鼻血事件からの保健室
ここのところ幼稚園では毎日卒園式の練習ばかりだった。
歌はもちろん、式典の練習もする。
今日は大きなホールで予行練習だった。
正直つまらない。
悠希が卒園児代表の挨拶をするらしい。
こうゆう場で気後れせず、年の割に器用にこなせる悠希みたいなタイプはうってつけなのだろう。
俺様な性格はちょっとあれだが、優秀な御曹司だと思う。
悠希の言葉を聞きながら、ゆりかはボーッとしていた。
あれからよくよく考えたら、前世の自分の名前さえもわからないことに気がついた。
前世の記憶で思い出せることに限りがあった。
前世の自分を探したいとも考えてはいないが、なんだか綺麗に記憶を切り取られているようで、違和感を感じていた。
それに先日のホテルのロビーで見た男性……
「卒園児、退場!」
突然、先生のマイク越しの声がホールに響く。
は!っと気づいたときにはみんなが立ち上がっていた。
ゆりかも慌てて立ちあがるが、歩こうとした瞬間に椅子の脚に自分の足をひっかけた。
あっと思った次の瞬間には地面が目の前にあった。
びたん!!
派手に転んだみたいだった。
「ゆりかさん!」
「高円寺さん!」
みんなが叫ぶ。
あいうえお順で斜め後ろに座っていた貴也の声も聞こえた。
恥ずかしさから慌てて立ちあがった。
「だ、大丈夫です!」
周囲の視線にいたたまれず、必死で大丈夫だと訴えるが、不幸なことはそれだけでは終わらなかった……鼻血が出た。
ぎゃー!!
「ゆりかさん、鼻血!」
貴也が後ろからティッシュを渡してきた。
「鼻に詰めて!」
ひゃー!!
鼻に詰め物をした姿をここで!?
鼻血が垂れるので、必然と上を向こうとする。
「ダメだよ!
鼻血のときは下を向くんだ!
上向いたら逆流しちゃう!
鼻のつけ根を押さえて!」
モタモタしていたら、貴也が鼻ティッシュを詰めてきた。
男子に鼻の穴にティッシュを詰めてもらうなんて、軽く拷問だ。
情けない。
あああ、情けない。
先生も駆け寄ってきた。
「高円寺さん、大丈夫?!
高円寺さん、保健室行きましょう。
あれ?もう鼻に詰め物できたの?」
「貴也君がやってくれました」
「相馬君が?」
先生が驚いたように貴也を見た。
うん、驚くよね。
私もだよ。
まさか6歳児に鼻血の応急処置をされるとは。
「貴也君、ありがとう」
ゆりかが言うと天使の笑みを返してきた。
「どういたしまして」
貴也の素敵な笑みを見たら、鼻に詰め物をした姿はさぞかし情けない顔をしているだろうなと、尚更恥ずかしくなった。
鼻を手で隠しながらホールを出るとき、遠くで悠希が心配そうな顔をしているが見えた。
*****
保健室でしばらく鼻血が止まるのを待った。
保健の先生は用があって少しの間不在にしている。
ゆりかはベッドの上に座って、1人でぼんやり園庭を眺めていた。
桜の木につぼみが見える。
今年の開花は早そうだ。
卒園式に咲くかな?
小学校の入学式までもつかな?
できれば満開の中の入学式がいいな。
小学校は隣の敷地にある付属の小学校に行くことになっている。
悠希も貴也も同じだ。
ゆりかは満開の桜の中、ランドセル姿の3人を思い浮かべ、クスッと笑ってしまう。
……あれ?
この光景見たことがある。
桜が満開の中、小さな子が3人、仲良さそうに入学式と書かれた門をくぐる光景。
あれ?なんだろう?この記憶。
しかもアニメーションなのだ。
私なにかアニメ見たっけ?
デジャビュ?
そのとき保健室のドアがガラッと開いた。
「ゆりか!大丈夫か?」
偉そうな口調の人物、あいつしかいない。
「悠希君」
はっ!
鼻の中にまだ詰め物してた!
悠希はズカズカ近づいてきた。
いやー!
思わず鼻を手で覆った。
「なんだその手?」
悠希が不思議そうに首を傾げた。
「いや、恥ずかしくて」
「俺は気にしないぞ?」
なんてことを。
中身アラフォー主婦だって、一応恥じらう心は持っている。
「私は気にするんです」
憎らしげに悠希を睨むと、悠希が困ったように頭を掻く。
そしてくるりと後ろを向いてゆりかに背を向けた。
「こうしてたら大丈夫か?」
ゆりかはきょとんとしてしまった。
思わず吹き出す。
なんだか可愛い。
クスクス…笑いが止まらない。
「おまえ!笑ってるのか?
なんで笑うんだよ?!」
決して私の方を見ようとせずに、怒るところがまた可愛い。
悠希君は俺様だけど素直だなぁ。
「素直で可愛いなと思って」
「可愛い?それは褒め言葉なのか?馬鹿にしているのか?」
悠希の声色が少しくもる。
ああ、男って可愛いって言葉は嫌なんだっけ。
一丁前に男扱いしろってか?
「素直は素敵なことですよ」
悠希の機嫌を直そうと、優しく言うと、悠希の耳が少し赤くなった気がした。
「…それだけ話せるなら大丈夫だな。
鼻血は止まったのか?」
悠希から訊かれ、ゆりかは鼻を確認する。
「ん〜、どうかな…あ、止まったみたい!」
よかった!
ほっとして鼻からティッシュを取り、ゴミ箱へポイと投げ入れる。
そして座っていたベッドからぴょんと飛び降りた。
「あ、おまえ!」
悠希の手が伸びてきて、ゆりかの腕を掴んだ。
「そんな勢いよく動くとまた鼻血だすぞ!
大人しくしてろ!」
「そんな、もう大丈夫よ」
鼻からティッシュを取ってしまえば、もう怖いものはない。
正々堂々と顔を見て話せる。
もう私にはやましいものなんて何もない!
悠希の顔をじっと見つめると、悠希も腕を掴んだままじっと見つめていた。
「他に痛いとこもないんだな?」
「ええ、大丈夫」
「そうか。
そういえば先生は?」
「少しの間不在にするって言ってました。
鼻血が止まったら教室に戻っていいらしいです」
「…じゃあ、一緒に教室に帰るか?」
「そうですね」
ゆりかの言葉に悠希がニカッと笑う。
あ、あの子供らしい笑顔。
「…やっぱり可愛い」
「なんだ?」
「いえ、なんでもないです」
悠希は一瞬怪訝な顔して「行くぞ」と言うと、ゆりかの腕から手を離して、スタスタ先に歩き始めた。
ゆりかもあとを追う。
「ねえ、実はお迎えにきてくれたんでしょ?…ありがとう」
ゆりかが悠希の背中に向かってお礼を言うと、悠希の耳がまた少し赤くなった気がした。