兼ねてのことだった。あと、売ればお金になるかもと思った。こんな形で役に立つとは、思ってなかった。
髪の毛を見て、イメージする。魔法のコツは私も知ってる。そうなって当然と思うことだ。そしてそれはそんなにも難しいことじゃなかった。私はカノンの身体が元通りになるところを何度も見た。カノンの姿形もよく覚えてる。だから、できて当然だ。
髪の毛が、ピクリと動いた。
いや、髪の毛だけじゃない。髪の毛の周りの海が、もぞもぞと動いていた。海が盛り上がる。人の形に。固まって、その隙間をなくしていく。
呆気ないとすら思うほど、あっという間の出来事だった。
そこには、裸身のカノンが横たわっていた。
「……、…………。これは……」
「おはよう、カノン」
呆けるカノンに、ごく普通の挨拶を投げかける。驚きとか感動とかはなかった。だってこれは、できて当然のことだったから。
カノンは私の顔を見て、辺りを見て、自分の手を見て、最後にもう一度私を見た。やがて、自分の身に何が起こったのかおぼろげに察したのだろう。くしゃっと顔を歪めて、身体を震わせた。
「どうして……」
「だってカノン、死にたくなかったでしょ」
用意していた言葉を並べる。
「誰かの迷惑とか、そんな理由で死ぬなんて馬鹿げてるよ。カノンが生きたいなら、生きなきゃおかしい」
「わたしは……!」
だけどそんな言葉だけじゃ、カノンには届かない。
「わたしは、ラルゥさんが思ってるほど、お人好しじゃないのです……」
私がカノンにお人好しって言ったことはあっただろうか。なかった気がする。だけど実際、そうだと思う。カノン以上にお人好しな人はいない。誰かの迷惑になるからって言って死ねる人が、お人好しじゃなくてなんなんだろう。
「ちが、います……そんなの、ただカッコつけただけで……本当は、もう嫌だったのです。生きるのが。迷惑をかけるのが、嫌だったんじゃなくて……。迷惑をかけてるって、思うのが、もう、どうしようもなく、嫌で……」
その違いは、私にはわからない。
わからないし、やっぱりお人好しだなあって、そうとしか思えなかった。
「いつか、お母さんに会えるならって、そう思って我慢してました。でも、もう、会えない……会えたとしても、お母さんはきっとわたしになんか会いたくなかった。それがわかったら、もう、わたしの生きる意味なんかなかったのです。ほんと、なんでわたしみたいなのが生まれてきたんでしょうね? バカですよね、お父さん。こんなガラスを降らせて、わたしみたいなのを作って、それが何の役にも立たないなんて」
「カノンのお父さんは、」
私は、言った。あの時、考えて気づいたことの一つを。
「意味もなく、雪を降らせたわけじゃないと思うよ。これだけ国中がガラスだらけなら、カノンに何かあっても生き残りやすいから。そのために雪を降らせたんだと思う」
「だから! そのわたしが何の役にも立ってないんじゃないですか!」
叫んだカノンを警戒するように、トカゲが傍に寄ってきた。その頭を撫でながら、私は地面の上に置いていたガラスの箱を手に取った。カノンが目を見張る。
「それは……?」
「カノンと一緒に埋めてあったものだよ。さっき掘り起こしたの。きっと、カノンのお母さんが入れたんだと思う」
「お母さんが……」
カノンが伸ばしてきた、その震える手の上に、私はガラスの箱を置いた。手の平に収まる大きさのガラスの箱。カノンがそれを開くと、中には折り畳まれた手紙が入っていた。
カノンが、息を呑んだ。
すぐに手紙を開いて、読み始める。だけど私は読まなかった。というか字は読めないし、それに読まなくてもだいたいの内容は予想がついていたから。トカゲの頭を撫でたりしながら、カノンが読み終わるまでの時間を潰していた。
おかしいと思ったのは、木の箱のことだった。
カノンの話だと、カノンのお母さんは潰したカノンを入れるために木の箱を準備したらしい。だけど、木は高い。そしてその割には腐りやすい。現に五十年経った今、木の箱は腐って蓋が開いていた。これがガラスの箱なら、こんな風にはなってなかっただろう。
ガラスは重いから? ここまで運べないから? いや、それを言うなら木の箱だってこのサイズなら大概重いだろう。何かもっと別の理由があったはずだ。
例えば、腐らせることそれ自体が目的だったとか。
もう一つ、おかしいと思ったのはこの場所だった。大きな木の下。この木の大きさなら、きっと五十年前もこの場所に木はあっただろう。本当に誰にも見つけられたくないのなら、こんな目立つ場所は避けたはずだ。私だって、木がなければカノンの存在には気づかなかったかもしれない。
それをわざわざこんな場所を選んだのは、誰かに見つけて欲しかったからじゃないだろうか。
木の箱はいずれ腐る。腐れば軽いカノンの身体はガラスの海から浮かび上がる。そのカノンを、誰かに見つけて欲しかったんじゃないかと、私は考えた。
「……ラルゥさん」
呼びかけられて振り返ると、顔を伏せたカノンが手紙を一枚だけ差し出していた。
よくわからないなりに受け取って、さっと目を通して、やっぱりよくわからないままに突き返した。
「ごめん、私、字は読めないから」
「じゃあ、わたしが読みますね。……いえ、その前に、ちょっと、待ってくれますか」
カノンが顔を逸らす。そうした意味と、何を待ってほしいのかは、その震える声音でよくわかった。
しばらく、カノンのすすり泣く声が聞こえた。それを背中で聞きながら、私はこれからのことを考えた。
やがて、肩をそっと叩かれた。振り返ると、カノンはまだ顔を伏せたままだった。そのまま、手紙を読み始める。
「『カノンを見つけてくださった方へ』……」
* *
カノンを見つけてくださった方へ
まずは、この子、カノンを見つけてくださったことを、お礼申し上げます。ありがとうございました。
この子がどういった経緯でこのような姿になっているのか、そしてなぜ海の真ん中に埋めたのかについては、別に書かせていただきましたので、そちらをお読みいただければと思います。
その上でどうか、無恥なこととは思いますがどうか、私の願いを聞いてください。
この子を、助けてあげてください。
この子は優しい子です。そして可哀想な子です。この子をこれ以上隠し通すのは、私には出来ませんでした。今の時代は、この子には厳しすぎます。また、私にはもう一人のカノンもいます。二人を守り抜くことは、私にはできませんでした。
この子にこんな運命を背負わせたのは、私たち夫婦の罪です。償って、それでこの子が救われるならそうしました。しかしそれでは救われません。私にはもう、これ以外に方法が思いつきませんでした。
私には、この子を見つけてくださった貴方に頼るしか手がありません。貴方が少しでもこの子を哀れと思ってくださるのなら、どうかお願いです。この子を助けてあげてください。近くの街まで連れていってくださるだけでも十分です。
貴方に見つけていただいて、この子が目覚める時、その時代がこの子にとって少しでも生きやすい時代になっていたのなら、私にはもう何も言うことはありません。
どうかこの子を、よろしくお願いします。
* *
「……中には、わたしへの手紙も、入っていたんです」
カノンは、別の紙を手に取った。
それを愛おしそうに、悲しそうに見ながら、カノンは言う。
「そこに、書いてありました。わたしのことも、大切に思ってるって。わたしのこと、娘だって。お父さんとお母さんの、大切な娘なんだ、て……」
最後のほうは、震えて声にならなかった。
存在しない涙を流すカノンの背中を、私は恐る恐るさすった。そんな私を見上げて、カノンの目元がきゅうっと潤んだように見えた。我慢できないというように、私の胸元に飛び込んでくる。嗚咽をあげるカノンを、私はそっと抱きしめた。
「最後に、お母さんを、見たとき……」
嗚咽の合間に、カノンは言った。
「お母さん、何か言ってたんです……『ごめん』じゃない、何か……だけど、ガラスの音で、聞こえなくて……でも、あれは、あれは……」
「…………」
「『愛してる』って、言ってくれてたんです」
愛してる。
その言葉の意味は、私にはまだわからなかった。
その言葉で、カノンは生きる気力を取り戻したんだろうか。カノンのお母さんはカノンを殺した。その事実は変わらないのに、ただ愛されていたっていう事実だけで、許せてしまうものなんだろうか。
わからなかった。わからないけど、私もいつか。
カノンと一緒に生きていけば、いつか私にもわかる時が来るんだろうか。
カノンの背中をさすって、空を見上げながら、私はそんなことを思った。
* *
「本当に、わたしなんかが旅についていって迷惑じゃないんですか?」
カノンがそれを聞いてくるのは、もう何度目だろう。大木から南へ向けて歩き始めてから約半日。だんだん数えるのも面倒になってきた。
「だから、迷惑じゃないってば。魂がどうとか罪になるとかその辺の人は知らないし、旧王都に行かなければいいんだから」
「でも、でも……わたし、何もできませんし」
「字が読めるでしょ?」
「そんなことで役に立てるんですか?」
「ううん、ごめん、今すっごい適当に言った」
字を読めるに越したことはないけど、それだけで役に立つとは言い難い。
私は、考える。カノンを連れていくことのメリットを。
「ご飯は必要ないし、疲れたりもしないから、何かあっても私の身体を引きずって運んでくれそう」
「そんな状況、想像したくもないですけどね……」
「あと、首だけ切り取って身体のほうを売れば、それなりにお金儲けできそう」
「嫌ですよそんなの!」
逃げられた。またすぐ生えるんだからいいじゃないかと思うけど、そういう問題じゃないらしい。
「ていうか、さっきからラルゥさん、無理やり理由を作ってるじゃないですか。本当の理由は何ですか?」
「理由、理由ねえ……」
本当は、理由なんてない。私はただカノンと一緒にいたいと思って、それだけでカノンを生き返らせた。カノンが好きだから。
だけどそんな理由、私だったらまず納得しない。カノンだってきっとそうだろう。私は、考える。考えて、そして、
「あ、」
思いついた。
「……なんだか今、露骨に思いついたって感じでしたけど」
「そんなことないよ。ただ、あやふやだったものがちゃんと形になっただけ」
「一応、聞きましょうか」
「私の旅の目的なの」
首を傾げるカノンに、私は優しく微笑みかけた。
「カノンといれば、それが果たせそうだなって思って」
「旅の目的って……何なんですか、それ」
「それはね、まだ、ナイショ」
ええー、と不満そうな声をあげるカノンを置いて、私は少し早歩きで先を歩いた。いっそ走り出したい気分だった。なんだか今なら、空も飛べそうな気がする。
そんな私の後を、困ったような顔でカノンが、無骨な顔でトカゲが追いかけてくる。それを見ながら、私はまた笑った。笑えた。
そうして私たちは、また歩いていく。このガラスの海を。二人と一匹で。
* *
次から次へと、血が溢れ出して止まらない。
包帯は出し切って、そのすべてが真っ赤な血に染まっていた。私の手も、真っ赤に染まっていた。だけどそれでもまだ血は溢れ出してくる。この血が本当に一人の人間から出てきたものなのか。血を見慣れた私だからこそ、この量が尋常じゃないことはよくわかった。
「おじい、ちゃん……」
私は、泣いてはいなかった。心臓がバクバク脈打ってるのを感じる。頭の中は真っ白だ。だけど涙は流れなかった。きっと遥か昔に、私の涙は枯れてしまったんだろう。
「すまん、な……ラルゥ……」
おじいちゃんは顔面蒼白で、額にはびっしりと汗をかいていた。
目に入りそうになったその汗を拭ってあげると、代わりに私の手についていた血が顔についてしまった。その血を拭おうと思って、だけど私の服は血だらけだ。あたふたする私を見て、おじいちゃんはおかしそうに笑った。
「本当に、すまん……」
謝られてもと、そう思った。
おじいちゃんは何も悪くない。悪いのはむしろ私のほうだ。私がいなければおじいちゃんはこんなことにはならなかった。そう、謝るとしたらむしろ……
「ごめんなさい、おじいちゃん……」
私の目から、水が零れた。
涙じゃ、ないと思う。だって涙は赤くはないから。顔についていたおじいちゃんの血が垂れた。きっと、そう。
おじいちゃんが、私の頬を指で撫でた。愛おしそうに。すまん、すまんなと、何度も口にした。だけど私が聞きたかったのは、そんなことじゃなかった。
「私は、これからどうしたらいいの?」
これまで、おじいちゃんにひっついて旅をしてきた。何をすればいいかは、ぜんぶおじいちゃんが教えてくれた。朝起きた時。夜寝る前。明日の予定もその後も、ぜんぶぜんぶおじいちゃんが教えてくれた。
そのおじいちゃんが、もうすぐ、死んでしまう。
そうしたらその後、私はどうすればいいのか。
わからなかった。わからなくて、怖かった。おじいちゃんがいなくなったらなんて、これまで考えたこともなかった。自分一人でだなんて、生きていけるとは思えなかった。
おじいちゃんの手が、ゆっくりと上がった。震える手を持ち上げるのもしんどそうで、おじいちゃんがしようとしてることを直感的に悟った私は、その手の下に自分の頭を滑りこませた。
おじいちゃんが、頭を撫でる。優しく、優しく。
「……さがしなさい」
その声は、顔を近づけないと聞き取れないほどに、小さなものになっていた。
「何を?」
「死に場所を」
その、不吉な言葉を。
おじいちゃんは、笑って口にした。
「今、じいちゃんが、そうしてるように。ラルゥも、笑って死ねる場所を、見つけなさい。それは場所じゃなくて、人かもしれん。じいちゃんにとっては、ラルゥ、お前がそれだった。じいちゃんは死に場所を見つけた。お前も見つけなさい。これからのお前の、それが、旅の目的だ」
その前にこっちに来たら許さんからな、と、おじいちゃんはそう言って笑った。
そしてその後、私の頭から、おじいちゃんの手がずり落ちて、
おじいちゃんは、死んだ。