あなたが幸せでいてくれるなら
カノンが部屋を出た後、おばあさんと先生に適当に挨拶を済ませてから私はカノンの後を追った。治療費を払わずに出たけど、特に何も言われなかった。
外に出ると、カノンは公道の真っ只中でフードも被らずに立ち尽くしていた。私は慌てて後ろからフードをかける。その時、気付いた。
カノンは泣いていた。涙を流さずに泣いていた。
「カノン……」
その姿と、さっき中で啖呵を切ってみせた姿が、まるでそぐわない。
私はそこでようやくわかった。さっきのカノンのあれは、嘘だったんだ。カノンらしくないと思った。あんな言い方。私の胸がすっとするような、あんな言葉、いつものカノンなら言わない。
「どうして、あんなことを?」
「だって、迷惑、でしょう? そんなの……」
背中をさする私に、嗚咽交じりの声でカノンは答えた。
あの二人は幸せそうだった。その姿に私は腹を立てた。だけど当のカノンは、それを壊してはいけないと思ったらしい。自分が入れば、あの二人は幸せではいられない。あの人たちは大丈夫だと言ったけど、大丈夫なわけがない。それぐらいは、私やカノンでもわかった。だってこの身体のせいでカノンは母親に殺されて、私たちは今も追われるハメになっているんだから。
「あれが、お母さんが、守ったもので……」
カノンにとって、お母さんはやっぱりお母さんだった。
例え偽の記憶であっても、それは変わらない。お母さんが好きな気持ちも、変わらない。
好きな人が守ろうとしたものを、自分も守り抜きたい。その気持ちは、普通じゃない私にも理解できた。
「わたしは、もう、いらない……いらないから、お母さんは……」
カノンを叩き潰した。埋めたカノンを掘り返すことをしなかった。
それでも、そのことがわかっても尚、カノンはお母さんが好きなままだった。そして好きだからこそ、捨てられた事実が、カノンの胸を蝕んでいる。
どこまでも、救いがなかった。生まれてきた理由はとうに失われ、今や誰にも必要とされず、いるだけで迷惑をかける。生きる理由も、目的も、そして居場所もない。
診療所を出る時、私はおばあさんに言われた。「あの子のことをよろしくお願いします」と。
ふざけるなと言いたかった。こんなズタボロの状態にしておいて、何がよろしくだ。私を、この子をなんだと思ってるんだ。こんな状態からカノンが立ち直れるわけがない。お前もカノンならそれぐらいわかれと言いたかった。
私だって、こんなカノンを立ち直らせる言葉なんて知らない。時間が欲しい。だけどカノンは今にも崩れ去ろうとしている。身体中からピキピキと罅が入る音が聞こえてくるような気がした。
もう、街から出るどころじゃなかった。
今、この場でかけるべき言葉。私は全身全霊をかけて、それを探した。
カノンを見つけた日。大木の下、行き倒れていたカノン。カノンと共に歩いた道中。カノンの見た夢。たくさんの人から聞かされた話。それらすべてを思い出しながら、私は考えた。
頭が激しく回転する。息が切れる。頭が痛む。額に脂汗が滲む。それでも私は考えて、考えて……
「カノン……」
そして私は、口を開いた。
「これは、ただの予想でしかないけど……」
カノンが、顔を上げる。
私はその目をまっすぐに見た。不安に苛まれながら。本当に、合っているんだろうか。合っていたとして、これでカノンは生きる気力を取り戻してくれるんだろうか。取り戻したとして、その後は? 何もわからない。考えている時間がない。ただ、今はこの瞬間を乗り越えないといけない。そう思って私は、自分の考えを口に乗せようとして……
「いたぞ!」
寸前で、誰かの野太い声が私たちを遮った。
顔を向けると、そこには警吏に人がいた。一人、二人、三人……。一人が笛を吹き鳴らすと、反対側からも同じ服装の人たちが現れた。
チッ、と舌打ちする。考えることに夢中で周囲の警戒を怠った。おじいちゃんがいたら怒られてるところだ。
どこか逃げる場所は……と周囲を見回した時、さっき出てきたばかりの診療所の扉が開いた。
「早く!」
中からおばあちゃんが手招きしている。今は警吏が目の前だ。こんな状況で私たちを匿えばこの人たちだってタダでは済まない。わかっているだろうにそれでも助けようとしてくれるのは、ただの哀れみや罪悪感からなのか、それとも何か別の感情が含まれているのか。わからなかったけど、そんなこと今はどうでも良かった。
私は半ば反射的に、マントの中から木片やガラス細工を落としつつ、カノンの手を引いた。
しかし……
「……カノン?」
カノンは、動かなかった。
まるで地に足が縫い留められたかのように、その場に立って、動こうとはしなかった。
私は気づく。カノンが何をしようとしているのかに。
「か、カノン! ダメ! 違う、カノンは……お母さんは……」
さっき言いかけたことをもう一度言おうとして、しかしまだ自分の中で消化しきれていないそれは、焦りもあって上手く言葉にならない。
支離滅裂な私の言葉に、カノンの足を動かす力はなかった。
「ラルゥさん、これまでありがとうございました。何もお礼できてない上に、こんな形になってしまったのは申し訳ないのですが……」
「ま、待って、カノ……!」
完全に諦めきっているカノン。それを言葉で奮い立たせようとして、しかし途中で私は無理を悟った。
もう、私の言葉じゃあカノンの気持ちを変えられない。変えられるとしても、警吏に囲まれるほうが先だ。
瞬間、私は切り替えた。
カノンの気持ちを変えられないなら、そんなカノンは無視してしまえばいい。カノンを守るために邪魔なら、カノンだって排除する。私にはそれができる。普通じゃない私なら。それにこれは、既に一度やったことだから。
カノンの手首を放す。その五本の指のまっすぐ揃えて伸ばし、そこにありったけの力を込めた。その貫手を、カノンの首元目掛けて突き刺す。
盛大な破砕音が、街に響いた。手にいくつものガラス片が突き刺さり、カノンの生首が宙に飛んだ。それを私は反対の手で掴む。
こうなってしまえば、カノンの意志なんて関係ない。持ってそのまま診療所の中に逃げ込めば終いだ。私はすぐさま開いた扉のほうへ向かおうとして……
その時、銃声が響いた。
世界がひっくり返る。
まるで足がなくなったみたいだった。受け身も取れず、思い切り身体を打ちつけた。頭に受けた衝撃で視界がぐわんぐわん揺れる。痛みに強い私でも、こればっかりはどうしようもなかった。
「う、……ぐ、ぅ……」
呻き声が口から洩れる。入口に向けて伸ばした私の手を、おばあさんが引き込もうとしてくれていた。だけど年もあってか、そう動きはどうしようもなく遅い。腕を掴んだ頃には、私とカノンは何人もの警吏の人に囲まれていた。
私は思わず、カノンの頭を抱えた。亀みたいに、お腹の下に入れて、守ろうとした。だけどもちろん、そんなことで守り切れるはずがなかった。
私は取り抑えられて、頭は取り上げられた。転んだせいだろう。カノンの頭には大きな罅が入っていた。
カノンの首を持った人が、それを天高く掲げた。何をつもりなのかは、すぐにわかった。
「カノン!」
私は叫んだ。肺の中の空気全部を使って、叫んだ。両腕を掴まれた私にできる唯一のことが、それだった。
カノンと、目が合った。その時、カノンは何を思っていたんだろう。
カノンは、笑っていた。
寂しそうに、悲しそうに、笑っていた。
それが心からの笑顔でないことは、私にもわかった。ただ、カノンは優しいから。残される私の気持ちを思いやっての笑顔なんだって、わかった。
カノンは、最後までどうしようもなく、カノンだった。
やたらと気を遣って、無邪気で、お人好しだった。
地面に叩きつけられ、粉々に砕かれる、その時まで。
* *
私は、死を覚悟していた。
物体に魂を込めるのは、重罪だって聞いていたから。例えそれを隠しただけでも同じだけの罰に処せられるって、なんとかエルさんが言っていたから。
だけど実際には、私の罪は、罰金と街の外への追放だけで済んだ。逃げる時にあれだけ大暴れしたのに、これは破格の処遇に違いなかった。
執り成してくれたのは、おばあさんと先生だった。二人は極悪人の親類として世間に後ろ指刺されるような立場だったはずなのに、この五十年で色んな人の信用を勝ち取って、今では罪を軽くするよう口利きできるほどまでになっていた。
罰金も二人が肩代わりしてくれたので、私に実質的な損害はなかった。身体を切ったり足を撃たれたりはしたけど、それも先生がタダで治療してくれたから、言うことはなかった。
そんなわけで、私は相棒のトカゲを売り払うことも、門の上を乗り越える必要もなく、今こうして、正面から堂々と門を潜り抜けていた。周りを警吏の人たちが囲んでいるけど、見送りだと思えば悪くない。
本当の見送りも、ちゃんといた。言わずもがな、おばあさんと先生だ。お詫びに、と言ってお金を差し出してきたので、躊躇せずに受け取っておく。見ると大金だった。これで旅がしばらく楽になりそうだ。
「今回のことは、本当に、何と言っていいか……」
今さらのように、おばあさんがそんなことを言った。
正直、このおばあさんには腹が立つことも多い。この人がいるせいで、カノンはその存在を許されなかったんだから。原型がわからないほど全身を粉微塵にされて、しかもその粉すら残さず持ち去られるというのは、あんまりと言えばあんまりな仕打ちだった。
だけどそれがこの人の責任じゃないってことは、私にもわかってる。元々、『カノン』という人のための席は一つしか用意されてなかった。そこにこのおばあさんはただ座らされていただけ。そしてカノンは座れなかった。それだけの話だ。だいたい、罰金を払ってもらって、治療してもらって、大金まで貰って、それで恨み言を言えるほど私は図々しくない。いくらなんでも。
「『わたし』を見つけてくれたのが、あなたで良かった。あなたが良くしてくれたから、『わたし』は私の元まで来られたし、いなくなる前にすべてを知ることができた。笑って、終わることができた。一人のカノンとしてお礼を言うわ。ありがとう」
カノンの最後の笑顔を、このおばあさんも扉の隙間から見ていたらしい。
あの笑顔が偽りの笑顔だってことに、この人が気づいていないとは思えなかった。だって、治療を受けたりしている間に、わかったから。この人は、カノンや私よりずっと賢くて、人の心がわかる人だって。
そんな人がこんな的外れなことを言うのは、きっと私のためを思ってのことだろう。カノンは悔いなんて残していなかったと、私にそう思わせたいんだ。やっぱりこの人もカノンなんだなと、私は改めて思った。そう思ったからこそ、私はカノンの最後をそんな風に言われたことに、腹を立てたりはしなかった。
私が腹を立てたのは、別のことだ。
「『わたし』なんて、言わないでください」
おばあさんが、ハッと息を呑んだ。
「あなたと、カノンは、別人です。少なくとも私にとってはそうです」
『カノン』という人の席は一つしか用意されていない。だけどそれはこの街の中での話だ。
一歩街を出れば、世界は無限に広がっている。その世界には、席なんかいくらでもある。誰が誰だとか、生きる理由だとか、そんなちっぽけなことは気にならなくなる。
私を初めて旅へ連れ出す前に、おじいちゃんが言ってくれた言葉だった。そして、私がカノンに言えなかった言葉。このことを知っていれば、きっとカノンも、カノンのお母さんも、このおばあさんも、きっと苦しまずに済んだろうに。
「そう、ね……そうよね」
私の、おじいちゃんの言葉を、その人は噛みしめるように口にした。
そして顔を上げて、にっこりと微笑んだ。その顔は皺だらけだけど、やっぱりどこかカノンの笑った顔と似ている……別人と言いながらも、私はそんなことを思った。
「あの子も、あなたと一緒に旅をすれば、幸せになれたのかもね」
その言葉を私は、無責任だとか、不謹慎だとは思わなかった。
私は空を見上げた。雲はない。光もない。絶交の旅日和だった。門の外の蒼い海は地平線の彼方まで続いていて、きっとあの向こうに、カノンと出会った大木がある。
その木の姿を頭に思い浮かべながら、私もおばあさんと同じようににっこり笑って、言った。
「私も、そう思います」