050「代入」
――見た目はだらしないけど、部屋には多少の生活感があったほうが落ち着くかも。ただし、そこが三谷さんの部屋でなければ。
「傘も受け取ったし、原稿も渡したから、私は、おいとまします」
そう言って参藤が座布団から腰を浮かせて立ち上がろうとすると、レイは参藤の二の腕を片手で持ってそれを阻止し、キッチンでお湯を沸かしているツカサも、レイに続いて言う。
「まあまあ、参藤さん。お茶を飲んでからでも良いじゃありませんか」
「そうだよ、参藤。主任には、訳あって僕が引き留めたというから、もう少し居てくれ」
二人の瞳に戸惑いの色を見て取った参藤は、上げた腰を下ろすと、口元に片手を添えて小さく笑ってから言う。
「フフッ。それじゃあ、お言葉に甘えて、ちょっとだけね。――それ、読んでみて、どうでした?」
ローテーブルの上に積んである単行本と雑誌を指さして参藤がレイに向かって訊ねると、レイは、
「どちらも面白かったです。特に、翻訳のほうは、最後に犯人である医師の正体が女性で、成りすましていた男性医師と共犯関係にあるところを探偵が暴くところが、痛快でした」
「そうでしょう。あの部分は、原文でも彼とも彼女とも書いてないものだから、翻訳するのが大変だったのよ。――ねっ、先生」
キッチンで両手にミトンを付けて立つツカサの背中に向かって参藤が言うと、ツカサはスプーンの柄で紅茶の缶の蓋を開けながら言う。
「悪いけど、ちょっと、いまは話しかけないでくれ。紅茶は、淹れる温度が命だから」
「それは、失礼しました。――それで、レイちゃん。この前に優良物件だって言った話だけど」
参藤がレイのほうを向いて話を切り出すと、レイは急に立ち上がり、パタパタとトイレに向かいながら言う。
「すみません。ちょっと、席を外します」
参藤は、その慌てた様子を、吹き出しそうになる笑いを堪えながら見てから、チラッとツカサに目を向け、彼がコンロの火とポットの注ぎ口に注目しているのを確かめると、参藤の斜め前かつレイが座っていた位置から正面向かいに当たる席に置かれた座布団の角をめくり、隠してあった洋封筒を引き抜くと、側に置いてあるショルダーバッグから大学図書館のバーコードが貼られたペーパーバックを一冊抜き取り、そこに洋封筒をページの中ほどに挟んで戻す。そこへ、ツカサが紅茶を注いだ三つのカップと、角砂糖が入ったガラス瓶とミルクを入れたピッチャーを載せたお盆を両手で持って現れる。
「お待たせ。あれ、四宮さんは?」
ツカサが部屋を見渡しつつ、お盆をローテーブルに置きながら言うと、参藤はツカサの耳元で次の意味深な言葉を囁き、ハンドバッグを持って退散する。
「黒ヤギさんは、読まず食べずに、白ヤギさんに届けました。無いものを有ると思って作り上げるのが、ライターの腕よ」
「待て、参藤。それは、どういう意味なんだ?」
ツカサが参藤のあとを追いかけると、そこへトイレから戻ってきたレイが現れる。
「あっ、参藤さん。もう、帰るんですか?」
「ええ。急ぎの用事を思い出しちゃって。ラッキーアイテムは、大学図書館のぺーバーバックよ。それじゃあね」
悪戯っぽい笑みでレイに言うと、参藤は、真意を測りかねる様子で顔を見合わせるレイとツカサを置いて、そのまま玄関を開錠して廊下へ出る。
レイとツカサの二人は、しばらく佇んていたが、やがてツカサが口火を切る。
「僕が言うのもアレだけど、参藤は変な奴だから、気にしなくていい。それより、紅茶は冷めると渋くなるから」
「あっ、そうですね。いただきましょう」
二人は、微妙な距離を空けつつ、ローテーブルを囲んで座る。
――語学の演習で使うペーパーバックを入れっぱなしにしてることと、いまの参藤さんの発言とは、偶然の一致という訳では無いわよね?





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