046「口に合わない」※マコト視点
「急に定時きっかりに帰るよう言うようになるなんて、どういう風の吹き回しなのでしょうね」
「おおかた、労基から指導でも受けたんじゃないかしら? 課によっては、グレーゾーンとは言い難い就労環境が蔓延してたという話よ」
ターナーやミレーの絵画の世界に迷い込んだと錯覚させるような、内装をビクトリア様式で統一され、クラシカルで洗練された気品ある華やかさを感じさせるティールームで、季節外れに暑苦しいブラックスーツを着込んだマコトと、ミントグリーンのブラウスに同系色でペンシルストライプの入ったタイトスカートを合わせた涼やかなアイが、縁にレースのあしらわれたクロスが掛けられた小さなテーブルで、紅茶とスコーンを嗜みながら、優雅なひと時を過ごしている。
「ああ、なるほど。それで、ここへ来て、いきなり法定遵守に走り始めたのですね」
一口大に割ったスコーンに、バターナイフで丁寧にクロテッドクリームを塗りつつ、わざとらしいくらいに大仰に首肯しながらマコトが納得したように言うと、アイは、シュガーポットからトングで角砂糖を三つほど入れながら、ため息まじりに言う。
「まあ、いまさら感が強いし、その場しのぎで付け焼き刃にすぎない対応に終わると思うけど、この機会に多少なりとも改善されることを期待しましょう」
「そうですね。いくら無能な上司でも、部下がゾロゾロと退職しては業務に穴が開いてしまうと悟れば、さすがに焦るでしょうからね」
小麦と乳脂肪のハーモニーに舌鼓を打ったあと、何食わぬ顔で平然とのたまうマコトに、アイは口元に持って行きかけたカップをソーサーに置き、チラチラと視線だけを走らせて周囲を見渡しながらヒソヒソと言う。
「ちょっと、七尾くん。そういうことは、思ってても言わないものよ?」
「これは、失礼しました。つい、場を弁えずに本音を言ってしまうのが、僕の悪い癖です」
まったく感情の篭っていない声音で、言葉と態度だけ丁重に謝罪すると、マコトは、マイペースに言い訳を続ける。
「しかしながら、今日は金曜日ですからね。部長も課長も、いまごろは芝生か砂地の上に居るのではないでしょうか?」
「そうでしょうけど、ここは職場じゃないのよ、七尾くん。あんまり、特定個人を非難するようなことを言わないでちょうだい」
――たしかに、この場には相応しくない低俗な話になってしまった嫌いがある。もっとも、僕には高尚な話が出来るだけの素養は、まったく持ち合わせていないのだけれども。
アイが再びカップを持ち上げながら苦言を呈すると、マコトは、ティーポットからカップに紅茶を注ぎながら言う。
「以後、口を慎みます。ところで。先に申し上げておきますが、僕がご一緒するのは、お茶までですからね?」
横目でアイの顔を見ながらマコトが確認すると、アイは、どこか嬉しそうに受け答える。
「念を押さなくても、誘いやしないわよ。今夜は、もっと若い男の子が待ってるもの。賢くは無いけど、素直で良い子なのよ、彼」
――ほお。漆田先輩も、ようやく、妥協するというスキルを覚えたか。
マコトは、あとのことにウキウキと期待に胸を膨らませている様子のアイを見ながら、皮肉を込めた言いかたで質問する。
「おやおや。独り身の寂しさが限界に達して、とうとう、若い燕を飼育することにしたのですか?」
「嫌な言いかたをしないでちょうだい。たしかに年上としてリードはしてあげてるけど、そういうんじゃないのよ」
瞳をキラキラと輝かせながら答え、恋する乙女らしく、うっとりとした表情で静かに微笑むアイを、マコトは、目の端でたいそう不思議そうに観察しながらカップを持ち上げ、世間話のあいだに冷めた紅茶に口を付ける。
――男女の縁というものは、まことに複雑怪奇である。結婚詐欺にはまったか、はたまた、単純に反りが合う相手を見つけたか。まっ、いずれにせよ、災難が去ったのは、喜ばしい限りだ。……それにしても、この紅茶は渋いな。飲み頃を過ぎてしまったか。





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