黒占い師〈西表ウミネ子の超占術〉
比較的涼しくて静かでそこまで暗くはないとはいえ、やはり路地裏、多少怪しい秘匿性と、都会の溝に積もった沈殿物といった高湿度の空気が馴れ馴れしくて、総合的にはやっぱり不快だ。
「……と、いう訳なんですが」
私は、対面する占い師へ向けて、一通りの説明を終えた。
物心がつくと同時に認識した、日常と一体だった虐待。その日常が、特殊でおぞましいものであると初めて知った時の気持ち……つまり、自分は虐待をされているんだ、と周りとの比較によって思い知った時の、底知れぬ深い絶望感。それは同時に、自己に対する価値評価の墜落も伴っていた。
全く愛されていないし、しかも、その反対でしかない。
虚無。しかし苦痛だけが残った。
光が一切差し込まない暗闇なのに、そこに咲く、一輪の花だけが見えている。血の花だ。
漆黒の中心に咲く私は、ただ苦痛と血の味と色を知るためだけの存在なのか。
そんなことを思って生き抜き、やがて、ひとりの男性と恋に落ちて、救われた。落ちることで救われる、そんなことも世の中にはあるのだなぁ、と妙にしんみり納得したものだ。
しかし、やはりそれは落下だった。
結婚してすぐに、彼は豹変した。何か、おそろしい悪霊がとりついたのではないか、と思えるほどだった。だから、寝ている枕元に、こっそり水晶の欠片を置いたり、次には枕の中心にまで潜り込ませたりもした。
やはり浄霊も浄化も起こらなかった。
DV、という言葉を知り、調べる。その実態は、もっと以前から身をもって知り抜いている。調べるほどに、退屈な答え合わせのように思えた。募るのは、黒い色だけ。
ただ、あぁ……世の中ではDVというふうに呼ばれて、結構ありふれている出来事なんだなぁ、と、遠い国の殺戮についての事をニュースで眺めるような気持ちになった。別に、それだけ。
闇はまだ濃くなるのか。
それは、抗い難い大自然の脅威に似て、壮絶だった。
深く深く、どこまでも受け入れてくれるのは、闇だけ。
闇を満たすだけのための存在。それが私。
闇でパンパンに膨らんだ袋。それが、私。
一昔前のゴミ袋が、ちょうどそんなふうに真っ黒だったな……。
対面する無反応な占い師の黒いフードを見ながら、私はそんな事を思って可笑しくなった。
「……それは、それは、大変でしたね」
と、占い師のきれいな口もと。
あまりにも無機質な、小さな動き。
しかしその声は、声だけは、壊れそうなほどに震えていた。
今にも、湿度が飽和を越えそうに、みずみずしく波打っていた。
涙が、その声をなみなみと満たしているのだろうか。しかしフードが、彼女の顔の上半分を隠している。その心は、瞳という手がかりさえ見せず、曖昧な声の振動だけに託されていた。
「共感します。“完全一致”で共感しています……」
占い師が言った。それは、開始前の宣言通りの発言でしかなかった。
それは言わば、『ご覧のスポンサーの提供でお送りします』『ご覧のスポンサーの提供でお送りしました』と何ら変わらない。
つまり、なんだか、えっと……。
「え、あの……」私は、たまらず声をあげる。「や、あの本当に、え?」
「本当、と言いますと……」
軽く聞き返された。一センチほど小首を傾げる仕草が小憎らしい。
「いや、さすがになんと言いますか……え、だって……」
「わたくしは、きちんと共感しております……」占い師の声は、また決壊寸前といった振動を帯びた。「貴方さまが感じ通りに、全く同じに、感じているのです……ああ、くるしい……」
などとほとんど悲鳴にすら聞こえる事をのたまいながら、占い師は少しだけ口もとを歪めた……ように見える。それ以外の物理現象は全て、現状維持を頑固なまでに守っていた。
「共感……してますか? 本当に、その、そんな感じで、ですか?」
「完全にしてます。今日もわたくし、絶好調でございます」
「さっき、くるしいって仰ってましたが……」
「くるしいです。貴方さまと全く同じにくるしいです。ですので、それが、まさしくわたくしが絶好調だと確信する所以なのでございます……あぁ、完全一致……」
「あの、言ってはあれかも知れませんけど、私がそれを信じる根拠が不足しているように思えてならないのですが……」
「そこはやはり、占い師の、いや、わたくしの限界と申し上げます他は……」
「言葉尻を濁さないでください。そこはきっちり言葉にしていただかないと、納得できません」
「わかりました。慎みながら申し上げますと、こちらは共感コースですから、こんな感じになりますぅ」
「ふざけているんですか」
「真面目ですぅ、わたくし、真面目な時ほど完全一致しましてぇ、言葉もまたぁ、受け入れた感情に大きく影響されるのですぅ、というよりぃ、全く同じ感情ですのでぇ、そういう苦しさ的なテンションがぁ、なんだか言葉のコシをふにゃふにゃにすると言いますかぁ……」
「いい加減にしてくれますか? 何ですかそのふざけた発声の仕方は? え? しかも何、私の感情を受け入れた結果そうなってると言いましたよね? つまり私のせいって事ですよね? いや、怒ってはいないんですよ? 私は、社会人としてあなたの対応を心配しているんです。あなた、若いんでしょう? もしかしたら、こういうバイトしちゃいけないくらいに若いんじゃない? 学校は? ご両親や家族が心配するんじゃない? あとそう、あなたまた言葉尻を濁したけど、それは止めた方がいいって、私さっき言ったと思いますけど」
「わかります……」
「はっ? え? すみません何がわかるんですか?」
「くるしいのですね……貴方さまは、本当にくるんしんでいらっしゃる……」
「……ああ、ハイハイ、そうですね、そうですよ私はね、苦しいですよね。ハイハイそうですよ。で、何ですか? 苦しいですけど、だからなんなんでしょうかね?」
「共感しております……。しかと、わたくしの魂に、完全一致で刻ませていただきましたぁ」
「はあ? いや聞こえませんね。なんか言葉尻がふにゃふにゃしててよく聞こえませんすみません。もう一回、なるべくはっきり気味で、お願いできますでしょうか?」
「ではそろそろ、共感コース、お時間でございますのでぇ……」
「だから語尾濁すなっつってんでしょ? 聞こえてますか? 聞き取りにくいですか私の声? あーっ、あーっ、あーっ、聞こえます? フード取ったらいいですよそんな聞き取りにくいんなら。あーいいからもう、ちゃんと言ってく・だ・さ・い!」
「あぁー……ええぇーー……はいっ」
「はあ? ふざけてんの?」
「いえそんなぁ〜……語尾はきっちりとしようと頑張りました……のですっ」
「今度は頭の方がふにゃふにゃ伸びてるですけど、え? まさかワザとですか? 何ですか、あぁ〜〜ええぇ〜〜ハイっ、て。いい加減にしてくださいって言ってますでしょう。松井秀喜のヒーローインタビューかと思いましたよ」
「え……すみません何を仰っているのでしょうっ」
「お前こそだろっ! ずっと何を言ってんのかわかんないのは、あなたでしょ!? 何、ここぞとばかりに反撃してんの? あーもう、性悪ぅ……」
「いえ……そんな、すみません……『西城秀樹のローラへインタビュー』と聞こえたので」
「どう聞こてんの? はぁ? マジ、はぁ? だわ。てか何の話してんの実際。何、え、これでお金とんの?」
「あーえぇ〜、はい」
「払いませんよね、普通に」
「え……そんな、どうして?」
「いやいやいやいや……。あぁ、いい事思いついた。そんじゃあね、今の私のさ、この? なんて言うかな……憤り? これも共感出切るんでしょ? こんなイライラと完全一致(笑)したらさ、わかるでしょ? この気持ち」
「あぁ……了解いたしました。延長、という事でよろしいのですね」
ーーゴミ捨て場に突如飛来した、簡素な折りたたみイス。ある女性が怒りに任せて腕力の限りにぶん投げたそのイスに叩きつけられ、ゴミ捨て場は盛大に沸いた。
小さなブラウン管は割れ、ネズミは甲高く鳴きながら逃げ、マネキンのトルソは踊り上がり、黒いゴミ袋はいくつも破れて中身をぶちまけた。
そして、カツカツと小気味良い足音が、新しく鮮烈な臭いを抱き始めたその路地裏を後にして、どんどん一方的に離れていった。
「……ああ〜もう、共感コースやめようかな……。本当なのに……はぁあ」
やがて占い師は小さくため息をつき、客用のイスを拾いに行くべく立ち上がった。
「回収率悪いし……てーかイスの修理費で、むしろ丸々赤字じゃね……?」
……彼女の名は、西表ウミネ子。
その本当の名は、そして、彼女の占術が“本物”であるかは、一切、定かではない。