007「巧言令色鮮し仁」
コンクリート打ちっぱなしの廊下を奥まで進み、レイは、クラッシクホテルのロゴにあるようなエレガントな筆記体で、七尾とローマ字書きされたマグネットシートが貼られたドアの前に立つ。
「七号室は、七尾マコト。三十代後半の男性。腹黒い訪問販売員。真夏でもブラックスーツを着ている、と。某ブラックユーモア漫画に出てくる、セールスマンみたいな感じかな」
バインダーに目を落としてぶつぶつと小声で独り言を言いつつ、レイが木目調の合板の張られた金属製のドアをノックしようとしたとき、ドアが開き、中から黒一色のスーツ姿の男が現れる。男はレイの姿を認めると、とびっきりの営業スマイルを浮かべつつ、立て板に水の弁舌を揮う。
「おやおや、これはこれは可愛らしいお嬢さん。こんな時間に、僕に何かご用かな? まあ、立ち話も何だからね。さあさあ、奥でお茶でも」
――何、この人。友好的だけど、その友好さが怪しすぎる。
片手の平を上にして胸の前に添え、部屋の奥を指し示していた男は、レイが警戒しているのを察してそっと片手を下ろし、眉根をハの字に寄せて大袈裟に残念がりながら言う。
「と、いきなり提案したところで、誘いに乗るようなタイプでは無さそうですね。ええ、そう易々といきませんね。近頃の若いお嬢さんにしては、珍しく操がかたくていらっしゃる。いやいや、良いんですよ。褒めてるんです。古風で奥ゆかしい大和撫子は、今や絶滅に瀕してますから。レッドリスト入りの希少種ですとも。胸をお張りなさいませ」
――早く用件を伝えて立ち去りたいけど、口を挟む隙が無い。胡散臭いなあ。
「胡散臭いですか?」
「へ?」
首を傾げながら、男が心理を見透かすように言うと、その唐突さのあまり、レイは素っ頓狂な声を漏らしてしまう。その反応に、男は忍び笑いをしつつ、下品ににやつく口元を片手で上品ぶって隠しながら言う。
「いえいえ、決して心が読める訳ではございません。よく言われるだけです。僕は正真正銘、生身の人間でして、妖怪変化や幽鬼魔性の者ではありませんので、ご安心を。オッと失敬。最前より、僕ばかり発言してしまいましたね。さあさあ、遠慮なさらずにお話をどうぞ」
男は、ようやく言葉を区切り、指を揃えて片手を差し出しながら、レイに発言を促す。
「お出掛け前に、すみません。私は四宮マサルの娘で、レイと言います。しばらく、父が怪我で入院することになり、その代わりを私が大家を務めることになりましたので、ご挨拶に伺ったまでです」
レイが折り目正しく述べると、男はニッコリと微笑みを返しながら言う。
「ああ、そういうことでしたか。申し遅れました。七尾マコトでございます。訪問販売員をしております。どうぞ、以後お見知りおきを。それでは、僕は勤めがありますので、失礼させていただきます」
先程までの矢継ぎ早な発言が嘘であるかのように、礼儀作法に則って静かに淡々とした口調で言うと、素早くドアを施錠し、丁寧に一礼して立ち去る。レイは、その変わり身の早さに驚き、しばし呆然と立ち尽くし、その後ろ姿を眺めるともなしに見送る。
――常識的と見せかけて、瞳の奥に静かな狂気を感じる。たとえるなら、不思議の国のアリスに出てくる帽子屋さんかな。三谷さんが用心しろといった理由が、よく理解できるわ。