018「手すさび」
――福音書には「はじめに言葉ありき」とあります、なんていう涙と欠伸が出るほどありがたいお話を聞いたあと、どうしてミッション系の学校にしちゃったかなあと、うっすら後悔しながら気分転換に街を歩いていたら、英国風のカフェの窓から見えるカウンターに、数日前に見た覚えのあるジャージを発見したので、ちょっと立ち寄ることにしたの。
「文筆業をされるかたって、夜行性かと思っていたんですけど」
そう言うと、レイはダージリンの入ったカップにミルクを注ぎ、濃い紅に色付く液体に乳白色の渦を作り始めた。その横で、時折、メモのページを捲ったり短く呻吟したりしながらノートパソコンのキーを叩いていたツカサは、そっとシュガーポットを手前に引き寄せ、中に入っている角砂糖をトングでつまみながら言う。
「よくある誤解だね。ドラマの影響かな。他の出版社のことは知らないけど、僕が原稿を送ってるところは、みんな九時五時で動いてるよ。まあ、もっとも、半分、オーナーが道楽のような形で経営してる会社だから、そういう呑気なことをしていられるのかもしれないけどね。――いくつ?」
――十六、なんて使い古されたギャグを求めてる訳じゃないわよね。スプーンが立つほどカップが砂糖でいっぱいにならないよう、普通に答えよう。
「二つ、お願いします」
言われた通りに、ツカサがレイのカップに角砂糖を二つ入れたあと、レイは、再びキーを叩き始めたツカサに向かって、ティースプーンでかき混ぜながら、遠慮がちに言う。
「あの。差し支えなければ、何を書いてるか教えてほしいのですが」
「ああ、構わないよ。今日は翻訳の仕事じゃなくて、趣味の小説を書いてるだけだから」
ツカサは、小気味良くエンターキーを叩いたあと、レディーグレイが入ったカップを持ち上げ、一口飲んでから言った。
――変わった人だなあ。私なんか、課題のレポート一つだって、いつも文字数が足りなくて、ギリギリまで必死になって書いてるというのに。一橋さんもそうだけど、学校のお勉強ができる人って、どこか普通の人とズレてるみたいね。
「どんな小説なんですか?」
レイが、ディスプレイを覗き込もうとしながら言うと、ツカサは、それを片手でパタンと閉じて見せまいとしながら言う。
「これは、自己満足で書いてるだけの作品だから、他人に見せるには抵抗があるよ。作家が書きたいことと読者が求めていることのミスマッチだね。ジャンルで言えば、ファンタジーに該当するかな」
「へえ、面白そうですね。冒頭だけでも、見せてくださいよ」
レイがノートパソコンを開けようと指をかけると、ツカサは閉じたパソコンを上から抑えつけるように手を置き、頑なにブロックしながら言う。
「その冒頭で悩んでいるんだよ。なかなか、しっくりくる書き出しが決まらなくてね」
「じゃあ、アドバイスしますから、推敲前の状態を」
パソコンから手を放そうとしないレイに対し、ツカサは呆れ半分に言う。
「やけに食い下がるね。そんなに僕の作品が気になるのかい?」
「乙女の純粋な好奇心ですよ。魔法は使えるんですか? 王子さまは出ますか?」
「魔法が使える修道士と口の悪い使い魔、王位を追われた流浪の騎士、後先を考えずに喧嘩を仕掛ける女戦士に、楽天家の吟遊詩人の四人と一匹が、饒舌で底意地悪い魔王に捕まった姫を助けに行くよ。ここまで言ったんだから、放しなさい」
「そこまで言うなら、見られたって平気でしょう? ――あ!」
二人が攻防を繰り広げる脇で、マスターはレイの紅茶の横にチーズケーキを置く。レイは、その食欲をそそる三角柱に見とれ、パソコンから手を離す。その隙に、ツカサはパソコンを開いてテキストを保存して閉じ、レイに質問する。
「ところで、このあいだの雑誌は読めたかい?」
――あっ、そうだ。読もう読もうと思いつつ、溜まってる家事を片付けたり、急に叔母さんが尋ねてきたりしたものだから、全然読めてないのよね。
「すみません。まだ読めてないんです」
レイが申し訳なさそうに言うと、ツカサは、ここぞとばかりに嬉しげに言う。
「それじゃあ、まずは、そちらを読了してもらわないといけないな。これを読むのは、それからだ。――二人分、僕にツケておいて」
そう言うと、ツカサは再びパソコンを閉じ、それを小脇に抱えて立ち上がると、奥にいるマスターに言ってからレイに軽く一礼し、メモを持って立ち去る。レイは、何かを言おうと立ち上がったが、その手慣れた動作に追いつかず、ツカサが立ち去ったドアを呆然と見つめてから、再び席に着く。
――私の分は結構です、とも、ごちそうさまです、とも言えなかったなあ。身なりに反して、スマートなところがあるのね。





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