世界を敵に回しても
納得は、実はしていない。やっぱり自分が正しいと思う。私の怪我なんかよりもこの街から出ることが先決だって。だけどどうしてか、私にはそれ以上言い返すことができなかった。
カノンが言うには、ちょうどここから門へ行く途中に診療所があるらしい。小さい診療所だけど、優しいお医者さんがいるとカノンは言った。でも、カノンのその記憶はたぶん五十年ぐらい前のものだから、頼りにはならない。診療所があるかどうかすら怪しかった。「なかったら諦めてそのまま門に行くからね」と言い含めると、「その時は仕方がないですね」とカノンも納得してくれた。
なんだか、妙な会話だなと思った。カノンも私も、自分が損をする主張ばかりしている。これが特別ってことなんだろうか。まだどこか腑に落ちなかった。
「カノンは、ユリエルさんのあの話、まだ嘘だと思ってるの?」
道中、私は尋ねた。どこか責めるような口調になってしまったのは、意図したことじゃなかった。
ユリエルさんのあの話を、カノンはあの時「嘘だ」と言った。だけど私からすると、ユリエルさんが嘘をついてるようには思えなかった。例えあの話が私たちをあの場に食い止めるためのものだったとしても、話そのものは、本当の話だろうと思った。
「……嘘は、ついてないのかもしれません」
しばらく考えこんだあと、渋々というように、カノンはそれを認めた。
「だけど、何かおかしいと思うのです。その、うまく説明はできないのですが……わたしのお父さんは、そんなことをする人ではないのです、絶対に」
カノンはよっぽど、お父さんのことを信頼してるらしい。それは私にとってのおじいちゃんのようなものだろうか。だとしたらその気持ちも……どうだろう、わかるような、わからないような。おじいちゃんなら、国中を騙すくらいのことはやってのけそうだと思った。何かしらの理由ぐらいは、あるんだろうけど……
あ、そうか、理由だ。
「何か、理由があったんじゃない? 死にたくないとかお金が欲しいとか以外の」
「私も、そうかなと思ったんです。だってお父さんは、死ぬ前にわざわざ私の身体をガラスに変えてるから……」
そういえば、そうだったっけ。
カノンのお父さんは、死ぬ数日前にカノンの身体をガラスに変えた。本当はその後で元に戻すつもりだったらしいけど、その前に処刑されてしまった。その結果、カノンはお母さんに叩き潰されて、今はこうして国に追われる身になっている。
つまり、お父さんのしでかしたことのせいでカノンは不幸になっているとも言える。それとも、ガラスになってなかったらもっと不幸な目に遭ってたんだろうか。
考えてみるも、ここから先は思案の材料が少なすぎた。カノンがガラスに変わる前の記憶を持ってないのも辛い。本当は街を出る前に、すっきりさせたかったんだけど……
「あ、ここです、ラルゥさん」
カノンが、一件の家を指さした。
それは本当に、ただの家だった。少し大きめだけど、それでもガラス職人のお姉さんの家より小さい。表に『ウィリアム診療所』と書かれた看板が出てなければ、診療所とすら思わなかっただろう。
「診療所、まだやってたんだね」
「そうみたいですね」
カノンは嬉しそうに答えた。自分の知ってる場所がまだあったことが嬉しいのか、私を手当できることが嬉しいのか、それはわからないけど。
カノンが扉をノックした。「どうぞ」と中からしわがれた男性の声がする。開けると、そこには声の通りの人が椅子に腰かけていた。それ以外は、患者さんも、看護師さんもいない。大丈夫なのかなここ。
「おや。見ない顔だね。旅の人かい?」
「はい、まあ……ちょっと怪我をしてしまって」
「ふむ。診せてくれるかな」
私はマントを脱いだ。その辺に置いとくのは心配なので、カノンに持っていてもらうことにする。しかし……
「カノン?」
「…………」
カノンは、呆然と立ち尽くしていた。
フードを下から覗き込むと、目を見開いて口をパクパクさせている。いったいどうしたんだろう。
「あ、あなたは……ウィリアム先生、ですよね」
それはそうだろう、と、私は思った。だってここはウィリアム診療所なんだから。先生がランスロットやヒューズだったらややこしい。
ところが、カノンの言ったのはそういうことじゃなかったらしい。ピクッと反応を示したのは、ウィリアム先生だった。
「まさか……君は、カノンくんか?」
「やっぱり。そうです、わたしです、先生」
あ、と思った時には遅かった。
カノンはフードを外して、顔を見せていた。ガラスの顔を。それを見た先生は、しばらくの間は信じられないというように身体を震わせていたけど、やがて諦めたように息をついて、目を閉じた。
「まさか、本当に来るとは……」
その言い方が、引っかかった。まるで来ることを知ってたみたいな、その言い方が。
「先生は、その……随分、年を取られたのですね」
カノンのその言葉は、自分が長い間眠っていたことを再確認しているかのようだった。やっぱりまだ、何かの間違いだと思いたかったんだろうか。紛れもない現実を目の当たりにして、ショックを受けているようにも見えた。
「私は、……いや。実は、だね」
先生が、ごくりと喉を鳴らした。
「君の身体のことは、いくらか聞かされて、知っているんだよ」
* *
話は、私の傷を手当しながらということになった。
ベッドに寝転がって服を捲る。捲るときに、固まりかけの血がベリベリと音を立てて剥がれた。ちょっと痛かった。だけどそれで顔をしかめたのは、私よりも先生のほうだった。
「君、もう少し丁寧に扱いなさい。痛いだろう」
「はあ、まあ、確かに痛いですけど」
時間もないし、早くしてほしいって気持ちのほうが強かった。
先生が傷口の消毒をしてから、針と糸を準備した。大きい傷口は縫ったほうがいいと言われて、カノンが(なぜかカノンが)了承した。思ったより時間がかかりそうだと、私はウンザリする。
先生が、麻酔を打ってくれた。私は高いからいいって断ったんだけど、タダにしてくれると言うので喜んで打たれることにした。
「カノン、嫌なら目をつぶってたら?」
針でちくちくされながら、私は枕元に立つカノンにそう言った。カノンは床の隅のほうへ顔を向けながらも、ちらっちらっと縫われる私へ目線を送ってくる。
「……いえ、でも、わたしのせいで怪我したんですから。わたしがちゃんと、見ていないと」
「別にカノンが見てても治るわけじゃないんだけど」
カノンが、へにょっと眉を落とした。なんかよくわからないけど挫けたらしい。でも私、間違ったことは言ってないよね。
「……それで」
先生が、カノンに問う。
「カノンくんは一部記憶喪失だということだけど、具体的には何が思い出せないんだい?」
喋りながらでも、その手の動きに淀みはなかった。なんだかプロって感じだ。自分が縫われてるのも忘れて、私はその手捌きに見入った。
「はい。えっと、ガラスに変わる前のことがあまり思い出せなくて……」
「なるほど。とするともしかして、君のお父さんが何のためにあんなことをしたのかも、わかっていないのかい?」
一言ですべてを理解してくれる。さすが、医療に携わる人は頭が良かった。
「そうです。お父さんのしたことは、さっき別の人から聞いたのですけど」
「納得がいかない、かな?」
「……そうです」
力強く、カノンは頷いた。
先生はそれを目の端で見て取って、嬉しそうに笑った。その笑みがどういった感情から来るものなのかは、私には伺い知れない。
カノンが一歩前へ出る。
「先生。私のお父さんは、どうしてあんなことをしたのですか? 何のために……死にたくないからですか? でも、お父さんは……お父さんは、悪い人だったのですか? 私の知ってるお父さんは、嘘だったのですか?」
カノンのその嗚咽交じりの声に、先生は優しく目を細めた。
無言で針を進めて、傷口を一つ縫い終えると、糸をパチンと切る。そして先生は言った。
「君のお父さんは、悪い人だった」
時間が、止まった。
そう錯覚するほどに、その静寂は長かった。
再び時を動かしたのは、床にへたり込んだカノンの身体に、ピキッと罅が入る音だった。
「そんな……嘘。だって、お父さんは、お父さんは……」
「嘘じゃない」
頭を抱えるカノンを追い詰めるように、先生は言う。
「君のお父さんがしたことは、到底許されることじゃない。あれは自分勝手で、許し難い男だ。あの人は自分が死にたくない、研究を続けたいというたったそれだけの理由で、国中をペテンにかけた。あの人は最低最悪の極悪人だ。すべてを知っている私だからこそ、それだけは断言出来る」
カノンがいやいやと首を振る。私はベッドの上からただそれを眺めていた。口を挟むことはしなかった。
「だが……」
二の腕に、チクッと痛みが走った。
先生が、腕に麻酔を入れていた。
「私は、嫌いじゃないよ」
カノンが顔を上げる。先生はもう、傷口を縫い始めていた。
「順番に話そう。あの人がなぜ、なんの為に、あんなことをしでかしたのか……」
* *
彼の目的は、君をそのガラスの身体に入れて、また元に戻すことだった。……知っている? そうか。だが、なぜそんなことをしようとしたかまでは、思い出せていないんじゃないかな。
カノンくん。君は病気だったんだ。君の心臓には生まれつき小さな穴が開いていた。その穴は成長と共に広がって、君は大人になるまでは生きられないはずだった。それを解決するのが、そのガラスの身体だったんだよ。その身体なら、魔力の続く限りいつまでだって生きられるからね。
ただ……君はもう知ってるかい? 物体に魂を込めるのは、重罪なんだ。だから君のお母さんは、ガラスの君を外へ出そうとはしなかった。家に閉じ込めて隠し通した。もちろん、ずっとそのままにするつもりはなかったんだろう。いつか将来、君の心臓を治す方法が見つかれば、君を元の人間の身体に戻すつもりだったとそう聞いている。残念なことに、その前に君のお父さんは死んでしまったがね。
それどころか、ガラスの身体へ移すことすらギリギリだったようだ。あの人は一流の神使ではあったが、それでも召喚魔法は並大抵のことではなかったらしい。彼には時間が必要だった。召喚魔法の研究を進めるための時間が。
彼は、死にたくなかった。
彼は、研究を続けていたかった。
詐欺が露見して動機を問い詰められた時も彼はそう言ったらしいが、それは嘘じゃないんだ。彼は、研究を続けていたかったんだ。
娘である君の命を救うための、研究を。
そして念願叶って、君の魂をガラスに移すことに成功した訳だが、その時既に、国中には雪が降り始めていた。そうでもしないと時間が稼げないほどに、彼は切羽詰まっていたんだ。あの人は決して愚かな人間ではなかったし、心無い人間でもなかった。自分のすることがどれほど多くの人を苦しめるかも、わかっていたはずだ。その罪の意識に苛まれながら、それでも彼がそれを止めなかったのは、彼の娘に対する愛が、それだけ深かったからだろう。
また、もう一つ。死を覚悟した彼を尚も苦しめるものがあった。それは……