それでも宇宙は回ってる。
週初めの朝、何気なく見た本日の最高気温は、これで最高なのかと呆れるほどだった。
電車を乗り継がなければならない私立よりは自転車で通える公立が良いと、二年前に必死になって合格した高校。その少し色落ちしたサブバックに新品のカイロを三つ四つ放り込み、私は玄関を飛び出した。
視覚化され、どんよりとした白い霧のようになったため息が視界を覆う。
私の心をそのまま映したような白濁した濃霧は、しばらく逡巡するように漂ってから、やがて大気に溶けるように消えていった。
このどうしようもないぐずぐずとした感覚を私が味わっているのは何も学校が嫌いだからではない。
今一つ晴れない、まさに霧のような心持で教室の立てつけの悪い戸を開けると、アイツはいた。
他には一人二人しかいない教室の隅の方の席で、一人何やら図鑑を眺めている。
この狭い教室、無駄とは知りつつも足音を忍ばせて席に着いたが、案の定アイツは声を掛けてきた。
「よう」
自分に向けられた挨拶をそうと知りながら無視することもできず、結局、何を言っているのか自分でもよくわからない言葉をボソボソと返した。
アイツはそれでも満足気に小さく笑い、視線を手元の図鑑に戻した。
ホッとした瞬間、一言。
「バラ星雲って知ってるか」
ほら、来た。
アイツ―――藤村星也は、いわゆる天文バカだ。
「恒星からの光でさ、星間物質が赤いバラみたいに輝いて見えるんだ」
藤村は子供のように目を輝かせ、机に立てた天体図鑑の写真を指差している。
今度こそしっかり無視を決め込み、自分の席に座る。
藤村もこちらがバラ星雲になど興味を示していないことを悟ったのだろう。それっきり言葉を掛けてくることは無かった。
まったく朝からどうしてこう不機嫌にならなくちゃいけないのか、とぼやきながら、授業の準備をするためにカバンの中からプリントファイルを取り出した。
ガサッ。
ふとした拍子にとりおとし、プリントが床にばらまかれる。
慌てて広い集めていると、一枚のよれたプリントが目に留まった。
『進路希望調査』。
堅い字面を精いっぱい飾るように右隅にプリントされたワードアートの人形が、くしゃくしゃになって泣いているように見えた。
先週の終わりに配布され、来週中に提出しろと言われていたのをすっかり忘れていたのだ。
今日はまだ月曜。金曜までは時間がある。
そうは思ったけれども、私はとりあえず質問を埋めていくことにした。
『問一:あなたの将来の夢はなんですか?』
数十秒間は考えていたと思う。
やがて大きなため息が吐き出され、私は考えることを放棄した。
もやもやする。なんとなくすっきりしない。
そんな気分から逃れるため、私は無機質に見えた数学のテキストとノートを取り出して『進路希望調査』を隠すように机に置いた。
数学は、まだいい。
答えが目の前に、手の届きそうな場所にある。
ただそれに向かう道に少々厄介な手順があるだけで、決められたゴールは存在している。
だけど……。
昼休みの図書室は普段より人が多いように感じた。
貸出を受け付けるカウンターに座り、暇つぶしに『今月のオススメ』の棚に置いてあった小説をパラパラとめくる。
図書委員なんてやっていて一番幸せなのはこの時間だろう、とぼんやり考えながら、ふと視線を上げると、藤村がいた。
「これ借りたいんだ。いいかな」
そういって藤村が差し出したのは、医学部関連の本。
理由はわからないがなんとなく拍子抜けした私は、
「医者になるの。てっきり天文学者になるんだと思ってた」
しまった、何を言っているんだろう、私は。
藤村が何を志していたって私には全く関係が無いではないか。
顔が紅潮する―――。
「ああ」
藤村はちいさく微笑んだ。
寂しげだった。
「父さんがさ、夢だけじゃ食っていけないって」
へえそうなんだ、と軽く流してしまうつもりだったが、なぜか声が出なかった。
無言でバーコードを読み取らせる。
その後のことはなんとなくぼんやりとしていて、はっきりとは覚えていない。
気が付くと、夜の11時を時計の針が指していた。
午後の授業を受け、帰宅し、夕食をとり、机について数学の宿題にとりくみ、うとうととするまで動作はしていたもののはっきりとした記憶が残っていない。
考え事をしていたからだ。
いや。
私は首を横に振った。
考え事なんて、していない。断じて。
部屋の窓の向こうには、冬の天球を飾る星々が輝いている。
「あれ……アルデバラン、かな」
残念なことにおうし座はどの星をつないで描かれるのかまでは想像できなかったが、オレンジ色のあの恒星がいつか聞いたアルデバランだという事は不思議なことに理解できたのだ。
―――と。
「あれ?」
手元で携帯電話が忙しく震えていた。
慌てて手に取り確認すると、藤村からだった。
「あ、起きてたんだ」
私の家から徒歩3分、市が奮発してくれたのか少し高めの滑り台のある、広めの公園。
そのブランコにアイツは座っていた。
「寝ていると思ったのなら、メールするな」
「そうだね」
藤村は笑っていった。
全く、こいつの考えることは少しもわからない。
『今夜は晴れてて星が綺麗だ。いま公園にいるよ』
何所の公園か、だとか、起きてたら来てみないか、とか、肝心なことは少しも書かれていなかった。
それでも私がやってきてしまったのは、うん、星が本当に綺麗だったからだと思う。
でも、だ。
「何でいきなりメールなんか」
「書いてたろ、月が綺麗だからって」
「嘘。小学校のときから、星を観察し始めたら止まらなくって私になんか声もかけてくれなかったじゃない」
藤村は苦笑した。
「バレちゃったか。実は、言いたいことがあってさ。ほら、昼間の事」
昼間?と私は首をかしげた。
「進路だよ、進路」
ああ、と私は小さくうなずいた。
「医者になるって話」
「うん……」
藤村はブランコから立ち上がると、滑り台に上り始めた。
彼の頭上には無数の星が輝いている。
滑り台のてっぺんに立った彼は、星たちのオーケストラの指揮者のようだった。
「ベテルギウス…それにあれはリゲルかな」
藤村が指で星空を指でなぞった。
その途端、夜空に大きな人影が見えた気がした。
「それにシリウスと、プロキオン」
他の星とは輝き方が違う二つの星を藤村が指差す。
これは知っている。冬の大三角―――。
「あのね」
藤村は夜空を見上げたまま言った。
「僕は医者になるけど、夜空を諦めたわけじゃないんだよ」
「え?」
「それに医者になるのは嫌々なわけじゃあないしね」
「だって、お父さんが……」
「確かに夢だけじゃ食べていけないって言われたけどね。でも僕は初めから医学部志望してたし。患者さんに感謝されてる父さんを見てたらからかな、小さいころから医者になるのって夢だったんだ」
なんだ。
私は急に脱力感に襲われた。
なんだ。
結局、夢がどうとか進路がどうとか、悩んでたのは私だけだったんじゃないか。
アイツはとっくに夢に向かって進んでいて、私は足踏みどころか準備運動もしていない。
帰りたいと思った。
この場所にいると押しつぶされそうだった。
そうして、空を見上げたままの藤村に背を向けたときだった。
「ガリレオって知ってるよね」
肩越しに振り返ると、藤村はやっぱり上を見上げていた。
「物理学者……だっけ」
私は藤村に背中を向けたまま答えた。
「いや、うん……そうなんだけどね」
藤村は何か言いたげだったが、どうも何かためらっているようだった。
そのしゃべり方が妙に気になったので、私は再び藤村に向き直った。
「何?」
「うん……『それでも地球は回っている』!って、聞いたことあるよね」
「宗教裁判だっけ。地動説の」
その言葉には聞き覚えはあった。有名な言葉のはずだ。
当時は宇宙が地球を中心に回っている天動説が「信仰」されていて。
そんな中、自分の確固たる意志で世間に立ち向かった言葉―――。
今の私はそんな言葉にすら嫉妬していた。
数秒の間。
藤村はそっと口を開いた。
「でもさ、その言葉って完璧じゃないよね」
私は驚きとともに藤村を見た。
「宇宙だって回っているよ。世界だって、星だって回ってる。今日見た星空は昨日見た星空とは違うんだよ。新しい星も、消えている星だってあるかもしれない」
それにね、と藤村は言葉をつなぐ。
「今見えている星が、今宇宙にあるとは限らないんだよ。何百万年も昔の星の姿が見えている星だってあるんだ」
私は黙って藤村の声に耳を傾けていた。
いや、黙っていたというより、言葉が上手く言えなかった。
かすれた―――。
「だから、さ」
さんざんためらった挙句、藤村は星空を見上げたまま言った。
「『それでも宇宙は回ってる』」
藤村がどうも照れ隠しに顔を背けていたらしいことが、ようやく分かった。
私は小さく笑っていた。
「お、可笑しいかな」
いつの間にかこちらに向き直っていた藤村が顔を赤らめながら言う。
私はなんと返そうか一瞬考え、一番しっくりきた言葉を返した。
「ありがとう」
それでも宇宙は回っている―――。
昨日までの世界と、明日からの世界はきっと全く違うものなんだろう。
そしてその全く違う世界を作っていくのは星たち。
そして地球にいる私たち。
だから、まずは自分から変わっていくしかないんだ。
私はそう自分に言い聞かせ、しわくちゃのプリントにペンを走らせた。