002「異端児」
あすなろハイムは、鉄筋コンクリート構造の二階建て。一階には一号室から三号室までの三部屋、二階には五号室から七号室までの三部屋があり、四号室は建てられた当時から存在しない。
「一号室は、一橋シゲル。四十代前半の男性。常識知らずの大学教授。常に白衣を着用、と。偏屈な学者さまが出てきそうね」
バインダーに目を落としてぶつぶつと小声で独り言を言いつつ、レイは木目調の合板の張られた金属製のドアをノックする。このアパートには、ドアポストはあるが、集合ポストやインターホンは無い。
――お留守かしら。なんとなく、中に人がいる物音は聞こえるんだけど。
レイがドアの前から離れ、その場を立ち去りかけたとき、ガチャっという開錠音とともにドアが薄く開かれ、寝ぐせ頭でヨレヨレの白衣を着た男が隙間から顔を覗かせ、片手でわしわしと髪を掻きながら寝ぼけた声で言う。
「おや。見慣れない顔だね。君は、誰だい?」
「あっ、はじめまして。四宮マサルの娘で、レイと言います。しばらく、父が怪我で入院することになりまして、そのあいだ、代わりに私が大家を務めることになりましたので、ご挨拶に伺いました」
レイが営業スマイルを浮かべながら言うと、男はドアを広げ、サンダルを履いて廊下に姿を現す。白衣の下には、皺だらけのワイシャツと、センタークリースの消えたスラックスを着ている。サンダルの先には、靴下の穴から足の親指の爪が顔を覗かせている。
――身なりには無頓着みたいね。独り身だから、仕方ないか。
「へえ、大家の娘さんか。そう言われてみれば、どことなくチエさんの面影があるね」
男が、レイの顔をつぶさに観察しながら言うと、レイは目を見開き、驚いた調子で訊く。
「母のことを、ご存じなんですか?」
男は、大きく頷きながら、感慨深そうに答える。
「まあね。僕がここへ入居したのは、まだ大学に入って間もないころだったから、かれこれ二十年以上になるよ。そうか。あのとき、チエさんのお腹の中にいた子が、君なんだね。いやはや。月日が経つのは早いものだ」
――私が生まれる前から知ってる人がいるなんて、知らなかったな。
「博士研究員時代は、学会では異端児として冷遇されていてね。進路に悩んでたとき、親身に相談に乗ってくれたんだ。他にも、いろいろと世話になったよ」
――あっ。常識知らずって、そういう意味か。まったく。お父さんったら、紛らわしい書きかたをするんだから。
「さて。せっかくだから、お茶でもどうかと誘いたいところだけど、あいにく、論文の締め切りが近くてね。それに、講義資料も作らないといけないのだよ。他に用が無いなら、話を切り上げたいのだが」
男が申し訳なさそうに言うと、レイは思案を止め、隣の部屋へ足を向けながら言う。
「いえいえ。こちらこそ、急にお伺いして申し訳ありませんでした。どうぞ、執筆を続けてください」
「そうさせてもらうよ。失礼」
そう言うと、男は部屋に戻り、ドアを閉める。
――さて。今度は、二号室ね。