001「大家代行」
――ここは青木市ひのき台、に建てられたアパート「あすなろハイム」、の大家である馬鹿親父が入院している病院「ひのき総合医療センター」の病室。
「まったく、もう。猫を助けようとして走ってくるトラックの前に飛び出すなんて、どうかしてるわよ、お父さん」
――しかも、助けた猫には、前脚の爪で頬を引っ掻かれて逃げられたとかいう話だ。救いようがないとしか言えない。
水の入った青い切子模様のガラス製の花瓶にサクラソウを生けながら、ワンピースの上にカーディガンを羽織った二十歳そこそこの女は、ベッドの上で片足と片腕、それから頭の側部に包帯を巻かれた状態になっている四十がらみの男に、うんざりとした表情で苛立ちまじりに言った。男は、自由に動くほうの手で照れ臭そうに後頭部を掻くと、気の抜けた声で呑気に言う。
「そう、責めてくれるな。こっちは怪我人なんだから、少しは労われ」
「軽率な行動を反省できたらね。まだまだ、お母さんに会うのは早いわよ」
花を包んでいた包装紙やアルミホイルなどをレジ袋に詰めて口を縛りながら、女は皮肉を込めた口調で言うと、男は、それを意に介さず、朗らかに言う。
「まあ、そうだな。あれから、もう十年か。チエと再会したい気持ちは山々だけど、レイが結婚するのを見届けたいところだ。どうだ、レイ。彼氏は出来たか?」
――また始まった。家事をこなしながら女子大に通ってるのに、素敵な出会いがある訳ないじゃない。
「ところで、お父さん。話ってのは何なのよ? 便利に使ってくれてるけど、私だって、暇じゃないんだからね」
パイプ椅子に腰かけながらレイがつっけんどんな態度で冷たく言うと、男は落胆した表情を浮かべつつ、ベッドの上に渡されている移動式テーブルからバインダーを引き抜き、そこに書いてある金釘流の手書き文字をレイに見せながら、眉をハの字に下げ、情けない様子で言う。
「悪いけどな、レイ。この通り、しばらくは身体の自由が利かないから、代わりに裏のアパートの管理をしてくれないか? これは、住人についてのメモ」
紙袋から林檎を取り出し、布巾で包んであった果物ナイフを手にしつつ、レイは大きく溜め息をつきながら、とげとげしく言う。
「はあ。どうせ、そんなことだろうと思った。いま言ったところだけど」
男は、テーブルの上の雑多なものの上にバインダーを乗せるながら、レイの発言を遮って言う。
「まあまあ、皆まで言うな。忙しいのは、百も承知だ。何も、ただ働きさせようって言うんじゃない。秋口になったら、新しいコートを買ってやろうじゃないか。いま着てるのは、高校時代に買ったものだろう?」
――むっ。そういうところだけ、目ざといんだから。
「また、そうやって守る気もない口約束をする。まだ、半年以上も先じゃない」
サクサクと手際よく林檎を丸裸にし、テーブルの上にあるランチプレートに置きつつ、レイは非難めいた口ぶりで言った。男は、皮と芯を削ぎ落された果実を片手で口に運びつつ、もごもごと咀嚼しながら行儀悪く言う。
「今回は、ちゃんと守るさ。アルコールも入ってないことだしな。ハハッ」
――たとえ酒の席の約束であっても、無効にしないで欲しかったけどね。
「仕方ない。引き受けるけど、覚悟しておいてよ」
レイが果物ナイフの刃先をきらめかせつつ、鋭い目で男を見て言うと、男は、首をすくめながらも、お道化た調子で言う。
「おう、怖い怖い。ミンクやカシミアのコートでもねだられそうだ」
――いつ、そんな高級品を欲しがったって言うのよ。そこまで、がめつくないわ。