真島ゆりかの闇
まどろむ意識。
どこかもわからない、真っ白な空間をゆりかはただ歩いていた。
ふと、小さな2つの手がゆりかの右手と左手、両方に触れる。
可愛い可愛い手。
その手の持ち主たちを見ると、幼稚園生くらいの小さな男の子たちだった。
この子たちはコウとナオ…?
ああ、これは前世の記憶だ。
私は今、夢を見ているのだ。
コウとナオの幼かった頃の…。
そう自覚したと同時に、その小さな手がゆりかを――母を――求めるかのように力を込めてギュッと握ってきた。
するとずっと忘れていたはずの温かい感情が身体の奥底から止めどなく溢れだし、蘇る。
私の大事な大事な子供たち――
ゆりかは手の先にいる愛おしい存在を見つめ、口元を緩ませた。
「コウ、ナオ」
母に呼ばれ、二人の少年は嬉しそうにニコリと笑いながら、振り返る。
二人の様子にゆりかは自然と笑みが溢れ、握られた自分の手に再び目を落とすと、大切そうにギュッっと握り直した。
この手を離したら、この子たちは危険に晒されてしまうかもしれない。
迷子になるかもしれない。
この先の人生で感じる世の厳しさ、理不尽さ、様々な悪意から守りたい。
母として、この子たちを守ってあげたい。
「お母さんのお腹の中にずっと居てくれたら、ずっとずっと守ってあげられたのに」
ゆりかはふふっと笑いながら、心底残念に思う。
自分で産んでおいて馬鹿なことを言っていると、自覚はしていた。
それでも、本気で思ったのだ。
――ずっとお腹の中に居てくれたら、母である私が命がけで守れたのに――と。
「お母さん、あっち!」
幼い弟のナオがなにかを指差し、ゆりかの手を振り切ろうとする。
ゆりかはその手をキツくキツく握りしめて制止する。
「お母さんと一緒じゃないとダメよ」
今にも走りだしそうな子供たちの手を絶対に離さないとばかりに――キツくキツく。
お母さんが守るから。
あなたたちのことはお母さんがずっと守ってあげるから――――
※※※※※
――そんな風に思ったのはいつのことだろう。
ベッドの背もたれを起こし、身体をゆだねながら、窓の外を見つめる『真島ゆりか』の姿がそこにあった。
手を繋いで歩く親子を上から見おろしながら、古い記憶を思い出していた。
といってもほんの10年程前の記憶だ。
なのに、ひどく昔の気がしていた。
個室の窓辺に置かれたベッドからは外の景色がよく見えた。
天気の良い日にはさんさんと日が差し込み、気持ちが良いその場所は、あまり自由に動けない病床のゆりかにとって、お気に入りなはずなのだが、今はその場所で外の景色を眺めながら、切ない気分に浸っていた。
今の自分にあの愛おしい小さな手はない。
まるでぽっかりと心に穴が空いた気分になる。
「子離れできてないなあ」
盛大なため息をついた瞬間、入口のドアから声がした。
「お母さん?」
ゆりかはビクリとして、振り返ると、そこには学ラン姿の背の高い少年の姿があった。
ゆりかの夫である司の若い頃によく似た顔立ちをした、長男のコウだ。
「やだ!コウ、いつの間に?」
「今さっき」
慌てるゆりかのとなりに、コウはガタガタと音を立てながらパイプイスを運び、そしていつもの定位置に置くと、コウの大きな身体がそのイスの上にどかっと乗った。
「盛大なため息ついてどうしたの?」
目尻にシワを寄せてにこりと笑うコウの柔らかな表情に、ゆりかは困ったように言葉を濁す。
「……ん〜、ちょっとねぇ」
ゆりかが窓の外に再び目をやると、もうあの親子は見えない。
ゆりかはポツリと口を開く。
「……窓の外の親子連れ見てたら、あなたたちの小さい頃を思い出しただけよ」
「小さい頃……?」
コウがゆりかの言葉を繰り返すが、窓の外を見つめたゆりかからは返事はなかった。
数秒は見つめていただろうか。
急にゆりかはくるりコウに顔を向けると、いつも通りの表情でコウを問い詰め始める。
「ねえねえ、そういえば、三者面はどうだったの?
お父さん行ってくれたのよね?
ナオはどうだったのかしら?ナオのが先に終わってるはずよね?」
そう、今日はコウとナオが通う学校の三者面談の日だ。
体調が優れないゆりかの代わりに、父である司が面談に出席する手筈となっていた。
学校側からの配慮で高三のコウと高一のナオを同一日のずらした時間にしてもらっていたのだ。
急なゆりかの問い詰めに一瞬引いた様子だったコウだったが、落ち着いてとばかりに「まあまあ」とゆりかを手で制した。
「ちゃんとお父さんは来てくれたよ。
面談は特に前と変わりなかった。
志望校は今のまま行けば、大丈夫だって。頑張れば、もう少し上の大学も目指せるって言われた。
ただナオのことは……俺はわからない」
「流石、コウねぇ」
コウの話にゆりかはホッとしたような顔を見せるが、すぐに表情を曇らせる。
「問題はナオね。ナオはやる気出せばできる子だと思うのよ」
ゆりかの言葉に今度はコウが渋い顔をした。
「うん、やる気を出せばね」
「自分の部屋にばかり引きこもらなくなったし、夜も出掛けることが少なくなったし」
「生活態度は良くなったけど、成績は別の話だよ」
「中国に居た時、インターナショナルスクールに通ってたから、英語は話せるし」
「英語しかだめってことだよ」
「……うぐっ……」
言葉尻は優しいのに、手厳しいコウの突っ込みに、ゆりかはぐうの音も出なくなる。
そう、弟のナオのことは、ここ数年、ゆりかの心配事のひとつとなっていた。
外国から帰国して、日本の生活に馴染めない彼は自分の部屋に引きこもるようになった。
そしてたまに夜になるとフラフラ外に出掛けていく。
そんな生活を二、三年続けたある日、ゆりかの病気を知った彼はようやくその生活をやめたのだ。
高校生になり落ち着いたものの、一度落ちた成績はなかなか戻らない。
今はコウと同じそれなりの偏差値の中高一貫校に通っているが、高一の彼は今後どうなっていくのかわからない。
せめて大学には進学してくれという、ゆりかと司の希望とは裏腹に、全くやる気のないナオに気が気じゃなかった。
「ああ、神様、ナオをせめて付属の大学の一番偏差値の低い学部に入れてくれかしら…」
思わず手を合わせていると、再びガララ…!と、勢いよく入口のドアが開いた。
ゆりかとコウが視線を向けると、そこには険しい表情のナオが居た。
「な、ナオ!」
「……俺は行きたくもない学部になんていかないからね」
ナオの開口一番にゆりかは両手を顔にあてて、青ざめる。
「聞かれてたか」
頬を掻きながらコウが呟くと、ナオがぎろりと睨み、ツカツカと部屋の中に入ってきた。
「ドアを開けようとしたら、俺の名前が聞こえたんだよ」
ナオの不機嫌そうな声にゆりかが慌てる。
「それはね!みんなナオの心配してるのよ!
お金に困ってる訳じゃないんだから、せめて進学してもらいたいの!
やりたいこともないんだったら、とりあえず付属大に行っておいたらって思ったのよ」
間違った意図が伝わったら嫌なので、ゆりかが必死に説明していると、ナオは鼻で笑うようにフッと声を漏らした。
「とえあえずねぇ……。
まあ、とりあえずで、英語の次に勉強しなくても比較的点数が取れる理系を選択しといたよ」
「なにかやりたい職種とか見つかったの?」
「だからとりあえずだって」
ゆりかの問いにナオは心底面倒くさそうに答えた。
そんなナオの姿にゆりかは深くため息をつく。
どうにもナオはフワフワしている。
今でこそまだマシになったが、以前のナオはそれこそまるで糸の切れた凧のよう存在だった。
気が付けばフラフラふわふわとどこかへさよまい、今でも糸が切れてしまえば、ゆりかの手が届かないところへ、どこかへ飛んでいってしまいそうだった。
「ところで、ナオひとり?お父さんは?」
コウが思い出したかのようにナオに尋ねると、ナオは眉間にシワを寄せ、不快そうな顔をした。
「あの人なら面談終わって、即仕事に行ったよ」
あの人――父である司のことをナオはそう呼ぶ。
「また『仕事』か」
コウも呆れたように呟いた。
司は常に仕事仕事とまさしくな仕事人間だった。
特に感受性が強いナオは、そんな家庭を顧みない司に強い反発心を抱いていた。
「……家族よりも『仕事』なんだよ」
ナオが苦々しげに言う。
家族よりも仕事――
ナオの言葉がまるで重石のように、ゆりかの胃の腑の辺りにのし掛かる。
――『家に帰っても安らがない』
――『君は俺を必要としてないだろ』
ゆりかは表情を変えずに黙っていたが、膝の上にかけていたタオルケットを無意識にぎゅっと握りしめていた。
「お母さん」
コウがそんなゆりかの様子に気づいて話しかける。
ゆりかの瞳に自分を気に掛けるコウの姿が映ると、ゆりかはそんな自分の負の感情を見せまいと、ニコリと笑う。
「お父さんは家族の為に一生懸命働いてくれてるのよ。お父さんが働いてくれてるから、私たちは生活できるんだから、そんな風に言わないの」
無理して貼り付けたような笑顔。
もはやゆりか自身には、きちんと笑えてるかもわからない。
「……それにお母さんにはあなたたちが付いていてくれれば、それでいいんだから」
震えそうになる手をこらえ、ギュッと強く握りしめる。
すると、その握りしめた指の爪が手に深く深く食い込んでいく。
痛いはずなのに、痛みさえよくわからない。
まるでゆりかの心にも深く深く食い込んでいくように。
真っ黒なゆりかの心に深く深く――――
※※※※※
気付くと暗い闇の中を再び歩いていた。
酷く悲しくて辛くて……その一方でなんとも言えぬトグロを巻く様なドロドロとした静かな怒りの様な感情が体の底から湧き上がり、自分を飲み込もうとしていた。
きつく握りしめていた手に、目を落とすと、血が滲んでいた。
赤く色付いた自分の手。
その手は僅かに震えている。
「……痛い……」
無意識に溢れ落ちる言葉。
それと同時に自分の胸ぐらを掴む。
痛い。
痛い――!
爪が食い込んでいたのは手のはずなのに、傷ついているのは心だった。
痛い。
苦しい。
息ができない。
滲んだ血が自分の服に付き、胸元を赤く染める。
助けて――!
一刻もこの場から逃げ出したくて、もがくように暗闇を掻き分けながら歩く。
ここが一体どこだかもわからず、真っ暗な闇をひたすらどこまでもどこまでも――――
久しぶりの投稿となりました。
色々書きたいのですが、筆が進まずでスミマセン!
ここから少し重めな内容が入ってきますが、まだまだ皆様、お付き合いください。




