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神さまと花

 私が『及川翼』になる前、ずっと前からその人は私の味方だった。その人だけは唯一疑うこともなく、私の神様だった。



『翼。』

 おばあちゃんの声・・・いつも聞いているはずなのに何故かひどく若いような気がして、私はこれが今の出来事でないことを何となく感じた。

『翼。』

『なあに、おばあちゃん?』

『おばあちゃんと約束をして欲しいの。』

『うーん? 約束? なあに?』

 幼い私はベッドからほとんど出ることができないほど症状がひどくて、起きている時間よりも寝ている時間の方が多かった。栄養剤とか輸液とかで何とか生き長らえていたと言っても過言ではない。そんな私でも、意識がはっきりしないながらも起きて数食に一回は自分で食事ができるようになった時のことだ。おばあちゃんは柔らかく煮込んだ野菜とかお肉、お魚を中心に私にご飯を食べさせてから、いくつか約束事をした。

 それは私の症状を思えば当然なものばかりだったけど、ひとつだけど後で考えればどきっとするようなことがあった。

『最後のひとつは、想いの強すぎる場所に行かないでちょうだい。』

『おもい?』

『そう、寂しいとか辛いとか悲しいとか・・・愛しいとか、死にたくないとか。』

『・・・えっ?』

『分からなくてもいいの。ただ、誰かが翼に縋ってきたら気をつけて。』

『すがるって?』

 その時、おばあちゃんは私の手を強く握りしめた。その手は高齢にも関わらずとても厚くて、温かくて・・・でも何故か、骨に食い込むほどの痛みを感じた。

『助けて、置いていかないで、傍にいてって思いを・・・守ろうとしないで。』

 いつも毅然としていたおばあちゃんが、そっと俯いた。

『私の目の前から・・・消えてしまわないで、翼。』

 私の胸に、脳裏に、冷たい何かと切ない痛みが過ぎったのは一瞬で・・・幼い私はそれがなんなのか分からないままおばあちゃんの言葉に頷いた。

『大丈夫だよ、おばあちゃん。私は・・・』

『駄目よ、翼。』

 おばあちゃんは私の言葉を遮った。

『翼、どうかその言葉は・・・貴女のその想いは、絶対に口にしないで。来たるべき、その時まで。』

 その静かな、水面に滴り落ちた冷たい波紋が人間の想いであることを知ったのは、私があの人から口封じの呪い(まじない)を受けた時だなと思い・・・ふとそこまでをぼんやり思い出したから、嫌な予感がした。

 私はおばあちゃんだけでなく夕ちゃんや花ちゃん、委員長にまで今まで様々な約束を交わしてきた。そのほとんどが睡眠障害のある私が日常生活を送る上で重要なこと(階段は手摺りを持つ、できればエレベーターを使う、なるべく誰かと行動する、鋭利なものを近くに置かないとか)だったけど、ひとつだけ、私の日常生活ではない約束をしたことがある。

 それはたった一度だけ、おばあちゃんが私に言った言葉。あの人が・・・揚羽さんが恐れていること、私が秘密にしていること。


『強い想いに近づかない』


 何のことか最初は分からなかった。子供の私は幼くて、物知らずで、でも小学校の高学年から行動範囲が広がった私にとってその忠告は真実とても大切な物だった。

 そう、今みたいに意味もなく哀しくて、切なくて、ああ、どうして私だけがこんな目にあわなくちゃいけないのかと理不尽さに泣きたくなった。

 でもこれは私の気持ちじゃない。あのコスモス畑に込められた、誰かの想い。

 同調しちゃいけない。同情しちゃいけない。そんな権利、私にはないのに・・・。

 

 ああ、お願い・・・私ではあなたをすくうことも、寄り添うことも、ましてや──


 目を開けることもできない。口の中いっぱいに、喉の奥まで無理矢理に泥水を注ぎこまれたみたいに苦しい。涙と共に猛烈な吐き気がして、吐き出そうと口を開けば次々に苦い水を注ぎ込まれる。あまりの苦しさに涙が溢れるけど、溢れたはしから流れることなく押し戻されて目が痛い。瞼の上からぐいぐいと押されているかのような激痛に硬く目を瞑ってしまえば視界なんて利くはずもない。

 吐き出したくとも吐き出せず、押し込まれる。でも飲み下すことも許されない。だって私の首を掴んで揺すぶりながら誰かが訴えてくるのだ。


『どうしてわたしがこんなめに』

『わたしはただあいたかっただけなのに』

『わすれないでよ、おぼえていて』

『しにたくないしにたくないこのまましにたくない』

『だからのこしていくわ』

『いとしいあなたわすれるなんてできないわ』

『でも』

『わたしはしあわせになっていいの』

『あなたはいなくなったのにこわくてさみしくてくるしい』

『わたしは・・・いきていていいの』


 いや、そんなの私に聞かないで。わかんない。そんなのわかんないよ!

 逃げ出したくても、どんなに逃げても追いかけてくる。冷たい手が私の肩を腕を力任せに掴んで引っ張った。

 その冷たさも力強さも人間の物じゃないように思った。人間の手の形、筋肉の付き方をしているのに柔らかな肉は奥底を氷で作ったように冷たい。それでいて生きていたもの特有の肉刺や皺の模様も鮮明に、でも異様な硬さを持って私の肌に食い込む。

 爪と言わず、指と言わず、私の肌を鷲掴みにする。手の形に焼け爛れた。そう思うほどの強い力。骨ごと形が変わったんじゃないかと思う様な強さと執念。


 無理だよっ、私には受け止められないよっ!

 

 そう叫んでも元の場所に引きずり込まれそうになる。足も腕も頭も髪も顔にもお腹にも体中に食い込む指先に苦しみの声を挙げるけどそんなの聞き入れられていない。

 いや、痛い・・・痛いよっ、誰か、誰かっ、助けてっ!


 私自身を食い潰しそうな誰かの想い。それから逃れたくて必死に手を伸ばした時、誰かが私の手首を掴んだ。

 小さな掌。柔らかいその手は、私の手首を握り切れないほど小さい、まるで子供の手だった。驚きと恐怖が一気に体を駆け上がったけれど、その手の柔らかさと指が食い込むほどの力と温かさに目を開けようとする。濁った水の中にいるみたいに焦点が合わないぼやけた視界、押し潰されそうだった目をなんとか押し上げ、その人がいる方向に問いかける。

「だ・・・れ・・・?」

 そう私が尋ねた時、手は一瞬震えて離れそうになった。それに私が声を挙げて縋りつこうとした時、今度は細くて小さいけれど、冷たいけれど、力強い手が私の手を強く握った。

「・・・見つけた。」

 その手の主はそう呟くと、子どもの手ごと私の腕を引っ張った。握られた手は皮が厚くて硬い、肉刺だらけのざらつきを感じるけど、私のよりもずっと細い。だけど、身体に纏わりついた異様な状況や声から私を勢いよく引っ張り出す。

 まるで泥水の中から一気に引き上げられたみたいな衝撃と急に口や目の拘束が取り去られたことで私は逆にむせた。

 激しく咳き込む私の手が相当な力で、絶対に離さないってその人の手を握っていたからだろうけど、引き上げられた勢いそのままに草のような感触のする地面に叩きつけられて体も痛い。でも、それよりも今はとても怖くて、震えが止まらない。

「あ・・・あなた・・・は・・・?」

 なんとか咳が治まり始めた頃に震えて言うことを聞かない首を必死に捻って手を繋いでくれている人を見上げると、ぼやけて輪郭すら定まらない視界のなか、眩しいほどの白と鋭い二つの金色だけが意識に残った。

 その手から伝わってきたのは、冷たくて凍えそうで切ないもの。深くて静謐な匂い。たくさんの人の想いさえも塗り潰す圧倒的なその気配の中、たったひとつだけ燃えるように伝わってきた。

 切り裂かれるほどの激しさと狂おしく絶望に似るほどの切実さで紡がれたその、想い。


『来て。』


 会いたいと願いながら、追いつけない程の速さで走り抜けながら信じていた。後ろさえ見ないというのに、決して見つけられないように何も遺さなかったのに、必ずと待ち続けている。そんな、矛盾だらけの一方的な心。

 でも、今まで私が感じた何よりも、誰よりも、混じり気がない。綺麗過ぎて魚も住めない泉のような、無垢で無邪気な想いのように思った。

 それに似た何かの感情を、私はあの小さな子どもみたいな手からも感じた様な気がした。



「ずいぶんと深くまで引っ張られていた。」

 いつの間にか気を失っていたのか、私は誰かが話している声を聞いた。

聞き覚えのない、落ち着いたアルトの不機嫌そうな声。老成しすぎていて、抑揚に乏しいせいか無表情な声に聞こえる。それに感情豊かな声が被さる。

「本当に危なかったわ。もう少しで意識が戻らないところだったの。間に合ってよかったわ。」

 面倒見のいいお姉さんみたいに心配する声も聞き覚えがない。私は鼻を掠める緑の濃い匂いを感じながら、ここはどこだろうかとまだぼやけた意識の中で考える。そこに、よく知った声が割り込んできた。

「お手数をおかけしました。」

 困ったような、本当に申し訳なさそうな声。ソプラノの心地よい声は穏やかさをそのまま体現したように凪いでいるけれど、今日は少し気落ちしているのか元気がない。たぶん、ううん、きっと原因は私のせい。

 それを申し訳なく思っていると、不機嫌そうだった声がその調子を崩さない無表情のような平坦さで厳しい言葉を落とした。

「まったく・・・芽を出した種に水をやるのは勝手だけど、こんなに感化されやすいお人好しを軽い気持ちであの花畑に向かわせるなんて・・・危機管理がなってないんじゃないの? よくそれで要神(かなめがみ)を語っていられるね、呆れてものも言えないよ。」

「ちょっとっ! 言い過ぎよ! ごめんね、揚羽。この子は・・・」

「言い過ぎくらいの方がおめでたい頭も少しは引き締められていいんじゃないの?」

「宙っ!」

 フォローを入れる声さえ遮って投げつけられる言葉は容赦がない。ううん、まるで相手をわざと傷つけようとしているように聞こえる、いやに故意的な言葉。でも、悪意を微塵も感じない。この人は、今あの人を詰っているこの人は・・・

「ただでさえ今回は特殊な上に、一度は運命を捻じ曲げた。それでこっちがどれだけの尻拭いをさせられたか知らないわけじゃないよね?」

 嫌味っぽい言葉を使っているのに何の感情も感じられない。それでも、あの人じゃないもう一人の人には十分嫌味だったらしくて窘める。

「過ぎたことを、それも一度は了承したことをねちねちと言うのは感心しないわ。いい加減にしなさい、子どもじゃないんだから。揚羽、気にしなくていいのよ?」

 あの人を庇うけど、攻撃の手は緩まない。

「愚痴くらい零したくもなる。毎回毎回お人好しとお節介を発揮して、自分の種も継承者も守れないようじゃ本末転倒・・・私は何か間違ったことを言ってる? 分を弁えずに後々後悔するのは揚羽なんだから、手遅れじゃない今の状態で言う方が優しさだと私は思うけど?」

「正論でもあなたの言い方には悪意を感じるの! 徒に他人の感情を煽るような言動は慎みなさいっていつも言ってるでしょう。誤解の元よ!」

 それは私も思っていたけど、それを聞いて初めて空気が変わった。心底おかしそうな、自嘲するような調子に声音が歪んだ。

「誤解? 違うね。私と揚羽の間に性質の理解は関係ない。役割と有用性が証明されているのだからそんなものが起こる筈がない。」

「また屁理屈を・・・。」

 呆れた様な口調が、やけに悲しそうに聞こえた。

「失礼だな。これくらい常識でしょう? その程度で支障をきたすような関係なら、元々不要だよ。仕事の邪魔にしかならないよ。仕事ができないなら存在する意味も価値もない。私たちの意義が果たせないなら、そんな奴は死ぬべきだよ。」

「あなたって子はっ!」

 激高した声に私は一生懸命瞼を開けようと頑張った。

 待って、その人は・・・その人は、本当はっ!

「・・・翼さん?」

 近くによく知った気配を感じて、少しばかり残っていた倦怠感がゆっくりと、水で洗い流されるように抜けていくと重たくて仕方がない瞼をやっと開くことができた。

 秋口に差し掛かったにしては柔らかくて温かい光に目を細めると、目に入ってきた光景に私は一気に思考が覚醒した。

 地面が一面艶やかな下草で覆われ、頭上からは薄紅色の柔らかな花びらが吹雪みたいに降り注いでいる。大人三人が一杯に腕を広げてもまだ届かない程太く苔生した立派な大木には、両手で掬ったら零れ落ちそうなほどに咲き乱れた花が鞠のように隙間なく枝を包み込んでいて、幹がなければ少し桃色がかった雲のように見えた。

 でも、その花びらは普通の桜よりもひだがあって、八重桜に似ているのに一枚一枚舞い落ちてくる。風もないのに軌道が全然違って、地面に触れると解けるように消えてしまった。花びらなのに蝶々みたいで、花びらだけど雪みたいで。

 私はその桜の木の根元に横たえられていて、私の横には裾の長い水色のワンピースに身を包んだ見知った姿の揚羽さんが、私の目の前には見たことがない二人の人。一人は白いノースリーブパーカーに黒いミニスカートと長い二―ソックス、茶色いブーツ。腰くらいまである長い黒髪に髪留めとしてデニム地のキャスケット帽子を被っている。大きな黒い瞳を見開いてから、私が目を覚ましたことに対して嬉しそうに笑った。

「よかった、目を覚ましたのねっ!」

 嬉しそうに話しかけてきたその人は私の近くに駆け寄ってきて「大丈夫? どこも変な感じはしない?」と揚羽さん並みに心配してくれた。でも、揚羽さんよりも身軽な感じで、それでもどこか距離が遠いと感じる。まるで透明な壁を挟んで話をしているみたいに、現実味が薄い。

「だいじょうぶ、です・・・。」

 なんだか一言一言話をするのも億劫で、でも何とか答えたくて口を動かすと辛さが分かったのか無理はしないでと言われた。

「でも本当によかったわ。一時はどうなることかと思ったけど。」

「当然だよ。私が出向いて行ったんだから。」

 遠くから掛けられた声はそんなに大きい声じゃないのに、何故か近くで話されたみたいによく聞こえた。氷の鈴を触れ合わせたみたいに澄んでいて、綺麗な声。そちらに目を向けると、そこには見たこともないほど綺麗な人がいた。

 肩口よりも短く切られた茶色の髪の毛は頭上から降り注ぐ柔らかなお日様な光の下できらきら光っていて、お月さま見たい。きっちり着込んだ白いコートの裾には黒と青の鉱石が揺れている。光の反射のせいか、何故か渦を巻いているようにも見える。コートの下には黒いズボンと革のブーツで、その胸元に光るのは少し華奢なその人が持つには無骨なテントウムシみたいな形のペンダントが異様な存在感を放っている。何故か、そのペンダントだけは絶対に触ってはいけないような気がした。

 色白で、珊瑚みたいな綺麗な色の唇がとても清廉で、テレビとか雑誌とかで見るどんな人よりも綺麗だと言えるくらい、背筋がぞっとするくらいの美人さんで・・・

 何より、白い(かんばせ)に嵌め込まれた黄金の光を放つ瞳が、痛いくらいにまっすぐ私を見つめる。

何にも訴えてこない、何の感情も浮かばない、浮かばないように押し殺しているように見える金色の瞳が夕焼けの光のように揺れて、そっと細められる。

 その瞬間、さっき感じた、全身を切り刻まれるほど冷たくて悲しいものが私に一斉に襲いかかろうとして・・・

「せいぜい、これからは堕ちないようにすることだね。私がいつでも都合よく体が空いているわけじゃないんだ。このくらいの運命の歪みなら、私は君を見捨てるから。」

「そーらーっ!」

 肩を怒らせて私の傍から女の子がすっ飛んで行くと冷気が一気に霧散して、今度は温かいものに包まれる。落差に付いていけずに目を白黒させていると、宙と呼ばれた女の人が自分に食ってかかっている少女をまるっきり無視して「時間だよ」と言った。その言葉に揚羽さんの表情が蔭る。

「もう行ってしまわれるのですか?」

「こっちは別件で移動中だったんだけど? 反省してくれる、この忙しい時に呼びつけておいて・・・」

「もういいわよ、分かったわよっ! 行くわよ全く!」

 少女がもうどうにでもなれと言うようにそっぽを向き、なんで怒っているのか分からないと言うように首を傾げる女の人がなんだか可愛く見えた。

「・・・宙さん、ありがとうございました。」

 私の傍に跪いていた揚羽さんが丁寧に腰を折ると、女の人は無感動にその様子を見つめながら素っ気なく口を開いた。

「これに懲りたらお節介もいい加減にすることだね。これ以上の尻拭いはごめんだから。」

「・・・ほら、行くわよ! ごめんね、翼ちゃん、元気でね!」

 その言葉と共に少女が瞬きをした瞬間に視界から消えて私は驚いた。

「・・・どんなに心を砕いたって、この子もいずれいなくなる。」

 宙と呼ばれたその人は、揚羽さんが顔を上げる前にそっと言葉を落とし、でも二人には見せなかった寂しそうな、苦しそうな、少し口角を上げただけの無表情な笑みをほんのりと、花びらが目の前を掠めるような僅かな時間だけ見せた。


『内緒だよ。』


 そんな言葉だけを残して、その人も空気に融けるように消えてしまった。

 綺麗な、人。

 ほんの少しだけ見せた精一杯の茶目っ気。あんなに一途に何かを思えるひたむきさを覆い隠そうとする不器用な言葉。笑い方も忘れてしまうほどの、誰にも肩代わりできない怖いものを大切に、大切に背負った人。

 心の表層を厚い氷で凍らせている。自分自身だって凍えるほど、傷付けるほど冷たくて鋭いもので。でも、その中でひっそりと、本当にひっそりと、でもただ一つだけを大事にしている。そんな、優しい人。

「あの・・・ひとたち・・・は?」

「私の妹とその相棒さんです。」

 揚羽さんはそっと膝を折って私に向き合った。揚羽さんの腰まで流れるような翠色の黒髪が優しく揺れた。なんとか瞼を押し上げて少し高い位置にある揚羽さんを見上げると、困ったような表情で私の髪を梳いた。

「白いコートの金色の瞳をしていたのが私の妹の宙さん。帽子を被っていらしたのが相棒の(から)さんです。今回は翼さんを引っ張り上げるために力を借りました。」

 揚羽さんはとても申し訳なさそうに俯いた。裾の長いワンピースは私が知っているものよりも柔らかな布を何枚も重ねた、まるで妖精さんのようで、でもそんな浮世離れした雰囲気も揚羽さんにはしっくりくる。

 その目が、深い森の中に湧き出る泉のような紺碧色の流動を帯びて揺らいでいる。

 それを見て、揚羽さんが私の大事に無理をしてくれたことを確信した。心なしか顔色も悪いし、手も微かに震えている。

「だいぶ深く・・・あと一歩遅ければ二度と目が覚めない程深淵まで引っ張られましたよ。」

 そんな怖い言葉、でもきっと真実だろう。あの時の・・・苦しさは、たぶん今まで飲まれた何よりも大きかった。

「私・・・そんなに、深く潜り込んでたの?」

「非常に同調率が高かったことも原因ですが、翼さんも大学に進学されてから時間が経ちましたし、少し心に余裕が出来たり警戒心が落ちていたようですね。“和み”が少々コントロールできるようになっても、感覚が緩んでいたことで警戒が緩み、引き寄せられ過ぎてしまったのかもしれません。」

 その言葉を聞いて、私は肩を揺らせた。

 私には、周りの、夕ちゃんや花ちゃんやおばあちゃんにも言えない秘密がある。

 それがこの、目の前の揚羽さんがくれた“和み”という力。今は、体質と言った方がいいかもしれない。それが判明したのは、私がまだ自分を『及川翼』と言う存在だと知らなかった時のことだった。




 なんだかとても長い夢を見ていた気がして、私はまだ頭がぼんやりした状態で重い瞼を持ち上げた。

 とても・・・悲しくて苦しい、でも何よりも幸せな夢だった。辛いことや苦しいことばかり、でも最後の最後に一つだけ、自分の願いを叶える夢。

 なのに・・・どうして私はそれを、そのことをとても不安に思うんだろう。怖いって思うんだろう。何もかもよく分からなくて、ただただ怖くて怖くて・・・。

「・・・翼?」

 私がよく分からない堂堂巡りの思考に囚われていると、横から声がした。 私はその声が自分にかけられたような気がしてゆっくりと首を動かした。

 そこには見たこともない女の人が、私を覗き込んで呆然とした表情をしていた。私はその人がどうして泣きそうなのかも、驚いているのかも、私が寝かされていた真っ白な部屋の何かのボタンを押しているのかも。

「翼っ、翼、分かる? 翼っ?」

 知らない人が私の名前を呼んでいる。必死に私の肩を掴んで、肩に指が食い込むほどの強い力で私を揺さぶる。

 ここは・・・とても、嫌な場所。とても、好きじゃない場所。

 なんだかツンとするような、あまり嗅いだ事のない匂い。ピシッと張り詰めて、それを壊してはいけないような硬い匂いとひそひそした話声。息が詰まるような、雰囲気に私は全身を凍らせた。

 その時、私にいろんな波のような物が襲い掛かってきた。それは今思い返せば物理的なものではなく、私だけが感じた精神的なものだったのだけれど、その当時の目覚めたばかりの私にはそれを区別できるような知識も余裕もなかった。

 気持ち悪いほどの強い感情、あまりにもたくさんの人の気配や目まぐるしい空気の流れ、壁や床、天井、部屋の中や外にある様々な物にこびり付いて消えることのできない陽炎のようななにか。

 私にもよく分からない、たくさんの『怖いもの』。強すぎて、必死すぎて、強烈なモノが私が目を覚ました瞬間に私に気付いて迫ってくる。

 ここに・・・いたくない。そう思った。でも、身体はなにひとつ言うことを聞かない。怖いくらいに強張って、動かすのにも一筋一筋の糸がぶちぶち切れてしまっているような、そんな感触さえした。

 そのうち、廊下の方からたくさんの白い服を着た人が部屋に入ってくる。その多すぎる人によって辛うじて静寂を保っていたお部屋の中が爆発するような勢いで乱れた。耳や鼻といわず、体中の毛穴や涙がでるところ、穴と言う穴から大量のなにかの質量が私の中に捻じ込まれるようだった。

 圧倒的な重さと激しさで、心臓を氷のような手で鷲掴みにされて捻り潰されそうな痛み。頭が内側から切り刻まれているような頭痛に私は声にならない悲鳴を上げた。

「──・・・っ!」

 その瞬間、怖いモノが全部私に向かって迫ってきた。私はもうどうしていいか分からなくて、ただひたすら呼ぶ名前を何一つ持たないまま叫ぶ言葉も知らずに叫び、目を硬く閉じた。私に伸ばされる手が救いだろうと害意があろうと関係ない。私には自分以外の何もかもが怖くてただひたすら叫んだ。

 その途端、今まで晴れていたのが嘘のように厚いどす黒い灰色の雲が光よりも速く青空を覆い隠し、そこから突然雷が落ちて、病院の全ての電源が落ちた。余談だけど、その日病院にあった全てのパソコンや機械がその高電圧に耐えられずに壊れたのだそうだ。直接電源に繋がっていないはずの使用中の携帯ゲーム機ですら沈黙したそうだ。

 病院関係者は絶望に打ちひしがれたことだろうと、私は他人事にしたい。

 私はと言うと、目覚めたはいいけど十分も起きられずに再び眠りに就いてしまったから、正直何が何だか分からなかった。それでも、私はその日から一日に十分程度、長いと三十分程度起きられるようになり、次第にその時間が長くなっていった。

 女の人はそれを喜んだけど、当時の私にとっては地獄に等しかった。言い換えれば言葉も見た目も分からないお化けに囲まれ、でもそのお化けは私から決して離れようとしないで常に傍にいて、ニコニコとした笑みで私に声をかけて触ってくるようなものだ。

 とても正気では居られなかった。

 怖くて怖くて仕方がない。でも、私は自分が怖がっていること示すことも、話すことも、周りの人たちを追い返すこともできなかった。言葉も感情も私は理解できなかった。だって私は、身体は確かに小学生の年齢にまで育っていたけれど知能や情緒は赤ん坊そのものだったのだ。

 でも、何故か私は完全な赤子の状態でもなく、まるで野生動物に育てられた人間のように社会生活に不適合で、それでいて攻撃性を持ち合わせていなかった。まるで奇妙な状態のまま、私は目覚め、訳の分からない恐怖からなんとか逃れようと日々身を縮めて震えていた。

「・・・うっ、ひっく・・・うぅっ・・・ひっ。」

 しとしと降る雨が私の涙や嗚咽と同じように降り続く。私が目を覚ましてから、この街というかこの病院近辺限定で天候が不安定になった。雨が続くだけならいいとしても、気温が真夏日になったり、氷点下になったり、雹が降ったり、雷が降ったり何とも忙しないい。

 それに、その天候が関係しているのか、何だか皆が不安そう。建物の中がいつも以上にピリピリしていて、怖い。子どもは泣いているし、大人は苛立っている。ちょっとのことで喧嘩になるし、皆が些細なことで大きなミスをしているようで、病院全体が危うかった。

 そんな環境は、私をもっと萎縮させるには十分なほどの悪条件だった。

 だから私は、起きている少ない時間のほとんどを泣いて過ごした。

 情緒の不安定な私を女の人も看護師さんもお医者さんも心配してくれたけど、何もかもが怖かった。

 出されるごはんは色んなモノに邪魔されて何の味もしなかったし、嫌な匂いもしたし、口の中で砂利を噛んでいるようなものだった。

 次第に私は食べ物を口にしなくなった。泣く体力もなく衰弱していく私を女の人はただただ寂しそうな瞳で見ていた。そして栄養剤の注射も点滴も刺されるのが嫌で大暴れしていた私が、とうとう起き上がれなくなった。

 そんな時、私はその人に出会った。


「ご飯を食べるのが嫌なのですか?」


 今まで周りの人たちの声は雑音ばかりで聞き取れなかったし、聞き取れるような状態ではなかったけれどその声だけははっきりと私の耳に届いた。私は初めて聞く言葉にゆっくりと視線を彷徨わせると、いつもは女の人が座っている椅子に、その人は座っていた。

 青みを帯びた長い黒髪を背に流し、とても優しそうな目をした少女。ふっくらとした頬は珊瑚みたいにうっすら桃色で、吸い込まれそうな瞳は周りのどんな人にもない紺碧色の光が揺れている。袖も裾も長い淡い水色のワンピースみたいな、着物みたいな不思議な衣装に身を包んだその人は、今にも消えてしまいそうなほど儚いのに、何故かとても眩しかった。眩しくて、寂しくて、悲しくて、優しい。

 その胸元に揺れる無色のようで少しくすんだ色をしたペンダントが私の目の前で揺れた。

 その人は私がその人の話を聞いていることがわかったのか、とても嬉しそうにはにかんだ。その笑みに、私は今まで自分を覆っていた怖い物が少し小さくなったように感じた。

「こんにちは、私は梶草揚羽と言います。あなたは?」

 その人は自分のことを・・・揚羽と言った。揚羽とは一体何なのか分からなかったけれど、ふと頭にそれがその人の“名前”で、それがその人を現す“唯一の言葉”であると思った。

 名前・・・私の名前。

 私は今まで怖くて怖くて仕方無くて、私の世界には私と私以外がいるだけだった。名前なんて、当然ない。

 でも、確か目が覚めて最初、他の人より身近に、いつも私の傍にいる少し老いた女の人は私のことを・・・

『・・・つ、ば・・・さ』

 私は罅割れて開くだけでも痛みが走る唇でその人に私の“名前”と、私を現す“唯一の言葉”を口にした。

 それがどうして自分の名前だと思ったのか、受け入れられたのかなんて分からない。でも、あの女の人が私の名を呼ぶ時の声に、雑音はなかったから。

 なにより目の前で微笑むこの人に、“私”を呼んで欲しかった。

「翼さん?」

 その人は、私の名前を、呼んでくれた。

 そして宝物を抱き締めるみたいな嬉しそうな、子どもみたいな、でもなんだか泣き出してしまいそうな笑顔で私の名前を噛み締める。

 それが、何故か胸がぎゅうっとなって痛くなるほど、何かが込み上げてきた。いつもの恐怖で泣き叫ぶ時とは違う、あったかい感覚、でもなんだかとても痛い。

『・・・な、かな、い・・・で』

 あの女の人がいつも私を抱き締めながら言う言葉。

『翼、泣かないで。大丈夫、もう怖いことはないのよ。』

 意味なんか分からない。怖いことはなくならない。あの人の言葉なんて聞こえない。でも、どうしてか私に向けられた寂しくて大事な思いだと言うことだけは、なんとなく知っていた。

 今目の前の人が怖いと思うことがあるのならと思った時に生まれた心に似ていたから。かけた言葉。

 声も出ていない、咽喉から空気が漏れるひゅうひゅうという甲高い音でしかない“言葉”を聞き取ったのか、その人は驚いたように目を見開いた。そして困ったように、でも幸せそうに私の額をそっと撫でてくれた。

「貴女は・・・とても、優しいのですね。」

 その人が触ったところはほんの少し暖かいけれど、女の人が私に触れる時のような確かな感触はない。表現するなら春風に運ばれた葉っぱがおでこを撫でたみたいな、微かな感触しかしなかった。

「ご飯を食べるのが嫌なのも、きっと、貴女がとても敏感で優しいからなのでしょう。」

 揚羽さんは私の額に自分の額を擦り合わせて注ぎ込むように言葉を紡いだ。視界が、揚羽さんの冷たくて長い黒髪に覆われて、まるで守られているような気分になる。安心する。

「ご飯は・・・命をもらって作られます。」

 命・・・あの砂を噛むような物体に宿っていた炎のような、光のような、強くも刹那に過ぎていく残滓を思った。

「たくさんの命が、貴女を生かすために奪われました。それは・・・とても悲しいことですね。」

 悲しい・・・そう、とても悲しい。そして怖い。二度と目を覚まさず、触れ合うことも感じることもできないから、怖い。

「それを生きているのならば仕方がないと割り切ることもできます。でも、貴女はまだその重みすら感じられていません。だから、命を奪い、引き継ぐことの意味を私が教えただけでは駄目なのです。」

 私が感じるのは残滓だけ。何かの燃え滓のような、想いだけ。あとは他の色んなものに押し流されて何も感じられない。

「心を落ち着けて、耳を澄ませて、貴女が感じることだけに集中する・・・難しくはありません。ただ、お願いするだけでいいのです。」

 揚羽さんは私の額からそっと額を離し、私に微笑みながら近くに置いてあった林檎のすり身を私の口元にスプーンで運んだ。

「『あなたのことを、知りたい』と。」

 その意味が私にはよく分からなかった。でも、私の目の前で寂しそうに微笑む揚羽さんが、何故かあの女の人に重なった。食べ物を拒否して暴れる私に、いつも困ったように、でも根気強く食べ物を持ってくるあの女の人。

「・・・。」

 貴女は・・・誰なの? どうして・・・こんなことをしてくれるの?

 私は揚羽さんが口に運んでくれた林檎を、そっと舌で舐めた。


 ドンっと、甘さと一緒に何かが流れ込んできた。


『──忘れ形見・・・私が・・・守らなくては』


『目覚めて・・・くれた』


『怖いことなんて何もないのよ』


『大丈夫、大丈夫よ』


『泣かないで、私の──』




「──・・・。」

 真っ赤な実が見えた。太陽をいっぱい浴びて大きく育ったのに、強い風の中枝から落ちてしまいそうで怖くて泣いていた。暴れるようなものではなく、胸を引き絞られるような恐怖だった。恐怖より、悲しみに近かった。


 怖い怖い、助けて。


 そんな時、白いごわごわした手がそっと赤い実を支えた。いつも嬉しそうに赤い実を見つめる初老の夫婦が、強い風の中必死になって実を守ろうと作業をしていた。何時間も何時間も、そうして赤い実は再び太陽に出会って夫婦によってもぎ取られた。

 寂しい、怖いと思う赤い実に向かってその人たちは言うのだ。


『いってらっしゃい、わたしたちのかわいい──』


 その言葉をかけられた赤い実は、林檎は、寂しくて泣いてしまいそうなのにどこか安心したようにこう言った。


『いってきます、──』


「翼? どうしたの?」

 私は突然呼びかけられてびっくりした。

 さっきまで揚羽さんがいた場所にあの女の人がいて、私を心配そうに覗き込んでいる。私は、その人を食い入るように見つめた。

 今まで怖くて、きちんと見られなかった人。でも、今見えた夫婦のように強くて、温かくて・・・私の頬を涙の雫が伝った。

 私が静かに涙を流し始めたことに驚いたのか、その人は驚きに目を見開きながら私を宥めた。

「翼、大丈夫よ。今日はね、林檎をいただいたの。ちょっと食べてみない?」

 そう言って、さっき揚羽さんがしてくれたみたいに私の口元に匙で林檎を運んだ。いつもそこで暴れる私の半ば諦めているように、困ったように眉を下げている。でも、私は罅割れて痛みを伴う唇をなんとか開いて、口の中に林檎を招き入れた。

 目の前の女の人が驚きに目を見開いているけど、それよりも私は知りたかった。聞き取れない、あの言葉。


『いってらっしゃい、わたしたちのかわいい子ども。かわいい、孫たち。』

『いってきます、わたしの──』


「・・・お、ば、あ、ちゃん?」

 そうだ、この人はずっと私の傍にいてくれた。眠り続ける私の近くに、ずっといてくれた。誰も訪れる筈のないこの病室で、唯一私を待っていてくれた。

 ただ、ずっと、私が目覚めるのを待ってくれたんだ。

 私の、おばあちゃん。

「おば、あ、ちゃん・・・な、かな、い、で・・・?」

 おばあちゃんは私をぎゅうっと抱き締めて何度も私の名前を呼んだ。回された細い腕でも余ってしまうほど私はがりがりにやせていたけれど、おばあちゃんの手や腕が痛いほどに体に食い込んで。

 その力強さに私は泣きそうになった

 部屋の隅、私を嬉しそうに見つめるその人は何だか胸が苦しくなるような笑顔で私に頷いて見せた。

 その日から、病院の周辺の異常気象はまるで嘘のようになくなってしまった。




 私がいつも傍で私を守ってくれる揚羽さんの庭に招待されたのは、まだ夕ちゃんと親しくなる前。やっと普通の生活が辛うじて送れるようになってきた頃のことだった。

 揚羽さんは現実で私とお話をしてくれることはあっても、揚羽さん自身が夢の中で私に話しかけてきたのは初めてのことだった。

「夢の中は私の領域です。どうぞ翼さん、私の手をお取りください。」

 いつもより体が軽くて、眠気もない私は特に警戒することなく揚羽さんの手に自分の手を重ねた。すると、縋るようにあ私の手をぎゅっと握り、でも羽毛のように軽い動作でそっと引っ張った。

 途端に訪れる重力に引きずり降ろされるような急速な落下の感覚にびっくりして揚羽さんに抱き付く。風もなく、ただ落ちるだけの感覚に怖くて怖くて目をぎゅっとつぶっていると、すぐにふわっと体が一瞬持ち上がって、足が柔らかい地面に着いた。

 恐る恐る目を開けると、そこは今まで見てきたどんな所よりも綺麗な場所だった。

 風と水が流れる音だけが聞こえる、静かな場所。

 見渡す限り、地平線と言うものを知らなかった私だけど、地平線の向こうまで続くくらい瑞々しい下草で覆われた大地が続いている。地面との境が曖昧になった空は、吸い込まれてしまいそうなほど雲ひとつない青い色をしている。空と地上の間には、優美な蝶たちがあちこちで舞っている。

 といっても、ただ地面が続いているだけじゃなくて、一つ一つが島のように孤立していて、その島ごとに花が咲いていた。

 私がいる孤島が一番大きくて、そこには桜の巨木が堂々として威厳と長い年月と儚さを纏って佇んでいた。大人三人が一杯に腕を広げてもまだ届かない程太く苔生した立派な大木には、両手で掬ったら零れ落ちそうなほどに咲き乱れた桜が鞠のように隙間なく枝を包み込んでいて、幹がなければ少し桃色がかった雲のように見えた。

 でも、その花びらは普通の桜よりもひだがあって、八重桜に似ているのに一枚一枚舞い落ちてくる。風もないのに軌道が全然違って、地面に触れると解けるように消えてしまった。花びらなのに蝶々みたいで、花びらだけど雪みたいで。

 この空間の主と言ってもいいようなその木はしっかりと地面に根を張っていて、力強い。

 その桜の孤島に一番近い島にはいろんな色の蘭の花の島やあんまり見たことのない真っ青なアルトランチアの島、花びらが棘のようにぎざぎざしていて、でも茎からは綿のような柔らかな葉が垂れるチューリップの島、一つの幹なのに様々な色をした花を付ける山吹の島と言うように、数え出したらきりがないほどの花々の島があった。

 私はさっきまで感じていた恐怖も忘れて島の端っこに走り寄ると、慌てた様な声に止められた。同時に腰回りに何かがぶつかってきて、倒れた。夢の中でも私の体は貧弱で、自分よりずっと小さな何かの軽い衝撃でも潰れてしまった。

「あー、駄目なのです~、危ないのです~!」

「・・・?」

 見ると、まるで下草のように瑞々しい碧色の髪を肩口で切り揃えた、ぶかぶかの袖を不自由そうに操る和装の女の子が私を見上げていた。その目は水を吸った土のように綺麗な濃い焦げ茶色で、星よりもきらきらとした煌めきを秘めていた。

「この先は水路なのです~とっても深いから、危ないのです~。」

 その言葉通り、そっと淵をのぞくとそこには微かに緑がかった蒼い光を放つ水が滾々と湧き出し、島と島の間を隅々まで満たしていた。よく見れば、あまり見たことのない色鮮やかな魚が気持ちよさそう泳ぎ、水草がゆらゆらと揺れている。

 そこまで深そうに見えない。事実、水路の底に敷かれた白い砂利がそれから降り注ぐ陽光できらきらしている。

「この水路は慣れない方には遠近感を掴むのが難しいのです。目の前に見えますが、この『夢見の砦』は周囲から完全に隔離されていますので水深は数百メートルはあると言われています。私も底まで行ったことがないので分かりません。ただ、ここ以外では時々浅瀬がありますから、そのうちご案内します。」

 私と女の子を抱き起こしながら揚羽さんが微笑んだ。私が呆然としながら揚羽さんを振り向くと、女の子は揚羽さんの足元に抱き付きながら私を見上げた。よく見れば、彼女の丸っこい足は裸足だった。

「揚羽様~、この方は~?」

 幼い口調で揚羽を見て、私を見ながら恥ずかしそうに揚羽の後ろに隠れる。

「この方は及川翼さんです。私の継承者です。」

「わぁ、じゃあ(すず)(あめ)も仲良くしていいなのですか~?」

「もちろん、翼さんとは仲良くしてくださいね。ですが、その前に・・・」

 そう言うと揚羽さんはいつも首から下げている月長石のペンダントを包み込むように手を組み、私の前に跪いて小首を傾げた。

「改めまして貴女を私の箱庭にお招きできたことを心より嬉しく思います、及川翼さん。」

 揚羽さんの目はいつもよりも碧く煌めき、揺れる光は炎のように瞳自体を青く燃え上がらせていた。普段よりも悲しくて、寂しくて、燃え尽きそうな力強さがある。

「私は要神の一人、そしてこの『東の箱庭』と『夢見の砦』の守護者でもあります。第四の運命を司る者、梶草揚羽と申します。」

 たくさんの肩書きを持つこの目の前の揚羽さんなんて知らない。ただ知っているのは・・・

「揚羽さんは・・・私にとって、神様みたいな人。」

 私に食べることを教えてくれた。おばあちゃんのことを教えてくれた。怖い時、寂しい時、いつも傍にいてくれた。リハビリが辛い時もいつもいてくれた。

 貴女は私にとって神様みたいな、本当に救ってくれた人。

「でも」

最初の最初、私が感じたのは。

「揚羽さんは眩しくて、悲しくて、寂しくて、優しい、人。」

 ただ、私にとっては、それだけの人。

 そう言うと揚羽さんは目を見開いて、そして泣きそうな笑みを浮かべた。

「貴女のように優しい方におっしゃっていただけるとは思いませんでした。“和み”の力を継いだ、継承者である貴女に。」

 立ち上がった揚羽さんの言葉に首を傾げていると、揚羽さんの足元にいた少女が揚羽さんの影から飛び出して私の手を引いた。

「涼雨はね、涼雨なのです~。」

「こちらは私のお手伝いをしてくださっている涼雨さんです。」

「涼雨はですね~この箱庭で土のお世話をしているのです~。」

 そう言う涼雨ちゃんはとても誇らしそうで、でもそれ以上に私を見上げる目が嬉しそうだった。

「涼雨はね~翼が大好きなのです~。」

 何故いきなりそんなことを言われたのか分からなかったけれど、涼雨ちゃんは私に抱き付きながら引っ張る。

「こっちに行くのです~!」

「翼さん、こちらに。詳しい話はそちらでいたしましょう。」

 揚羽さんと涼雨ちゃんに促されて巨木の裏側に回ると、そこには背が高くて髪の長い、どこか氷のように冷たい印象の白い女の人がテーブルを広げ、お茶やお菓子の用意をしていた。白いと言うのは比喩じゃない。地面を滑る髪も肌も服も真っ白。雪のように思った。その人は目を瞑ったまま、でも私も揚羽さんたちも見えているように動きを止めた。

「ありがとうございます、(ゆき)(しも)。」

「・・・。」

 雪霜さんは頭を丁寧に下げただけで、何も言わずにすっと空間に融けてしまった。でも、その途端、どこかから聞こえてくる弦を爪弾くようなささやかな音色が耳を掠める。

「雪霜は音楽の名手なのですが、私の箱庭では自分自身は害になるとあまり姿を現してくれません。」

 それがどういうことなのか分からずに揚羽さんを見上げたが、揚羽さんは目を細めながら私に椅子を勧める。

「ですが、一番得意な竪琴の曲を貴女に贈る辺り、貴女を気にかけているのでしょう。」

「・・・はい。」

 なんとなく分かる。微かに響く音の波が、私を気遣ってくれていること。落ち着けるようにと、心を砕いてくれていること。その中にある悲しいような想いも。

「雪の・・・神さま?」

「いえ、正確にはこの箱庭の雪や霜、霰、雹と言った凍るモノが私と長年一緒にいたことで具現化した聖霊に近い存在です。この世界そのものが特異点と言ってもいいので、本当はどんな存在なのかは分かりません。」

「涼雨もなのです~。」

 白い椅子に私が腰掛けると、無邪気に涼雨ちゃんは私の膝の上に乗って私を見上げる。

「涼雨さんもこの世界の土や石、砂利といった地面を形成する化身です。ですがお二人とも、私の大切な友人です。」

 揚羽さんはそう言うと、用意されていた白磁に桃色の花の描かれたポットに手を伸ばし、同じ柄の温められていたカップに赤みの強いお茶を注いだ。

「どうぞ、これはある方から、貴女へのお祝いとしていただいたものです。」

 カップとお揃いのソーサーを差し出され、膝の上の涼雨ちゃんに緊張しながら受け取る。涼雨ちゃんは幼い外見だけれど、テーブルの上のお菓子にも手を付けないし、紅茶を受け取ったとしても暴れない。うっとりしたような目で、私を見上げる。

「おいしいのですよ~、大丈夫なのです~。」

 その言葉にカップを眺める。内側はお茶の色を邪魔しないように絵はなく、赤みがかったお茶は芳しい花の匂いがした。どこかで嗅いだような、甘い匂い。

 私は意を決して紅茶を口に含んだ。


『食べることは、命を引き継ぐことだ。ただ、それは奪ったものである時もあれば、与えられた優しさの形でもある。』


 ふと、声がした。


『与えられたなら、それを自分の周りの生きているモノに分け与えていくのが生かされた者の義務だ。優しさで、愛情で、誰かを生かすために・・・様々な形で。』


 真摯な声が私を満たした。その声が今も昔も・・・ひっそりと、私を見守っているような気がした。




「・・・おいしい。」

 自然と口から零れた言葉に懐かしさを感じ取ったのか、揚羽さんはそっと目を細めた。

「それはよかったです。」

 私が大学生になっても変わらない容姿のまま、テーブルを挟んで向かいに揚羽さん、膝の上でお菓子を頬張る涼雨ちゃん、最初こそ遠慮して姿を消していた雪霜さんも、今は私を少し遠巻きにして心配そうに竪琴を奏でている。

 私は私が揚羽さんの所有するこの箱庭にやって来た時のことを思い出していた。

「久々に・・・揚羽さんにここに初めて連れてきてもらった日のことを思い出していたの。」

「ずいぶん昔のことですね。」

「このお茶を飲むと昔のことを思い出すの。初めて目を覚まして、ご飯を食べられるようになる日からのこと。」

 たくさんのことがあった。そのたくさんのことの中に、揚羽さんと揚羽さんからもらった力は大きく関係している。

 揚羽さんは、人間ではない。私にしか視えず、声も聞こえず、触れることもできない。不思議な力があって、何年経っても姿が変わらない。

 揚羽さん自身は困ったように自分のことを『要神』と言った。

 神様みたいに思ってたけど、本当に神様らしい。そんな柄じゃないと、本人は言っていた。

 揚羽さんの他に四人が要神として存在していて、姉妹として活動していると言う。つまり、さっき会ったすごく綺麗な宙さんも要神の一人と言うこと。他の姉妹のことに関して聞いたことはないけど、皆それぞれ仕事があるらしい。

 皆、元人間。でも、それが意味をなさない程の長い年月を、ただ与えられた役目を全うするために生きているんだって。

 どうしてそんなことをしているのか、どうして神様になったのか聞いた。でも、揚羽さんはそれは知らない方がいいと言った。知って欲しくないとも言った。だから私は聞かないことにした。その時の揚羽さんの目は、本当に、本当に寂しそうで苦しそうで、でも終わりがない。だから、私は聞けなかった。

「貴女が“和み”を発現して、私が呼び寄せられた時のことですね。」

 揚羽さんは私が今の私になる前、魂と言うモノが次の生まれ変わりを待っている時に出会ったそうだ。もちろん、私は覚えていない。

 揚羽さんと相性のいい、もしくは調査対象として適合した魂に揚羽さんの育てた(ふゆ)(だね)を継承する。生物として生まれた時、元々の魂の土台と経験や想いから、丁度土と水のようにそれらに育てられた冬種が芽吹いて芽が出る。これを揚羽さんは(ゆめ)()と呼んでいるそうだ。夢芽が芽吹くと継承者に何らかの能力が発現して、いつもは継承者以外とは接触できない揚羽さんが夢芽から流れる呼び水を頼りに揚羽さんは継承者の元を訪ね、サポートをしていくらしい。そしてその人が一生を終えたら揚羽さんは枯れて種に戻った冬種を回収して、この箱庭で育てるのだと言う。人が人としてどんな一生を過ごすのか、記憶を感情をリアルタイムで蓄積した冬種から(つゆ)(はな)を育てるのだと言う。その活用方法は、企業秘密だそうだ。いつか私の夢芽が枯れて冬種に戻り、揚羽さんの箱庭で記憶の露華を咲かせる。どんな花が咲くかは分からないけど。

 能力は人によって様々だと言う。見た目は華奢でも人間離れした運動能力を身につけたり、幻覚を生みだしたり、予知夢を見たりととてもバリエーションが多いらしい。

 私の力は“和み”の力。私は生きとし生けるもの全てを和ませる力があるらしい。気分を落ち着かせる、和ませるだけなら雰囲気として同じことを出来る人はいくらでもいるけど私の場合は気分に訴えるだけの可愛いものじゃない。

 強く作用させれば傷や病気を早く治すこともできるし、木々の成長や生命力を維持することもできる。挙句の果てには天候まで左右することが出来る。笑ってしまうかもしれないけど、私が不安定だった時、病院限定で異常気象や現象が絶えなかった。

 私は普通はあり得ないほど大きなものや普通には感じられないような非科学的な存在まで和ませてしまえる。反対に、私の体調が悪かったり不安が大きかったりすると、周りも落ち着かなくなるし異常な現象が続くことになる。この現象を“不穏”と揚羽さんは呼んだ。とっても危ない状態だって。

 そんな私は小さい頃からこの力をうまくコントロールできなくて常に“和み”を作用させた状態なんだと揚羽さんは言った。それだけならまだいいとも。私の力は際限がなさそうでそうでもない。夢芽が元になっていると言っても私が揚羽さんと相性が良くても、夢芽が持続できる能力の時間には限りがある。今の私は寝ている間に蓄えた力を起きている間に無意識に使っていることになる。タンクのバルブが開いて、勝手に水が出るみたいに。

 私が今現在、睡眠障害だとナルコレプシーみたいな症状を持っているのは、所構わず寝てしまうのはこれが原因だ。私は夢芽に蓄えた力がなくなると、それを補おうと寝てしまう。そうしないと、力を維持しようとして生命力も削り出そうとする力に対して、一種の防衛反応が働くからだそうだ。

 解決策は、今のところはっきりとはない。私の力は常時持続しているけど、時たま変動が激しいらしい。最低値なら普通の人と何も変わらなくて、そう言う時は何ともなく過ごせるのに何がきっかけなのかとてつもなく強く作用してしまう時もある。しかもどこに、いつ作用するか分からないから私自身コントロールのしようがない。そもそも、作用していること自体が少し信じられないから。

 小さい頃は体力もないし、精神的にもとても不安定でまともな生活が出来なかった。でも、成長して、たくさんの人と関わって、楽しいことがたくさんあって・・・力が少しずつ、本当に少しずつだけど分かるようになったし抑えられるようになった。それと同時に、今回みたいに強い人の感情に引き摺られることどんどん多くなった。

 私の“和み”は精神感応に近いところがある。私は誰かと共感したり、その想いを知ることで相手を和ませたり、癒したりする。だから人が隠しておきたいことや隠している想いを、その人の人となりを昔から敏感に察していた。私の素質もあったそうだけど、能力としても元々そういう側面があった。おばあちゃんや揚羽さんに感じた感情はここに起因している。

 だから、感情移入しやすい。寄り添い過ぎて、不安定で軟い面から取り込まれて精神死しかけたのだってこれが初めてじゃない。今までは生きた感情そのものに取り憑かれそうになったけど、生きている人間の感情を変動が激しいからそこまで危険じゃない。たまに危険なのもあるけど。

 でも、感覚や自我がはっきりして、私が自分で行動するようになって、私の感覚が研ぎ澄まされて、遺された想いに気付くようになってからこういうことが起こるようになった。叶えられないけど強烈に取り残された想いは、私と言う共感性の高い子に助けて欲しいと願って寄ってくる。でも、その想いは私にはどうして掬うことのできない想いで・・・。


「貴女が気に病むことはありません。あのコスモス畑ならば大丈夫かと思った私も軽率でした。」

 私が物想いに耽っていると揚羽さんが申し訳なさそうに「すみません」と謝ってきた。

「そ、そんなことないよ! 揚羽さんと宙さんたちのおかげでこうして助かったんだし・・・」

 そこで思ったのは、子どものようなあの手。宙さんとは違う、小さな手。

 あれはいったい・・・誰の手だったんだろう。

「・・・翼さん?」

 揚羽さんの声にハッとして前を見ると、心配そうに覗き込まれた。

「どうなさいました?」

「その・・・あのね、揚羽さん。宙さんが私を助けてくれた時、小さな手も私を助けてくれたの。」

「えっ?」

「誰の手だったのかな?」

 私が何だったんだろうねと涼雨ちゃんを覗き込むと「ね~なのです!」と可愛らしく応えてくれた。いつもの瑞々しい緑の髪はサラサラで、その髪を撫でていると私の“和み”のせいか心なし足元の下草が生き生きしている。

 そんな私を揚羽さんが少し蒼褪めながら見つめていた。

「揚羽さん?」

 どうしたのだろうかと声をかけようとした時、風と水の音に馴染んだ竪琴の音がそっと止んだ。

「雪霜さん?」

 そちらに顔を向けると、雪霜さんがゆっくりとお辞儀をして静かに空間に融けていった。気が付くと、涼雨ちゃんもいない。視界も少しずつ霞んで、綺麗な花々が、もう見えない。

 この夢が終わるのを感じた。

「揚羽さん、私・・・」

「はい、そうですね。」

 揚羽さんは何故か泣きそうになりながら、立ち上がって私の手をぎゅっと、でも羽毛のような動作で引いた。

「また、揚羽さん。」

「御機嫌よう、翼さん。」

 揚羽さんの手が引くのに任せて、私は目を閉じた。



『めを・・・さまして・・・おねがいだ・・・』



「っ!」

 私が目を覚ますと、そこは見慣れたくないけど見慣れた病室だった。喉がカラカラでお腹がすきすぎて気持ちが悪い。揚羽さんとお茶を飲んだとしてもそれは私の精神上、魂の話であって肉体は飲まず食わずの状況だ。机の上のカレンダーを見ると恐ろしいことにもう二週間以上眠っていたことになる。今が大学の夏休み期間でよかったと本当に思うしかない。九月も終わりの涼しさが私を撫でた。

 でも、そんなことより・・・

「誰も、いない?」

 夢から覚める間際、私が目を閉じて開けるまでの僅かな時間、声がした。

 胸が締め付けられたような、でもこれ以上ないほど激しく引き裂かれるように。寂しくて苦しくてたまらないという声が。あの、小さな手から感じたのと、同じ想いを。腕にあとが付きそうなほどの渇望を。

 でも、私の腕には温もりが残っている。

「・・・だれ?」

 私は訳もなく、泣きそうになった。悲しくて仕方なかった。きっと、部屋にはいない、温もりの主の想いがあまりにもあったかくて、悲しかったから。







「ああ、貴女の力はこれほどまでに強くなったのですね、翼さん。」

 悲しそうな揚羽の声に桜が共鳴するように、ざわざわとその枝を振るう。花弁は雪のように降り注いで揚羽の視界を覆った。


『どうか私のお願いを叶えてください、揚羽さん。』


 そんな声が、懐かしい笑みと共に脳裏を掠めた気がした。

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