私を守ってくれるヒト
「二度目の初恋」の2作目です。
主人公の体質について触れていますが、あくまでオリジナル設定であり、現実の病気とは関係ありません。
そのような表現にご不快を覚えられる方は、読むのをお控えください。
それが起こったのはいつも通り。でも、場所が悪かった。タイミングが悪かった。最近、私の目算はいつも間違ってばかりで。
「翼っ!」
「翼君っ!」
階段を上っている時、私は強烈な睡魔に襲われた。
私の意識はその時もうほとんどなかったけど、気を失いかけた時にはもう上体が後方に投げ出されていたらしい。両手いっぱいに荷物を持っていた夕ちゃんも花ちゃんも、いつもみたいに私を掴むことができなくて、ただ階段に打ちつけられる私を見ていることしかできなかったという。
「──・・・っ!」
悲鳴と私を呼ぶ声。雑踏の足音。物が床に落ちる音。
たくさんの音が耳に反響する中で、その声だけが妙に大きく響いたと思った。
──どさっという音と共に全身に衝撃が走って、目の前が真っ白になった。
いつもなら少しも抗えないまま落ちていって、自分の身を危うくする睡魔がこの時はいつもと質が違った。少しだけ浮上した意識に喜ぶ間もなく、全身が訴えてくる異常を声に出して訴えた。
「・・・い・・・た、い」
とにかく痛くて、声が出なくて苦しかった。息の吐き出し方が分からないみたいに、大きな何かの塊が気管から外に抜ける途中で渋滞を起こしているみたい。詰まって、吸うことも吐くこともできなくて、当然言葉を発することもできなくて・・・私は肋骨の真ん中がぎゅうって押し潰されてしまうような痛みと共に口をパクパクさせるしかできなかった。
「翼っ、大丈夫かっ!?」
「誰かっ、養護室の先生を呼んできてください! 頭を打っているかもしれないわ、動かさないでっ!」
視界は真っ暗で何も見えないけど、聴覚だけは生きているみたいだった。
夕ちゃんと花ちゃんの慌てた声を聞いているうちに、色んな足音と一緒に体がふわっと浮いた。そのすぐ後に硬くて不安定な物の上に乗せられて、そのままゆらゆらしながらどこかに運ばれていった。
「貴方も血が出ているじゃない! 一緒にいらっしゃい!」
聞き慣れた保健室の先生の声が遠くで聞こえたのが、その日の最後の出来事だった。
目が覚めたのは次の日の午前中だった。
壁も天井も真っ白い。すぐに病院だって分かった。体の所々がたまに痛かったけど、激痛ってほどじゃなかったからすぐに体を起こす。そうしたら、付添い人の椅子にはおばあちゃんが座っていて、目を覚ました私にひょいっと片眉を上げて見せた。
「あら、お目覚めなの? 今回は久々に長かったわね。」
「うん・・・どのくらい寝てた?」
「一日かしら?」
とぼけたように言って、おばあちゃんはベッドのすぐ傍にあったナースコールを押した。病室にやってきた看護師さんは私の顔見知りで、乙竹さんという年配の看護師さん。この看護師さんがいるということは、私はかかりつけの病院に運び込まれたらしい。
念のためと言って乙竹さんが用意してくれた車椅子に乗って、検査室に案内される。レントゲンを撮ったりCTスキャンを撮ったりして、主治医の加藤先生の元に辿り着いた。
「やあ、翼ちゃん。」
「こんにちは、先生。」
小学校からのかかりつけの加藤先生はいかにも好々爺然としたおじいちゃん先生で、灰色っぽい髪の毛と眼鏡が印象的だと常々思っている。
「今回は派手にやったね。」
私も記憶が断片的にある分、今回が近年稀に見る派手さだったことは何となく理解できた。人通りが多いところで、しかも階段で、真っ逆さまに落ちたのは小学校以来のことだから。私はかけられた声に首を竦めながら応えた。
「びっくりしました。」
「うん、そうだろうね。運び込まれてきた時は僕もちょっとびっくりしたけど・・・。」
先生はそこで一旦言葉を切ってから、肋骨とか頭のレントゲン写真みたいなものを見てからこう言った。
「昨日の時点で異常は見当たらなかったし、最後に検査して何も異常がなかったから帰っていいよ。」
「・・・はい。」
我ながら、救急車で運び込まれたのにほとんど無傷なのはどうなんだろう、私って頑丈すぎないかなとか思わないでもないです。恥ずかしいなぁ。
「あら、入院しなくちゃいけないくらいひどいよりはずっといいわ。」
おばあちゃんはあっけらかんとしている。普通ならもっと心配するものじゃないのって前に言ったことがあったけど、その時おばあちゃんは「毎回毎回心配していたら心臓が持たないし、翼はいつも大丈夫だから大丈夫でしょう。」と肝が据わったことを返してくれた。
まあね、毎回心配させている張本人が言う事じゃないんだけど、おばあちゃんの私の扱いってたまにひどくぞんざいな時があるから、私は病人(?)なのにって文句が口をついて出ただけなんだけど・・・。
「じゃあ、帰りましょうか。」
「うん。」
おばあちゃんと私は、商店街の近くにある一軒家に二人で暮らしている。おばあちゃんは商店街でお花屋さんを経営している。おっとりしていそうで意外と飄々としたところのあるおばあちゃんは、自宅でフラワーアレンジメントの先生もしながら私を女手一つで育ててくれた。私は小さい頃からそのお手伝いをしている。教室が開かれる時の夕飯の準備は私の仕事のひとつになっていた・・・だから、分からなくはないんだけど・・・これはどうなんだろう?
「ということで、翼。御夕飯はよろしくね!」
「・・・冷蔵庫の中に何もないよ。」
比喩じゃなくて卵一つなかった。調味料しかなかった。あれ、おかしいな・・・昨日の朝ごはんの時点ではいくつか食材が残っていたはずなのに・・・。
なんというか・・・本当にどんなにすごい事故を起こしても、日常って変わらないんだなって思った。どう考えたって、退院してきたばっかりの孫に御夕飯の支度を任せたりしないよね。百歩譲ってしたとしても、買い物に一人で行かせるのはどうなんだろう。そこが、私のおばあちゃんたる所以だって夕ちゃんも花ちゃんも言うけど。
エコバッグとお財布を片手に、だいぶ日が傾いた商店街を目指す。お家は商店街から五分くらい歩いた場所にあって、街灯も少ない静かな場所にひっそりと建っている。
商店街自体は今時珍しいくらい活気付いていて、おばあちゃんのお店があることもあって、私にとっては自分の庭も同然だった。
「翼ちゃん、今日退院だって?」
「うん、そうなの。」
魚屋のおばちゃんに話かけられて足を止めると、退院祝いにおまけをくれた。鮭を二枚買ったのに、おまけが二枚。倍になっちゃった、いいのかな?
「階段から落ちて、意識不明で運ばれたんだって、そりゃあ夕陽ちゃんが心配してたよ?」
「夕ちゃん、こっちに来たの?」
「毎日、梅子さんのところに寄っているみたいだよ?」
梅子さんと言うのはおばあちゃんのこと。及川梅子といって、この辺では有名な肝っ玉おばあちゃんで通っている。いやだな・・・自分のおばあちゃんに通り名みたいなのがあるの・・・。
「今日も来た?」
「今日はまだ見てないねぇ。もしかしたら、道場に行ってるのかねぇ。」
夕ちゃんの道場のある日と終わる時間帯を頭の中のスケジュール帳から引っ張り出していると、案の定横から声がかかった。
「翼!」
聞き覚えのある声に私が振り向くと、竹刀袋とエナメルの大きなスポーツバックを持った、無地の黒い長袖にジーパンの夕ちゃんが驚いたような、でも安心したような表情で立っていた。
「夕ちゃん。」
「大丈夫なのか、あんたは!」
夕ちゃんは背負っている大荷物なんて意に返さずにすごい速さで私に近付いてくると、ぐるっと私を回した。三半規管は丈夫な方のはずだけど、ちょっとだけ目眩がした。
「うん、外傷はないようだね。」
「おっきいのはないよ。ちょっと擦り剥いたり、打ったりしたみたいだけど。」
それを聞くと、夕ちゃんはあからさまな溜息を吐いた。おばあちゃんは放任主義的な所があるけど、夕ちゃんと花ちゃんは私に過保護だって委員長が前に言っていたのを私は何となく思い出していた。
「そうか・・・ならよかった。花音には伝えた?」
「まだ。おばあちゃんと今帰ってきたところで、携帯電話の確認してないんだ。」
「なるべく早めに連絡してやって。あいつ、すっごい心配してるから。」
あたしが知らせるとずるいって拗ねるしなと夕ちゃんは困ったように笑った。花ちゃんが拗ねると、可愛いけどなかなか機嫌が直らないからそうする。
「夕陽ちゃん、うちでなんか買っていくかい? 今なら友達思いな夕陽ちゃんの為に、おばちゃん一肌脱いじゃうよ?」
「い、いや、いいですよ。もう母さんが夕飯作っちゃったと思うし。」
にやにや笑うおばさんの近くには尾頭付きの鯛がある。夕ちゃんが引きつった笑顔を浮かべながら必死に辞退してる。夕ちゃん・・・お魚苦手なんだよね。切り身ならまだしも、丸ごとは不気味だから生でも焼いてあっても苦手なんだって言ってた。
もしかして商店街中に広まっているんじゃないかな・・・私のせいで。悪気はないの・・・口が、口が滑っちゃったんだよ、ごめんなさい!
「おや残念だ、魚食べないと頭良くならないよ?」
「あたしは花音や委員長と違って、どうせ頭悪いですよ。」
「わ、私も・・・。」
医学部の委員長と経済学部の花ちゃん。理系の二人に私達が敵うはずもない・・・うん、張り合うつもりもないんだけどね?
「それにしても、今回のは今までの中で一番危険だったな。」
夕ちゃんは病み上がりが一人で買い物とか怖すぎるとか言って、買い物に付き合ってくれる。メインは鮭の塩焼きに決定していたから、煮物とおひたし用の野菜と練り物を八百屋さんや豆腐屋さんで買った後、荷物持ちだけは頑として譲らない私に付き添いながら夕ちゃんはしみじみと言った。だって、大切な剣道の道具を持っているのに、それにプラスして荷物を持ってもらうのは嫌です。
「やっぱりそうなの?」
事故を起こした本人である私が首を傾げんながら聞くと、夕ちゃんは苦笑しながら手を振った。
「あたしも花音も間に合わなかったし、階段自体を結構昇ってたから・・・ほとんど一番上から、しかも頭から真っ逆さまだった。景色が全部スローモーションになったし。あんた、あそこであの男子が助けてくれなかったらやばかったんじゃない?」
当たり所が悪ければ死んでたかもしれない、と恐ろしいことを言う夕ちゃんの言葉に引っ掛かりを覚えた。
「助けた? 誰が?」
「翼、知らされてないの?」
お互い、驚いたような顔で見つめ合う。なんか照れちゃう。
「翼が階段から落ちた時、たまたま通りかかった男子が翼を受け止めてくれたんだよ。だけど、勢いだけは殺せなくてその男子も翼を抱えたまま何段か落ちたんだ。血も出てたから、養護の先生が翼と一緒に連れて行ってたな。」
どくんっと、心臓が鳴ったような気がした。私、そんなの、知らない。でも、少しだけ残っている記憶の断片に、確かに私以外の誰かの痕跡があった。
「その人・・・大丈夫だった?」
「いや、私と花音は次の授業の先生への伝言とか、翼の付添いとかで怪我の程度までは知らないけど。たぶん、花音なら知ってるんじゃないか? もしくは、養護の先生に話をすれば教えてくれるかも。」
少なくともあたしの知り合いじゃなかったし、うちの高校でもなかったと夕ちゃんは断言した。
夕ちゃんの言葉がぐるぐる頭の中を回っていた。どうしよう、その私を助けてくれた人が酷い怪我じゃないといいんだけど・・・。
その後は気も漫ろな私を夕ちゃんがとても心配してくれた。あんまりたくさんのことをいっぺんに考えるのって苦手なんだよね。大丈夫だよと言う言葉を何回繰り返したっけと台所で何気なく数えていた。
でも、そんな事をぼんやり考えていたからなのか、私は目の前の煮物の鍋から煙が上がっているのをじっと見つめていた。
「・・・! あわわっ!」
急いで火を止めたけど、その日のかぼちゃの煮つけは焦げ臭くて、ちょっと苦かった。うう・・・かぼちゃが・・・。
おばあちゃんに先にお風呂に入ってもらって、私はおうちの電話、親機の前にリビングの椅子を持って行く。うん、長期戦の準備万端です。時間は七時半、時間もオッケーです。では!
私は押し慣れた二つの電話番号のうち、一つを間違えないようにゆっくり押した。前に間違って違う所にかかっちゃって、でもそれに気付かなくて誰この人ってなって、すごくびっくりしたんだよね。
受話器を両手で支える。緊張しながら呼び出し音を聞いていると、五つコール音がした時、音が途切れた。
『はい、もしもし。早嵜です。』
目的の人が出ないことは予想済みです。そもそも、花ちゃんのおうちはご本人が出ることなんて稀ですから。
「もしもし、あの、及川翼ですが・・・」
『翼さん、ですか? 私、遠谷です。』
顔馴染みのお手伝いさんであることが分かった。電話だと、分からない・・・。
「あ、遠谷さん、こんばんは。あの、花ちゃんはいますか?」
『少々お待ち下さい。只今呼んでまいります。』
遠谷さんの声が途切れて、オルゴールのクラシックが流れてくる。何の曲だろう、聞いたことあるけど、名前が分からないよ。
なんだろうと必死に考えていると、不意に音楽が途切れて待ち人の声が聞こえてきた。あれ、これって待ち人って言うかな。私の方が待ち人かな。
『お待たせしたわね、翼君。花音よ。』
「翼です。花ちゃん、今大丈夫?」
時間帯は大丈夫だと思うし、花ちゃんは大学生になってから習い事はしていないって言ってた。唯一心配なのは弟くんと妹ちゃんのお世話を邪魔してるんじゃないかってところなんだけど。
『ええ、もちろんよ。電話が来るのを今か今かと待っていたわ。』
問題はないみたい。
『怪我は大丈夫なのかしら?』
「異常なしだよ。ちょっと擦り剥いたり、打撲があったりするだけだから。」
私の記憶では結構高くまで上ってたと思うんだけど、それにしてはちょっと転んだくらいしか怪我はなかった。そう報告したけど、花ちゃんの心配は拭えなかったみたい。
『痕になるようなものではないのね?』
「うん、縫ったりはしてないよ。」
そういうと、受話器越しに花ちゃんが安心した気配を感じた。心配させてたんだなって、ちょっと申し訳なく思う。
『それを聞いて一番安心したわ。女の子ですもの。』
「大袈裟だよ、花ちゃん。」
軽く笑ったら、予想外に花ちゃんが食いついてきた。
『そんなことないわ。翼君や夕陽が無頓着すぎるのよ。夕陽なんて、剣道の試合で六針も縫う怪我をしたのに消毒もろくにしなかったのよ? 信じられないわ、傷の云々前に化膿してしまったらどうするつもりだったのかしら。』
「うんうん、そんな時もあったね。」
しかも夏だったよね、それ。試合の最中、防具の間をすり抜けた相手の竹刀が夕ちゃんの首を掠めて、けっこう血が出た時は本当にびっくりした。観客席から見てただけなのに、ラバーマットの上に真っ赤な点が散った時は何が起こったのか分からなかった。その場が一時騒然となったって、花ちゃんは後で教えてくれた。
頸動脈に近かったらしくて、試合中断して病院に運ばれた夕ちゃんを涙目で見送った時の怖さは忘れられない。たぶん、花ちゃんもだと思う。
夕ちゃんは六針縫っただけで事なきを得たんだけど、その後傷をきちんと消毒しなかったり、タオルとかで気にせずこすったりしたのが花ちゃんにばれて、すっごく怒られてた。
その夕ちゃんの無頓着さと同列に並べられてしまった。私、そういうのはきちんとしてる方だと思うんだけどなぁ。
あ、そうだ、本題、本題。
「そう、花ちゃん。一つ聞きたいことがあるの。」
『何かしら?』
「私を助けてくれた男の子について・・・。」
私がそう口にした瞬間、受話器の向こう側の気配がちょっと重くなった気がした。あ、あれ? 私、言っちゃいけなかったの、これ?
『・・・もしかして、翼君は今日、夕陽に先に会っているのかしら?』
「・・・え。」
内緒にしていたことを見事に言い当てられて、私は受話器を持ったまま椅子の上で固まってしまった。指先まで真っ直ぐ伸びる。
『あの男の子は救急車では運ばれていないし、救急隊員の人と話をしたのは私よ。私は、階段から落ちたけど他の生徒に助けられたから一応大丈夫かもしれない、としか言っていないわ。』
鋭い。鋭すぎる。やっぱり私にはどうしようもできないよ、夕ちゃん! 花ちゃんが!
『ずるいわ。私だって翼君をとても心配していたのに、私は電話で、夕陽は生翼君を堪能したなんて・・・。』
クスッと笑った声が、聞こえた気がした。
『万死に値するわ。』
「──・・・」
何も言えずに受話器を握りしめたまま固まる。心なしか受話器が手から滑っているような気がする。あれ、手汗・・・かな?
『冗談よ。』
本気にしないでちょうだいと、ころころ楽しそうに声を弾ませる花ちゃんに、私は笑いながらそうだよね、当たり前だよね、と言うしかなかった。渇いた笑いをしばらく続けると、花ちゃんは急に真面目な声になって『それで、例の彼のことだけれど』と本題に入ってくれた。
・・・夕ちゃん、明日は花ちゃんに気を付けるべきかな。
『翼君を助けてくれた男の子については私も人に聞いてみたけれどちょっと分からなかったわ。個人情報の問題で養護の先生は私には教えてくれなかったの。おそらく、翼君本人が行けば教えて下さるんじゃないかしら。』
「あ、そうなんだ。」
個人情報云々が厳しいのは最近で、でも私はいまいちよく分からないから気にしていなかったんだけど、悪いことするわけじゃないのに秘密を守らなきゃいけないなんて面倒だなってちょっと思った。
でも、知られたくないことは誰にだってあるんだからって思い直す。
『外見の特徴だけを述べるなら、結構ほっそりした子よ。色白で、非力そうな子。手から血を流していたから、翼君を庇った時に打ったか擦り剥いたかしたのかもしれないわ。でも、それにしては出血量は多かったけれど。』
「だ、大丈夫だったかな?」
血がたくさん出ていたなんて、怖い。私はほとんど無傷だったから余計に。
『養護の先生が救急車を手配しなかったのだもの、大したものではないと思うわ。』
「うん・・・そうだね。」
むしろそうであることを願う。
「私、明日先生に聞いてみるよ。えっと、先生にお礼とかっているかな?」
おばあちゃんが本当に助けてくれた人にはお礼の品を持って挨拶に行くのよって言われたから言った言葉だったんだけど、それを聞いた花ちゃんが何故かクスクス笑ってた。
『養護の先生はそれが仕事で、労働に見合った給金をもらっているのだから挨拶だけでいいのよ。ただ、男の子には必要かもしれないわね。』
「お菓子とか?」
『そうね、小さなクッキーの詰め合わせ程度でいいのではないかしら。あまり高価な物を渡しても、相手に迷惑になってしまうから。』
うん、わかったと言うと、花ちゃんが少し心配そうに尋ねてくる。
『私も付いていっていいかしら?』
「うん、顔が分かった方がいいしね。よろしくお願いします!」
『ええ、お願いされたわ。』
花ちゃんの安心した声に私も安心する。きっと心配してくれているんだろうって思う。最近は、急に眠くなってしまうことも少なかったし、あんなに危ない目に遭うこと自体が少なくなっていたから余計。
じゃあ、また明日と挨拶をしてから親機に受話器を戻してから、ふと思った。
そういえば、去年の冬からちょっと大きな体調の変化が続いているような気がした。
次の日、登校中に馴染みのお菓子屋さんでクッキーの詰め合わせを買った私は、意気揚々と大学に登校した。何人かのお友達にすごく心配されたけど、高校時代からのお友達には心配させるなっておでこをよく叩かれた。うう・・・痛くないけど、痛い。
委員長も例外じゃない。むしろ一番顕著だった。
泉楠大学はキャンパスは広いけど、そのキャンパスが色んな棟に分かれていて、自分の学部以外では総合棟と言われる建物を使う。文系の私と夕ちゃん、理系の花ちゃんが会うのは大体ここなんだけど、それは医学部の委員長にも言えて、食堂で花ちゃんを待っていた私は出会い頭に委員長に手刀を落とされた。背が、背が縮んじゃうよ!
恨みを込めて見上げると、今まで見たことがないほど鋭い委員長の眼光にたじろいだ。ひぃっ、怖いよぅ・・・!
「お前さ、全然懲りてないよな。前に言わなかったか、階段ではなるべく誰かと手を繋ぐか手摺を持てって。」
「・・・ごめんなさい。」
「千々和が医学部の方まで全力で走ってくるもんだから何事かと思ったら、そのまま連行されそうになったんだぞ。話を聞けば軽い脳震盪くらいなのに大騒ぎしてくれて、おかげで次の授業は遅刻するは、注目されるは大変だったんだ。」
「・・・うう、夕ちゃんは私を思って」
「俺は医者の卵だが、まだ医者じゃない。そもそもお前の専門でもない。あの番犬二匹をきちんと躾けておけ。たまったもんじゃない。」
「・・・委員長にはご迷惑を」
「そして俺は委員長じゃない。」
弁明や謝罪を言葉半ばで両断されて、私は何も言えません。うう、機嫌が悪いよぅ。そうだよね、いくら高校からのお友達だって言っても、委員長は忙しい医学部生だから、怒られるのも仕方ないよね。
「あの・・・ごめんなさい。今度こそ気を付けて、委員長に迷惑かけないから・・・。」
「・・・まぁ、期待はしないでおく。」
委員長は特大の溜息を落とすと、何故か急に私を許してくれたようだった。ちらっと見上げると、仕方ないなって顔だったけど、今日初めて会った時の強張った感じがなくて、いつもの委員長だった。
「それで、それはどうしたんだよ?」
「これ? 菓子折りだよ。」
「・・・ああ、あいつにか。」
花ちゃん並に頭の回転が速い委員長だけあって、私が誰にあげるのか分かったのか納得してくれた。
「あいつ、ちょっと出血が多かったらしいけど、今日も来てたぞ。」
「え? 委員長、私を助けてくれた人知っているの?」
「千々和と早嵜の話は聞いてたから、目星はついてるけど?」
というか委員長じゃないと言う委員長に質問を続けようとした時、夕ちゃんと花ちゃんがやってきた。その二人を確認した委員長が、露骨に嫌そうな顔をした。
「・・・うわ。」
「なんだよ、委員長。その迷惑そうな顔。」
「本当、女の子に対して失礼だわ。」
ラフな格好でもかっこいい夕ちゃんと、お譲様らしく、でも甘すぎない可愛い格好の花ちゃんが並んでいると圧巻。とても現実にいる人とは思えないくらい素敵なのに、委員長はこめかみを押さえながらたじろいでる。どうしてだろう?
「俺はお前達を一度も“女の子”なんて思ったことはない。」
「あら、医学部様ともあろう方が性別の判定も認識もできないなんて。嘆かわしいわ、世も末ね。」
「安心しろ、お前達限定だ。」
委員長と花ちゃんが仲良くお話していると、夕ちゃんは肩を竦めながら私に話しかけてきた。
「はよ、翼。体調はどう?」
「こんにちは、だよ。夕ちゃん。」
「今日初めて会ったから、おはようでいいんだよ。」
いいのかな?
「元気だよ。」
「そ、ならよかった。今日はお礼言いに行くんだってな。あたしも行っていい?」
「うん、もちろん。」
「それから翼、花音が朝からちょっと機嫌が悪いのは・・・」
「・・・ごめんなさい。」
「やっぱりか。まぁ、いつものことだからな。」
夕ちゃんがそう開き直ってくれるからよかったけど、結局私は周りの人に迷惑ばっかりかけてるな。嫌だな・・・。
「そうそう、委員長が私を助けてくれた人のこと、知ってるって。」
「へぇ、なんだかんだ言いながらやっぱり使えるんだな、委員長って。」
「ね。」
・・・うん? あれ、今の同意してよかったんだよね? 色んなこと知っててすごいねって褒めたつもりなのに、委員長が私を睨んで来るよ、どうして!?
「いいんちょう・・・?」
「お前はもうちょっと読解力を身に付けて、人の話をきちんと吟味すべきだ。」
「ええっ、いつのまにそんな話になってるの?」
「誰が聞いたって今だろう。」
委員長が私の頭を鷲掴みにしてぐらぐらするから視界までぐらぐらし始めてた時、いきなり違う手が割り込んできて委員長を止めてくれた。
「・・・え?」
でも、委員長が私の頭を押さえているから視界が一方向に固定されてその人が見えない。見えないけど、視界の端で止めようとした夕ちゃんと花ちゃんが凍っているのは見えた。じゃあ、誰?
「・・・何してるんだ。」
「別に? こいつが余計なことしか口にしないから、少し頭の中をかんましてやったらよく回るようになるかと思ったんだよ。」
委員長の言葉が今まで聞いたことがないほど刺々しい。相手の人もとても攻撃的だけど、委員長は少し飄々として見せてる。でも、どうして委員長もその人も怖い声なんだろうって思っていると、相手の人が話を続ける。
「及川は二日前に階段から落ちたんだ。余計なことをするな。」
「お前には・・・ああ、関係なくないな。事故の当事者だもんな、渡辺は。」
そう言って委員長が私の頭を反対方向に向けさせる。身体も一緒に反転すると、苦虫を噛み潰したような表情の男の子が立っていた。
背が高くて、色白で、ほっそりしている。表情は苦しそうなのに、私が見上げると寂しそうな、あの微笑を浮かべていた。目の前にいるこの人が・・・
「慧介くんが、私を助けてくれたの?」
「・・・。」
目の前にいる慧介くんとは、入学式以来あまり会ってないから、かれこれ一ヶ月近くぶりの再会になる。あの時、メールアドレスも電話番号も聞かなかったから、連絡のつけようがなかったのだけど、すごい偶然だと思った。
でも、私の問いかけに慧介くんは困ったように首を傾げるだけで、断言はしてくれない。仕方なく夕ちゃんと花ちゃんを振り返ると、二人は何故か驚いたような表情で微かに頷いた。委員長もどうしてか驚いたようにしているけど、そろそろ頭から手をどかしてくれないかな。重いよ。
「知り合いなの、翼君?」
花ちゃんが呆然としている委員長や夕ちゃんを代表して尋ねて来たので、うんと頷く。
「前にも助けてくれたの、去年の冬に。」
「・・・もしかして、見知らぬ高校生ってこの人なのか?」
夕ちゃんの確認に慧介くんを振り返る。
「うん、ね、慧介くん。」
「・・・ああ。」
でも慧介くんはバツが悪そうにワイシャツに包まれた左腕を撫でた。
「・・・ふぅん、なんだ、つまらない。」
何故かさらに不機嫌になった委員長が、私の頭に置いていた手で髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でくり回した。
「うわぁっ! ひどいよ、委員長!」
そう言った時には頭を解放されて、委員長がいた方を振り返ればそこには誰もいなかった。は、早業っ!
「あいつ、なんであんなに不機嫌なんだ?」
「さあ、分からないわね。」
夕ちゃんが向いている方を見ると、委員長が足早に食堂を出ていくのが見えた。花ちゃんはそんな委員長には目もくれず、四方八方に跳ねた私の髪に手櫛を通す。委員長の、男の子のごつごつした手じゃない、ふわふわの優しい手に撫でられて気持ちがいい。
「えへへ。」
「翼、花音に甘やかされてないでミッションを達成しないと。」
あ、そうだった。
私の髪が大方元通りに戻ったから、私が慌てて慧介くんに向き直る。慧介くんが居なくなってたら大変だって思ったけど、慧介くんはちゃんとそこにいてくれた。でも、ちょっと不思議そう・・・というか面食らった感じの表情でそこに立っていた。
「あのね、慧介くんを探していたの。」
「俺を?」
「うん、この前は助けてくれてありがとうございました。これ、お礼です。」
小さな紙袋に入ったクッキーを、お辞儀をしながら差し出すと慧介くんはとても困惑顔になった。
「別に。気を遣わなくても。」
「でも、慧介くんも怪我したって聞いたし・・・あの、大丈夫?」
「大したことない。ちょっと打って、擦り切れただけだ。」
「でも、血がたくさん出てたって。」
「ちょっと血小板が少なくて、血が固まりにくいだけだ。及川が気にする事じゃない。それより、階段は気を付けろよ。」
それ以上聞くなって感じで話を打ち切られたから、どうしてもちゃんと怪我のことを聞けなかった。ちょっと愛想なく、でもお菓子は断らずに受け取ってそのまま立ち去ろうとした慧介くんが、一歩引く前に花ちゃんが前に出た。
「ありがとうございます、あの時翼君を助けて下さって。」
「・・・。」
見知らぬ女の子にお礼を言われたから、慧介くんはとても困惑しているように見えた。
「あ、あのね慧介くん。この子が早嵜花音ちゃんで、この子が千々和夕陽ちゃん。私の親友なの。花ちゃん、夕ちゃん、この人は渡辺慧介くんで、同い年なんだって。」
「ごめんなさい、自己紹介を怠ってしまって。」
「よろしく。」
「・・・ああ。」
二人が私の両側に立ったからなのか、何故か慧介くんは居心地悪そうに半歩引いたようだった。まぁ、二人は迫力あるからね。
「中学からのお友達なの。そういえば、慧介くんは委員長と仲良しなんだね。」
「・・・委員長?」
「あ、うん、今さっき私の頭をぐしゃぐしゃにしていった・・・」
・・・あれ、名前。委員長の名前ってなんだっけ?
「・・・あれ? 委員長の名前ってなんだっけ?」
「・・・あたしも思い出せない。」
夕ちゃんを振り返ると私と同じような答えが返ってきた。だから、私達の中で一番の知識人である花ちゃんを、夕ちゃんと一緒に見詰めると、まるで女神様みたいな神々しい笑顔と対面した。
うん、私は急いで視線を足元に投げる。
「残念ながら、私もよ。」
「嘘だろう。」
信じられない花ちゃんの言葉と、「私もよ」の「よ」の字にかかるほどの即答で花ちゃんの言葉を叩き落とした夕ちゃんに私は慌てて顔を上げる。
案の定、とってもいい笑顔をした二人が仲良く微笑みあっていた。笑ってるのに雰囲気が怖いよぉ。
「・・・安藤のこと?」
「ああ、安藤雅人だったわね!」
慧介くんが尻込みした感じでそう言うと、花ちゃんが今まさに思い出したと言うように顔を輝かせた。でも、慧介くんも夕ちゃんもなんだか白い目で花ちゃんを見ているような・・・どうしてだろう?
「思い出せてよかったわ。」
「うん、でもずっと委員長って呼んでたから分かんなくなっちゃうね。」
私が同意すると、どうしてか慧介くんが押し黙った。
「・・・。」
「・・・三年間、クラス委員長やってたんだ。だからあだ名がそのままなんだよ。」
慧介くんの無言の圧力に夕ちゃんが注釈を入れると、慧介くんははぁと小さく溜息をついた。
「俺は医学部で、安藤とはそのよしみで知り合ったんだ。」
「慧介くんって医学部なの? 頭いいんだね。」
素直に感心していると、横からすごい言葉が飛んできた。
「自分が病院にかかりそうな感じだけど。まさに医者の不養生ってやつね。」
「花音!」
夕ちゃんが諌めると、花ちゃんが笑顔で「でも患者さんだって具合の悪そうな医者には看てもらいたくないでしょう」って皮肉を口にしていた。
「・・・まぁ、その通りだな。もっとも、初対面の人間にそういう言葉をかけるような礼儀知らずよりはましな気がするな。」
「そうね、ごめんなさい。私、根がとても素直なものだから。」
「素直、ね。時と場を弁えないと諸刃の剣だな。」
「ご忠告ありがとう。でも私、世渡りは上手だから。」
「・・・それは自慢になってない。」
夕ちゃんが険悪な二人に溜息をついた。私はどうして慧介くんと花ちゃんが皮肉を言い合っているのか分からなくて、どうしていいか分からない。
慧介くんがちょっと眉を潜めてから、私を見下ろしてきたのでどうしたらいいのか分からなくなって首を竦めると、ちょっと怖い表情を解いて無表情に尋ねてきた。
「及川、ちょっといいか?」
「え、うん。大丈夫だよ。」
慧介くんが歩き出したのを見て、横の二人を見上げようとすると夕ちゃんが背中を押した。
「行って来い。私達のことは気にしなくていいから。」
「う、うん。」
私はそのまま慧介くんを追って食堂を後にした。
「花音、あんたらしくない。」
これ以上一緒にいさせると何を言い出すか分からない花音と渡辺を引き離して、花音に文句を言う。
こいつはいいとこ育ちで頭の回転だって速い。その場その場の顔の使い分けもうまいのに、何故か翼を助けた渡辺には素で当たりが強かった。最初から友好関係を作る気もない、敵と見做しているように思えた。
それを指摘すると、さっきの攻撃性が嘘のように鳴りを潜めて、すこし穏やかさが戻ったように苦笑した。
「そうね、らしくなかったわ。今までは少しオブラートに包んで言えていたのにね。」
「いや、初対面の人間に遠回しに皮肉言ったり、悪意をちらつかせたりするのはどうかと思う。」
「仕方ないじゃない。私の性格だもの。」
その開き直りにも近い理由は何なんだ。こいつ、妙に子供っぽいとこがあるんだよな。翼みたいな天真爛漫って感じじゃなくて、ませた小学生みたいなところ。
「そりゃあたしも身を以って知ってるけど、今のはないだろう。あからさまだし、なによりあの男子は二回も翼を助けてくれたんだ。あたし達にとっても有り難い相手じゃないか。」
それに今までだって翼があたし達の知らない人、男性に助けられたことがなかったわけじゃない。その時お礼に付いていった時だって、花音がこんなことになったことはない。
だからどうして渡辺だけこんなに目の敵みたいに攻撃するのかあたしには分からなかった。
「そうじゃないわよ、夕陽。」
「何が?」
いきなり否定されて、あたし自身訳が分からなくなった。
「彼は・・・どうしてかしら。私達の大切なあの子を・・・」
「・・・?」
そこで一旦言葉を切った花音を覗きこむ。まるで本人もどう言っていいのか分からないと言った困惑の表情をしていた。だから言葉が見つかるまで続きを待っていたけど、花音は結局続きを口にはしなかった。その代わり、妙に納得が行ったような表情で笑う。どうも自嘲的な笑顔に見えたけど。
「・・・翼君の言った通りよ。」
「何が?」
「とても・・・寂しそうな目をするのね、彼。翼君を見る時。」
「そうか?」
あたしは数瞬前に出逢ったばかりの男子を思い返してみた。花音の皮肉にも動じない、無表情が板に付いた小奇麗な顔の少年。青年というよりは少年という印象を強く受けたのは、身長だけが高くて男子にしてはとてもほっそりしていて、色白だったからだろう。アンバランスさが成長途中の少年を思わせたし、全体的にひ弱そうなイメージだった。
医者の不養生とのたまった花音の発言も、あながち間違っているわけではない。
でも、そんな表情をしていただろうかと無言で問いかけると、花音は聞き取りにくいほどの小さな声で吐き捨てた。
「ええ、本当に・・・不愉快だわ。」
ああ、なんだか雲行きが怪しいなと、あたしは天を仰がざるを得なかった。
慧介くんに連れられて食堂を出てからずっと歩きっぱなしだった。お昼時の今、大体の学生は食堂かラウンジ、あとはキャンパスの外の繁華街にご飯を食べに行くから、キャンパス内の空き地は比較的空いていた。だってこの季節、まだちょっと寒いし、日差しが強いから外に出ようなんて子はあんまりいない。あ、私は全然気にしないけど。
慧介くんが座ってろって言うから適当なベンチに腰掛けて待っていると、慧介くんが缶ジュースを手に戻ってきた。
「どっちがいい?」
「じゃあリンゴジュース。いくらだった?」
お茶とジュースを差し出されて、微炭酸のジュースをとると慧介くんがちょっと驚いたような顔になった。でもすぐに無表情になると、手を振って私の隣に座った。隣って言っても人一人分くらい開けてるから、ちょっと遠い気がするけど。
「このくらいいいよ。菓子もらったし。」
「それはお礼だよ。お礼のお礼って聞いたことない。」
お財布を出そうと肩にかけている鞄の口を開こうとしたら、それなら菓子も返却するって言われた。人質ならぬ物質をとられてる!
私が愕然としている間にも慧介くんはお茶を飲む感じはしなくて、手の中でそれを弄んでいる。慧介くんの手の中で回る缶に視線を落としていると、隣から声がかかった。
「及川は・・・あいつらと仲がいいのか?」
「あいつらって・・・花ちゃんと夕ちゃん?」
「それと安藤。」
うん、まぁ、その質問は結構色んな人に聞かれるから慧介くんが疑問に思うのも、心配するのも分かる気がする。私自身はそう思わないけど、客観的に見て夕ちゃんと花ちゃんと私は全然タイプが違うし、二人は他を圧倒するような個性を持ち合わせているから。委員長のことを聞かれたのは、きっとさっきの悪ふざけが原因だと思う。
どこから話そうか少し悩んで、自分の手の中にある普通のアルミ缶の半分くらいしかない大きさのジュースに視線を落としながらゆっくりと口を開く。あんまり急ぐと、何を話したか自分も忘れてしまうし、同じことを何回も話す羽目になるから。
「私ね、ちょっと変わった体質なの。」
隠す必要もないし、慧介くんは二回も巻き込んじゃってるから話しておいた方がいいよね。予防策もあんまりできないし、おこっちゃったら結局周りの人のお世話になるんだし。
「先生はナルコレプシーじゃないかって言ってるんだけど、実際にはそういうのと違うの。慧介くんは睡眠障害って知ってる?」
「少しは聞いたことがある。」
「そっか。」
私の周りに睡眠障害の人は少ない。もしかしたら気付いていないだけで、不眠症の人とかいるのかもしれないけど、私はその中でも睡眠異常のほうだから、不眠症とか睡眠中の異常行動とかとは区別されてる。
「私は場所とか時間とか関係なく眠っちゃうの。だから道端でとか階段で急に倒れたり、踏み外したりするの。そういうのをナルコレプシーって言うんだって。でも私、他の人と違って意識を失う時間とかすごく長いの。」
「・・・。」
「幼稚園とか小学校の時は全然起きていられなくて、まともに学校に通えるようになったのは中学校からだったの。」
ナルコレプシーと診断されているけど、実際にはナルコレプシーじゃない。そう、加藤先生は言っていた。睡眠障害に変わりはないし、今は前よりも普通に生活しているけど、それでも勉強面とか生活面、特に日常の安全面で支障が出ているのは確かで。
「勉強とか登下校とか、すごく大変だった。お友達の作り方も分からないからずっと一人で・・・寂しかった。」
小学校高学年になっても一人だけ違う教室で先生と一対一で授業をしていた。たまに眠っちゃう私を先生が疑いの目で見ていたのを知ってる。病気だって診断書が出ているけど、ただの居眠りじゃないかって言われたことだって何度もあった。傷付かなかった・・・わけじゃない。
「そんな時に、夕ちゃんが私を助けてくれたの。」
中学に入ってすぐの頃に倒れた私を夕ちゃんが抱えて運んでくれたし、以来寂しくてへばりついていた私に悪態を吐きながらも夕ちゃんは絶対に傍にいてくれた。
「そのうち、花ちゃんが私の勉強を見てくれるようになって」
最初は夕ちゃんと花ちゃんがすごく仲が悪くて、全然そりが合わなかったのにいつの間にか仲良しになって、夕ちゃんと一緒に花ちゃんに勉強を見てもらうようになった。私の家から一番近い高校に二人も行くって言っていたから、三人で一緒に入りたくて勉強を頑張った。
小中であまり行けなかったお祭りとか遠足とか、二人が計画して一緒に行ってくれた。外に出ることが怖かった私を、二人が連れ出してくれた。
「高校で委員長と仲良くなった時、委員長に副委員長に抜擢されてとっても困ったけど、委員長なりに私に役割を与えることでクラスのみんなと馴染めるようにしてくれたんだよ。たまに暴力的だけどね。」
花ちゃんがそう言ってた。病気だからって壊れ物を扱うような学校で、ちょっと気を付けるだけで私を普通に扱ってくれたのは委員長が初めてだった。花ちゃんや夕ちゃんとは違う、普通のやりとりが遠慮なくできるのも委員長がきっかけだった。他の人を怖いと思わなくなったのは、世界は悪意だけじゃないって思えたのは、皆のおかげで。
「すごく癖があるから誤解されたりもするけど・・・でも、とっても優しいんだよ。」
そう言って笑いながらちらっと慧介くんの方を見ると、慧介くんは缶を弄るのをやめて真っ直ぐ前を見詰めていた。真剣で強い眼差しに言葉を間違っていたかと思って慌てそうになる時、慧介くんが私の方を向いて笑った。あの、寂しそうな笑みを。
「及川は、今が楽しいんだな。」
「うん、楽しいよ。」
「そうか・・・よかった。」
ふわっと、慧介くんがちょっと笑ってくれた。寂しそうじゃない、安心したような笑顔に私は胸がぽかぽかしたみたいに感じた。あったかくて、気持ちがいい。
でも、ふと気になることが会った。
「慧介くんは?」
「え?」
「慧介くんは大学、楽しい? 今、楽しい?」
不意を突かれたように、慧介くんは無表情ながらも呆然とした表情で私を見詰めた。
慧介くんは私の交友関係を聞いて何故か安心したみたいだけど、私は慧介くんのことをちっとも知らない。学部も違うから、遠くから見て知ることもできない。
「私、花ちゃんと夕ちゃんと一緒にいるのが楽しいの。ちょっと意地悪だけど、しっかりしろって委員長は私を体質抜きで叱ってくれる。他のお友達も優しいし、楽しいし、たまに嫌だなってこともあるけど全部がそうじゃないよ。だから私、ちょっと苦労することもあるし、皆に迷惑かけたり、心配させたりすることも多いけど、今が楽しいの。」
まるで私の交友関係の外にいるような安堵の表情が、ちょっと怖かったの。
「慧介くんといるのも楽しい・・・と思う。」
「なんで断定じゃない?」
「だって、慧介くんのこと、私ちっとも知らないもん。」
何処出身なのか、どんな趣味があるのか、どこに住んでいるのか、どんなふうに学校生活を送っているのか・・・全然知らない。だから、慧介くんの人となりも全然分からない。
「よろしくって入学式の時に言ったでしょう? お友達だから、もっと慧介くんとお話したり、遊んだりしたいよ。それで慧介くんも楽しいって思ってくれたら嬉しいし、この町を好きだって思ってくれたらいいなって思う。」
私の大好きな人たちが、大好きな物がたくさんあるこの町で、あなたと出会えたことを、とても嬉しく思っているの。
「・・・おいか」
「あ、でも、その前に花ちゃんと夕ちゃんと委員長とも仲良くなるのが先だね。」
「・・・できるようには思えないがな。」
そう言いながら、慧介くんはやっぱりちょっと寂しそうに笑って、私の頭をぽんぽんって撫でてくれた。白くて細くてちょっと冷たい、でも大きな掌だった。
【私を守ってくれるヒト:終】