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039「ほろ苦味」※シゲル視点 

学会発表(シンポジウム)から、帰ってきたぞー!」

 ガラッと勢い良く引き戸を開け、机に向かって書き物をしているシゲルへ、壱関は大音量で宣言した。その腕には、複数の紙袋が抱えられており、それらをガサガサいわせながら、壱関は研究室の主の返事を聞く前に、我が物顔でどっかりとソファーに腰を下ろす。

――静寂を乱す分子が帰ってきた。

「声がでかい。いつになくアカデミックにかぶれてるね、君」

 シゲルは、不快そうに眉を寄せつつ書き物をやめて立ち上がり、コーヒーメーカーからポットを外し、横に積んである紙コップの塔から二つ取り上げると、そこに黒鳶色の液体を均等に注ぐ。その背中に向かって、壱関は産婆術の要領で問答を繰り出す。

「『饗宴』はソクラテスか?」

「話し手はそうだが、書いたのはプラトンだろう」

「じゃあ『存在と無』は?」

「ニーチェ、いやサルトルか」

「み~んな悩んで、大きくなった!」

 シゲルの答えに調子づいたのか、壱関が陽気に腕を広げて大きな声で言う。

――それが言いたかっただけか。壱関も、ようやく無知の知に気付いたと思った僕が、馬鹿だった。

 シゲルは再び顔をしかめつつ、ローテーブルの上に紙コップを並べながら苦言を呈する。

「五月蠅いな。ここは大講義室じゃないんだから、声のボリュームを落せ。まったく。そんな、いい加減なことばかりしてるから、いつまで経っても准が取れないんだぞ、壱関」

「学生受けは良いんだけど、教授受けがイマイチなんだよなあ。学部長が、四角四面で土佐犬みたいな顔だからか?」

 壱関は、シゲルの皮肉をどこ吹く風と受け流し、見当違いの推理を開陳する。シゲルは、その頓珍漢な話に呆れつつ、本棚に並べてある資料の上に無造作に積んであるファイルを手に取り、開いて一番上の書類を壱関に示す。

「顔は関係ないだろう。――これが、この前の教授会の議事録だ」

「サンキュー。――いやあ、こっちは暑いな。まだ冷房は入んないのか?」

 ファイルを受け取ると、壱関はスラックスのポケットからファンシーなキャラクターが描かれたタオルハンカチを出し、額や首筋の汗を拭いながら聞いた。

――君が研究室にいるだけで、部屋の温度が二度くらいは上がった気がするよ。

 シゲルは、コーヒーを一口啜ると、顎で書類を指しながら大儀そうに答える。

「六月になるまで入れないんだとさ。そのことも、そこに書いてあるから」

「融通が利かないねえ、事務局は。予報では、連日、初夏の陽気が続くでしょうって言ってるのに」

「そういうものだろう。給与以上の働きをしないことに徹した、お役所仕事だよ。それより、どうだったんだ、仙台は?」

 シゲルが質問すると、壱関は、待ってましたとばかりに笑顔で答え、脇に置いた紙袋から土産物を取り出してローテーブルに置く。

「最高だね。牛タン、フカヒレ、ずんだ餅。あっ、そうそう。お土産に、胡桃柚餅子(ゆべし)と笹蒲鉾(かまぼこ)を買って来たんだ。食べようぜ」

「誰が食べ物の話をしろと言った。学会発表についてに決まってるだろう、この百貫デブめ。ここ何ヶ月かで、また恰幅が良くなったのではないか?」

「はっけよい、のこった、って俺は谷風梶之助か。せいぜい、二十貫くらいのもんだ」

――一貫が三千七百五十グラムだから、七十五キログラムか。道理でメタボ検診に引っ掛かるはずだ。

「それでも重い。その身長で二十貫も必要ないだろう。かつてのスリムな球児は、どこへ行った?」

 ジロジロと全身をなめ回すように観察しながらシゲルが言うと、壱関は太鼓腹を平手でパンと叩きながら言う。

「おかげさまで、幸せ太りしたからね。最近、娘がオムライスを作ろうと頑張っててさ。具の大きさがバラバラだったり、破れたところをケチャップで絵を描いて誤魔化してあったりするんだ。いじらしいだろう?」

「あー、あー、親馬鹿が何か言ってる」

 シゲルが両手で耳を塞ぐ仕草をしながら言うと、壱関は、柚餅子の箱の包装を解きつつ、シゲルの服装を見ながら話題を変える。

「なあ、一橋。このあと、どこか出掛けるのか?」

「いいや、どこへも行かない。どうしてだ?」

「普段と違って、隙の無い恰好をしてるものだからさ。てっきり、これかと思って」

 女の影を察し、小指を立てて言う壱関に対し、シゲルは、一瞬、眉をピクッと上下させたあと、冷静さを取り繕って言う。

「とある女性と付き合うことになったが、あくまで知友の域は出ない」

――話の流れで、今度の日曜に買い物に付き合うことになったが、それだけだ。

「ほほう! 肉体を求めたり、結婚を視野に入れたりしない、プラトニックな関係か。さあ、はたして、どこまで燃え滾る獣欲を理性でコントロールできるかな?」

 下品な笑みを浮かべ、興味津々の様子で鼻息荒く顔を近付ける壱関に対し、シゲルは、その額を手の甲側でペチッと叩きながら低い声で言う。

「下衆の勘繰りをやめろ」

「アイタッ! しゃべくりかと思ったら、どつき漫才だった」

 お道化た調子で額に両手を当てながら、壱関はどこか嬉しそうに言った。

――無駄な体力を消耗をするから、ボケないでほしい。ツッコミにもエネルギーが必要だし、もう、十代、二十代の頃のようには、いかないのだから。

「君とコンビを組んだ覚えはない! ――いただきます」

 シゲルは、壱関にピシャリと言うと、開封された箱から柚餅子を一つ手に取り、ビニールを剥がして口にする。

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