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久しぶり、初めまして

『久しぶり、初めまして』


「寝るな、及川。」

 そんな声と共に側頭部を高速で通過して行った物があった。いや、通過と言うのには語弊がある。その重くて硬くて長細い物体は、私の側頭部を強打して行った。

「・・・っっっっっっ!」

 イタイ・・・痛すぎる・・・。

 悲鳴も出せないまま、痛む頭を抱えて懐いていた机から顔を挙げると、辞書を手にした委員長が私を見下ろしていた。辞書は委員長の手の中でトンッ、トンッと規則正しいリズムを取っている。凶器ですか、その辞書はっ!?

「痛いよ、委員長っ!」

「大事な会議だっつってんだろう。何寝てやがるんだ、シバクぞ。」

「ひぃっ!」

 本気でないと知っていても怖いです。

 目が潤んでいるのを自覚しながら見上げると、委員長は素知らぬ顔で私の前にバサバサと大量の紙束を置いた。

 交互に十字を描くように置かれたそれは、今度の卒業式の要項だった。正直、嫌な予感しかしない。

「・・・委員長。これは何でしょうか?」

「ふっ、喜べ及川翼。俺がお前に直々に仕事をくれてやる。」

 そう上から目線で言った委員長は、不敵な笑みを浮かべて私に向かって指を立てた。

「今日中にこのプリントを順番にまとめ、ホチキスで留めて職員室前の三年ロッカーに入れておけ。もちろん、全クラスだ。」

 無茶な注文に私は血の気が一気に引いて行くのを感じた。

「む、無理ですっ!」

「無理じゃねぇよ。ペナルティーなんだからやるんだよ。」

 そんな殺生なっ!

 泣きついても委員長は全て聞かなかったことにして部屋を出て行ってしまった。

 私は途方に暮れながらクラス会で使われていた多目的室を見渡した。

 蛍光灯が照らし出す人工的な白い明かりが余計に虚しい。古い茶色の机と新しい薄黄土色の机が不規則に並んで斑模様を作っていた。

 部屋には私しかいない。たぶん、クラス会が終わって皆帰ってしまったんじゃないかな。私が居眠りしているのを見て、きっと委員長が皆を早々に追い払ってしまったんだ。前にも同じ事をやられたから分かる。

 ひどいよぉ・・・と思いながら、窓の外に目を向ける。外はまだ晴天で、青い空が広がっていた。

 季節は夏。夕方でも五時の今ならまだ明るい。

 でも、目の前の八クラス分のプリントを一人でまとめるのはつらすぎるよ。絶対無理だよ。でも、やらないとまた辞書でひっぱたかれそう。

「・・・うぅ。」

 私は小さく唸りながら、用意されていたプリントを順番に机の上に広げて、ホチキスを片手にくるくる机の周りを回り始めた。

 多目的室に響くのは、私の足音とホチキスを閉じる重い音、それから紙が擦れる微かな音。

 静かな校舎に自然と作業に没頭して行く。

 そうやって紙束を冊子に変えていく。原稿達がやっと半分くらいになった時、手を伸ばしたプリントの上に黄色の大きな付箋が貼ってあった。

『ペナルティー終了。本日は此処まで。』

 男の子の字とは思えない綺麗な文字の後に、委員長の名前が書いてあった。

「うぅ、終わったよう・・・。」

 うりゃーと伸びをすると、首がごきごき鳴った。かなり凝っていたみたいで、凝って変な感じだった気持ちがすっきりした。

 外は紺色になりかけて、下校時刻をとっくに過ぎていた。

 慌てて残りのプリントを最初と同じように重ねて、出来上がった冊子をその横に置いて教卓の中に何故か置いてある文鎮で飛ばないように固定してから教室を後にした。

 夕暮れ時、校舎を飛び出すように急いで昇降口に向かうと、そこには委員長が待っていた。

「委員長・・・?」

「おっせーよ、及川。帰んぞ。」

 それだけ言って、委員長は私に背を向けた。それで、私が終わるのを待っていてくれたんだと思うと、自然に頬が緩んだ。

 嬉しい。厳しいけど・・・委員長はいつもこうやって気を遣ってくれる。夕ちゃんや花ちゃんはそう言うと顔を顰めるけど、私はそう思うのにな。

「待ってよ、委員長!」

 足早な委員長に追いついて隣を歩くと、眼鏡をかけた気真面目な表情がマフラーに埋もれていた。寒い中で待っていてくれたなら教室にいればいいのにとか、手伝ってくれてもいいのにとか思わないわけじゃないけど、おばあちゃんたちと違って委員長は私の体質に合わせて生活してくれない。それは私を普通の生徒として扱ってくれてるって自惚れておく。だって、嬉しいんだもの。

「寒いね。」

「もう十二月末だからな。」

「休みが明けたらすぐにセンターだもんね。」

「へぇ、お前がセンターを意識するなんて思わなかった。」

「失礼だよ、私だって受験するもん。」

「俺は受験よりもお前が寝ないか心配だ。」

「そ、それは・・・無きにしも非ず。」

「日本語、使い方間違ってるぞ。」

 そんなやりとりを十分前後繰り返していると、委員長がふと立ち止まった。街灯に照らされた、舗装された歩道で立ち往生する。

「どうしたの?」

「・・・悪い、俺これから塾に行かないとなんだ。」

「あれ、今日、そんな日だっけ?」

 委員長は頭がいいけど、医学部に行きたいとかですごく勉強していたのは知ってる。ほぼ毎日塾に行ってすごいなって思ってるけど、まだ七時にもなっていない。確か今日は塾のない日だっていつも言っていたし、あったとしてもいつも七時半から始まるって言ってるのに。

「面談、入れてた。」

「そっか、早く行かなくちゃだね。気を付けてね!」

 そう言って別れようとしたけど、委員長は少し躊躇ったみたいに視線を彷徨わせた。

「その・・・大丈夫か?」

 その言葉で、何に対しての躊躇いか分かったから私は笑った。

「大丈夫、真っ直ぐ帰れば家はすぐだよ。まだ全然、猶予がある。」

「・・・悪い、こうなるんだったら居残りさせるべきじゃなかった。」

 本当に後悔しているらしかったけど、逆算して委員長に事前に言わなかった私も悪いから気にしない。それに、まだ三十分以上時間はある。

「大丈夫だって。委員長こそ、遅れちゃうよ?」

「・・・分かった。また明日。」

「うん、また明日ね!」

 そう言って手を振ると、委員長は元来た道を走り始めた。元々、委員長の塾と私の家は進行方向が逆だから、もしかしたら委員長は面談に遅れてしまうかもしれない。

 大丈夫かな・・・そんなことを思いながら、私は商店街の方向に向かって歩き始めた。だんだん人通りは多くなって、往来する車の数も帰宅時間を過ぎたとは言っても多い。

 今日の夕飯は何だろうかとのんびり歩いていたけど、私は油断していた。予想以上に疲れていたのか、それとも人の少ない時間を長く過ごしたのに気を緩めて街中を歩いていたからか、原因は分からないけれど委員長が心配していたことが起こってしまった。

 不意に、私は強烈な眠気に襲われてふらついた。

 あ、これは大変だ、完璧に寝てしまう。花ちゃんも夕ちゃんも近くにいないのに、怪我をしてしまう。そう思ったけどもう瞼が開けていられなくて、そのまま全身から力が抜けていった。

 その時、私を誰かが支えてくれた。

「──っ!」

 何か、名前を呼んでいるようだったけれど、それは私の名前ではなかった。


──目が覚めたのは、それから一時間後だった。

 私の鞄には私の病気というか体質のことと、私の家の住所が書いてあるパスケースが下がっていたし、最近はマシになったとはいえ、調子が悪いと一日に何回も倒れる私は町では結構有名だったから、病院に担ぎ込まれることはむしろ少なかった。

 商店街も近かったし、知り合いの人は多い。目を覚ますまでおうちで休ませてくれるお店のおばさん達も多いから、むしろ自分の通学路は恵まれているよねって夢現に思った。

 今回は下校が遅かったからおばあちゃんが迎えに来てくれているかもって思ったけど、目が覚めたら自分の家でも病院でもなくて、商店街近くにある見慣れた公園だった。

「・・・えっ?」

 これは初めての体験だった。ちょっと戸惑う。そしてちょっと寒いし痛い。背中が。

「気が付いた?」

 知らない男の人の声だった。鞄の上に知らないマフラーを敷かれて寝かされていたベンチの上で首を巡らせると、その人は私が寝かされているベンチの、隣のベンチに腰掛けていて呆れたような顔をしていた。

 無表情でぶっきらぼうなその口調に、ちょっとびくついてしまう。見かけたことがない、男の人・・・というより、制服を着込んだ男の子。

「街中でいきなり倒れるから何かと思えば、熟睡してるし。初めてだぞ、そんな人間。」

 そう言って近くの自販機から買って来たらしいあったかいお茶を私に渡してくれた。あ、玉露入りの緑茶。私の好きなお茶。この人も好きなのかな。

「あ、ありがとうございます。」

「家が分からなかったからこんなとこに寝かせといたけど、あんた、大丈夫?」

 住所が書いてあるパスケースが鞄に下がっているし、地図も書いてあるのに分からないって事はこの町の人じゃないのかな?

「あ、はい。いつものことなので。」

「ふぅん、日常茶飯事なら誰かと帰れば。危ないから。」

「今日は居残りしてて。」

「へぇ、大変だな。」

 特に何とも思っていないように言った男の子は、ちょっと寂しそうな眼をした高校生みたいだった。何年生かは分からないけど、この辺では見ないブレザーの制服。寒いのに、上着は着ないのかと思っていたら、彼は私に手を差し出した。え、何ですか。

「えっ?」

「目、覚めたんなら返して、俺のコートとマフラー。」

 その時初めて、私は自分の上にかかっている自分のものじゃない大きなコートに気付いた。マフラーだけじゃなくて、コートまで貸していてくれてたらしい。あうう、口調はひどいけど親切な人を疑うなんて・・・私の馬鹿っ!

「わ、ごめんなさい。ありがとうございますっ!」

「別に、好きでやったことだし。」

 素っ気なくもそう言って、私から受け取ったコートとマフラーを手早く着ると、足元に置いてあった革鞄を拾い上げて脇に抱える。手袋をしていない手をポケットの中に入れて、私を見下ろしてきた。

 一方の私は枕代わりにされていた自分の鞄を手にとって、揃えて置いてあったスニーカーを履いて、ベンチから慌てて立ち上がった。

 何かお礼をしたいけどどうしようと思っていると、男の子が不意に口を開いた。

「・・・あんた、家にはちゃんと帰れるのか?」

「えっ?」

「そんなどこでも寝られる体質なんだろう? 家まで無事に帰れるの?」

「大丈夫です、一回寝たら二時間は寝ませんから!」

「ふぅん、そう、じゃあ気をつけて。」

「あ、あの、ありがとうございました!」

 すぐに立ち去ろうとした男の子にお礼は無理だと判断する。辺りは真っ暗でもう帰る時間かもとか、早い周期で眠くなってるから私の方が危ないとか思うとこう言うのが精いっぱいだった。

 お茶のボトルと一緒に手を振ると、振り返った男の子が少し目を見張った。そして、ちょっと笑って手を振り返してくれた。

「・・・。」

 微かに笑ってくれたその笑顔は何故か泣き出してしまいそうで、つられて顔が歪んだのが分かった。なんだか、悲しい笑い方だった。胸が張り裂けそうなって言えばいいのか分からないけど、切ないと感じられるものだった。

 男の子は踵を返すと、駅の方向に足早に去っていった。その後ろ姿が小さくなるのとは逆に、私を探していたらしいおばあちゃんが懐中電灯を片手に私の名前を呼んだ。


 次の日学校に行って教室のドアを開けると、私の目の前には仁王立ちになった千々和夕陽ちゃんがいた。同い年のはずなんだけど、夕ちゃんは背丈が百七十センチを超えていて、モデルさんみたいにかっこいい。先生達に疑われちゃうくらい綺麗な茶色の髪はショートカットで、ちょっともったいないなっていつも思う。

「翼、あんた昨日街中で倒れたって本当?」

 おはようよりも早く、夕ちゃんは聞いてきた。お話が早いなぁ、どこで聞いたんだろう。一人で帰ったことは・・・たぶん自分の席に突っ伏している委員長を締めあげたんじゃないかな。・・・大丈夫かな?

「おはよう、夕ちゃん。うん、でも、大丈夫だったよ。」

「見知らぬ男に助けられたというのも、本当なのかしら?」

 夕ちゃんとは違う、白くてほっそりとしたまさにお嬢様って感じの動作で、早嵜花音ちゃんが現れた。艶々の黒髪が背後から垂れ下がってくるのをいじるのはすごく好きだったりする。だってふわふわ、さらさらでいい匂いがして気持ちいいんだもん。

 こちらもおはようより早く、私の背後からぎゅってしてくれる。頭の上に乗った顎はちょっと痛いけど、私は上を向きながら声をかけた。

「おはよう、花ちゃん。うん、高校生っぽい人だったよ。」

 それを聞くと、夕ちゃんも花ちゃんもすごく嫌そうに顔を顰めた。どうしてだろう。

 夕ちゃんと花ちゃんは中学時代からの私の親友で、私の何処でも寝ちゃう体質を心配してくれる。いつも一緒に帰っているけど、昨日は私に委員会の仕事があったこと、夕ちゃんは道場に、花ちゃんはおうちに早く帰らないとってことで、一緒に帰れなかった。

 そんなことを思っていると、私の頭の上で夕ちゃんと花ちゃんの言葉の応酬が始まっていた。

「やはり私が一緒に帰るべきだったかしら。」

「花音は久しぶりの家族の団欒だったんだろう。むしろあたしが道場を遅刻してでも一緒に帰るべきだった。」

「何をおっしゃっているの、夕陽。昨日は大切な試合の打ち合わせだったのでしょう。外されでもしたら翼君が悲しむわ。」

「そっちこそ何言ってるんだ。お前の両親が帰ってくるって聞いて一番喜んでた翼の笑顔と友達思いな優しい心を踏みにじるつもりか。」

「その言葉、そっくりそのまま返して差し上げるわ。」

 お互いがお互いを大切に思っているのはいいことだと思うんだけど、なんでこうも二人は少し喧嘩腰なんだろう。

 言葉のキャッチボール・・・ううん、言葉のドッチボールをしていた夕ちゃん達だけど、最終的には終わったことは仕方ないって事で収まったみたい。

 花ちゃんの腕の中の私を、夕ちゃんは苦笑しながら撫でてくれた。竹刀の持ち過ぎで胼胝や肉刺だらけの手。硬くて嫌だって夕ちゃんは言うけど、私は夕ちゃんのこの手が好き。だって夕ちゃんの努力を表した手だもん。自然、顔が緩む。

「でも、よかった。見知らぬ人間でも親切な人間に助けてもらってさ。変な事されたんじゃないかって気が気じゃなかったし。」

「そうね、翼君は人を惹き付けるような不思議なオーラがあるから。」

 その言葉にちょっとどきっとする。花ちゃんも夕ちゃんも色々な意味で頭がよくて、何だか知らないけどすごく勘がいい。別にやましいことを隠しているわけじゃないんだけど、他の人には簡単に言えないから自然と秘密ができてしまう。結果、夕ちゃん達に隠し事をしていることになるんだけど・・・うう、心苦しいよ。

「どうした、翼?」

 私の心中を知ってか知らずか、夕ちゃんが私を覗き込んで来る。綺麗な茶色の瞳は、私の奥まで見透かすように澄んでいて、見惚れた。真っ直ぐ見詰められるのは照れるけど、何だか自分を間違いなく見つめてもらえているみたいで胸がぽかぽかする。

 そんな風にちょっとした幸せに浸ろうとした時、胸の奥のぽかぽかの中に小さく冷たい欠片があるのに気付いた。それは昨日の男の子を思い出させる。

 昨日助けてくれた男の子は、澄んだというかすごく悲しそうな目をしていた。冬をそのまま体現したみたいだと思う。

 悲しい目。泣き出してしまいそうな、でも見ている方が泣いてしまいそうになる、そんな笑い方。

 あんな笑い方を、私は今まで見たことがなかった。儚い笑顔なら、いつも傍にあるのに。

「・・・なんだか泣きそうな顔してるぞ?」

「あら、本当だわ。どうしたの、翼君?」

「ううん、昨日助けてくれた男の子のことを考えてたの。」

「この町の人ではなかったのでしょう?」

「たぶん。高校生みたいだったけど、制服もこの辺じゃ見かけたことないやつだった。」

「どんな制服だったの?」

「ブレザーだった。暗くて濃い緑色の。オレンジ色のネクタイで、ワッペンとか校章も見たことがなくて・・・。」

 薄暗い中でも確認できた特徴を挙げていくと、夕ちゃんと花ちゃんが顔を見合わせる。

「この辺は高校自体、そんなにないからな。」

「ひとつだけブレザーの学校は知っているけれど、そこは無難に紺色のブレザーだったはずよ。」

 花ちゃんはこの辺りの地主の長女で、地域のことは一番よく知っているから、花ちゃんが知らないのならたぶん県外であっていると思う。

「県外かな?」

「この時期にか?」

「でも、大学があるじゃない。そこを下見に来たのかもしれないわ。」

「休みが明けたらセンターだぞ? こんな時期に進路を変更するか?」

「事情というのはひねり出せばいくらでも出るものよ。私はその人ではないから分からないわ。」

 したり顔で言う花ちゃん。そんなものかと顔を顰める夕ちゃん。

 私達は今高校三年生の冬を迎えていて、もうすぐ冬休みに入る。冬休みが開けたらすぐにセンター試験で、それが終わったら私立大学、国公立大学の入試と雪崩のようにテスト付の日々が続く。

 そんな現実味のないことがもう目前まで迫っているんだなって思うと、寂しさよりも今は緊張の方が強い。

「あ、先生来たな。」

「席に着きましょうか。」

 夕ちゃんと花ちゃんに促されて使い慣れた机に向かうのも、授業中の眠気とか、先生の話に耳を傾けるのも、お昼休みにふざけ合いながら生徒でひしめき合う廊下を歩くことも、混んでおしくら饅頭状態の購買を掻きわけることも、放課後に部活とかに急ぎ足で歩くことも・・・そんな自分の日常の終わりが、すぐそこまで迫っているんだってことが、私にはうまく理解できない。

 理解できていないのにただ流されているだけなのに、目標があるみたいに私達は進むしかなくて。そんなどこか強制力を持った生活の中に、いつの間にかあの日のことを忘れて行ったんだと思う。

 小さな出会いが日常と忙しい受験の波にさらわれていくのを、惜しいとも思わない私達がいて、大人と言われる人たちはそれが当たり前だと責めもしないで、私達はただ目の前にある大きいと思っている壁を超える事しかできなかった。

「寂しいなって思う暇もないね。」

「なんだ、及川は寂しいのか?」

 放課後になると卒業式の準備だったり、センターやら本試に備えた対策だったりをしていると、たいてい夕ちゃんか花ちゃんが相手をしてくれるけど、委員長は二人がいない時に私に構ってくれる。それも、私が感じるよく分からない寂寥感に。

「うん・・・委員長は寂しくないの?」

「男が寂しいなんて言ってられるかよ、お前が感傷的なんだろう。」

「・・・そうかな、感傷的かな?」

「少なくとも、季節が過ぎ去る度に寂しいって言ってる奴が感傷的じゃないとは思えないけどな。」

 委員長は私の感覚が分からないって言う。花ちゃんも。

 でも、夕ちゃんは頷いてくれる。

「そうだな、あたし達は季節と一緒に動いているはずなのに、何だか季節の方が走り抜けて行っちゃうみたいに感じるな。やり残したことがあるように感じるんだけど、どうしても残していかなくちゃいけないんだよな。なんか、上手い言い回しがないけどさ。」

 人間は人間自身の世界があって、その世界の決まりやルールに従わなければ生きていけないから、一度でも流れから外れると戻るのにすごく大変な思いをするから、私達は社会がお手本として用意した次の居場所を作らなくちゃいけない。

 型に嵌まった、つまらない居場所だと思うけど、誰もが反対するには無自覚すぎる波に呑まれていく。それが、日本の高校三年生の繰り返し。

「でも、終わったら達成感よりも虚しさが残るもんだよ。」

「うん?」

 委員長は分からないっていうけど、こう言う。

「この高校(ばしょ)にいたいって思ってるから。今までの三年間がずっと続いていくように思ってたのは普通のことのような気がしていたから、次の場所に行くのはあんまり嬉しいとは思えないな。」

 受験に勝ちぬくのとは違う意味でだぞって委員長はそんな風に言って、私のおでこにデコピンを喰らわせる。爪がおでこの表面を引っ掻いて予想以上に痛かった。

 ずっと続いていくと思っていたのに、この場所に居たいのに、私達はその場所を追い出されるような形で次の居場所に駒を進める。

 高校三年生の冬が怒涛の勢いで走り去っていったのに、春はすごく遅い足取りで、でも着実に近付いているなと思っていた。


 そして私は、気付いたら大学の入学式を迎えていた。


 桜舞う入学式って憧れるんだよねって話していたけど、今年の入学式には桜は間に合わなかった。寒過ぎた冬のせいで硬いままの蕾を見上げる。葉っぱも花もない枝を仰ぎ見れば、空の青さばかりが際立った。春っぽくない、寒々とした景色だった。

「・・・入学式だよ、夕ちゃん。」

「ああ、あっという間だったな。」

 おばあちゃんが用意してくれた新品のスーツを着て、お化粧をして、背伸びみたいなハイヒールを履いて、私は今年の春に入学を果たした泉楠大学の校門前で夕ちゃんと並んでいた。正門前の大仰な『入学式』という看板から少し離れた壁に張り付いて、写真を撮っている家族をぼんやり眺める。

「翼のおばあちゃんは?」

「今日は配達があるから、少し遅れるって。夕ちゃんは?」

「母さんが何着てくるかで迷ってるから、やっぱり遅いんじゃないか?」

「そっか、大人は大変だね。」

 そんな他愛のない会話をして、待ち人が来るのを待つ。私達が通っていた高校から泉楠大学に入学する人は、近場だから意外と多い。今も、正門を潜り抜ける新入生の中に何人か顔見知りを発見する。手を振ったり、振られ返したりをさっきから何回やったか分からない。

 隣に佇む夕ちゃんも新品のパンツスタイルのスーツだけど、すごく様になってる。かっこよさが当社比二倍だと思う。そう言うと、夕ちゃんは照れたように唇を尖らせてから私から視線を逸らしながら言った。

「翼の方が可愛いぞ、なんかもう初々しい感じが。」

「・・・褒めてないよ、夕ちゃん。」

 馬子にも衣装だなって委員長にデコピンされたのはさっき、同じ大学の医学部医学科にストレート合格した委員長は、農学部に入学した私の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

 途中で夕ちゃんに髪型が崩れるだろうって怒られてたけど。

「花音はまだかな?」

「花ちゃん、花粉症だからね。」

 花ちゃんは毎年、ひどい花粉症に襲われて、この時期は特に体調を崩しやすい。たぶん、今日は自動車で家族の皆と来るんじゃないかな、ってぼんやりと思っていると、なんだか見覚えのある人が坂を上ってくるのが目に入った。

「あれ?」

「ん? どうした、翼?」

 夕ちゃんの声がした時、少し俯き加減だったその人がふと視線を上げた。

 私もその人も、目を少し大きく見開いていたと思う。

「ちょっと待ってて、夕ちゃん。」

「ん、分かった。」

 小首を傾げる夕ちゃんに断ってから、私は少し下り坂になっている校門前の道を慣れないハイヒールで足早に下る。

 私は記憶の中の人物だという確信を持って、足を止めているその人のところに走り寄った。傍によると、その人は私よりも頭一つ分背が高かった。

 見上げたその人の、寂しそうな眼差しに胸が痛いと泣いた気がした。

 私はちょっと心配になりながら、その人に話しかけた。

「覚えてます? 前に助けてもらったことがあるんですが・・・」

「・・・覚えてる。」

 その男の子は、やっぱりどこか寂しそうな目をしながら、私に笑いかけてくれた。

「私、及川翼です。今年からこの泉楠大学の一年生になりました。」

「・・・俺は」

 そこで男の子は一旦口を閉ざした。泣き出しそうな顔が苦しそうで、ちょっと笑っているのに泣いてしまいそうで。私はそんな何かを知っているような気がした。

「俺は渡辺慧介。今年から、この大学に入った。よろしく。」

「あ、同級生! よろしく!」

 手を差し出すと、ちょっと驚かれた。あんまりこう言うことしたことなかったから、してみようと思ったんだけど、変だったかな?

「・・・よろしく。」

 でも、すぐに私の手を握り返してくれる慧介くん。私の手より大きな手は白くて、細くて、冷たくて、男の人とは思えないような綺麗な手だった。でも、強く私の手を握り返してくれた。

「ふふ、よろしくね、慧介くん!」

 その時、私の手を握る慧介くんの手が強張ったような気がした。

 でも、それは一瞬のことで、慧介くんは何事もなかったかのように手を振りほどいた。ちょっと、寂しいって感じた。

「ああ、よろしく・・・及川。」

 あの日の出会いは、一瞬の出会いだった。

 偶然で、私には日常茶飯事で・・・でも、あの日の出会いがあったから、新しい場所で貴方に会えたんだと、思ってもいいかな?

 そんな春の入学式の出来事。


【久しぶり初めまして:終】


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