Midnight
夜中一時、電話が鳴る。寝ようか寝るまいかのちょっとした時間に、決まって俺の携帯が鳴る。
着信相手は見なくても分かる。高校入学と同時に買ってもらってそれっきり、2年以上使っている古いケータイ。耳に当てて声を聞いて、決まったセリフを俺は言う。
「今、いい?」
行き先はいつもの公園。包帯とハサミをコートのポケットに突っ込んで、俺はこっそり家を出た。肌を刺すような冬だった。
「Midnight」
付き合ってもうすぐ2年になる彼女がいる。1年の冬に告白されて、俺はその娘の事を特別好いていたわけではなかったけど、線の細い可憐なクラスメートの告白に応えた。ファーストキスはそこで捧げた。
長い髪をポニーテールに束ねて、銀縁眼鏡をかけた彼女。付き合って1ヶ月も経たないうちに、彼女の魅力に堕ちていった。他人を好きになるという事はこんなに簡単なことなのかと、彼女に言ったら笑われた。クスリ、と、小さな笑いだった。
俺はバスケ部で、彼女は文芸部。帰りが遅い俺を、いつも文芸部の教室で待ってくれた。「汗くさいなー」と言いつつ、ぴっとり寄り添う彼女の頭を撫でた。
こんな毎日がずっと続くと思っていた。少なくとも卒業までは、ずっと。
時々喧嘩もして、それでも仲直りして。映画館や遊園地よりも、2人で公園で話すのが好きだった。彼女はよく考える人で、大人びた考え方に驚いた。社会の在り方、人間の思想……。俺が今までスルーするような出来事1つ1つに、きちんと意見を持っていた。
肉体関係は無かった。お互いに意識したこともあったけど、そういう事をするよりは、色んな話をしたりするほうが楽しかった。キスと、せいぜい体のつつき合いくらい。脱がした事も脱がされた事も無い。
ずっと続くと思っていた。少なくとも、俺は。
「……よう」
誰もいない公園のベンチ。彼女は俯いて座っていた。パジャマにコートを羽織っただけの格好。俺は黙って隣に座った。コートをかけてやった。
眼鏡の向こうに見える瞳は透き通っていた。綺麗な黒真珠みたいな瞳。彼女が見る世界は、俺にはよく分からない。
「ごめんね、こんな夜遅くに」
「いいよ全然。どーせもうちょい勉強するつもりだったしさ。センター近いし、お前と同じ大学行きたいしな」
「判定、どうなの?」
「……C。お前はAだろ? まあ、絶対受かるから、がんばろうぜ」
取り留めの無い受験生話。夜中の逢瀬はいつもこうして始まって、俺はいつも彼女が切り出すのを待つだけ。俺からは切り出さない。いつからか産まれた、暗黙のルール。
「あの、ね……」
「ん」
「また、切っちゃった、から……。迷惑かけちゃってるって、分かってる、けど、やっぱり私、あなたじゃないと、無理……」
今日もぽつりぽつりと始まる。受験が近づくにつれ、こうなる頻度が増している。C判定の俺がお気楽でいるのにA判定の彼女が追い詰められているという状況は奇妙ではあるものの、受験ストレスだけが、彼女をこうも苦しめているわけではない。
彼女の右手を取る。左利きの彼女の右手には、赤黒い傷が刻まれている。真新しいものからは、未だに血が流れていた。
「……汚いよ? それに、醜い」
「お前に醜いところなんて無い。手ぇ貸しな。包帯あるから」
公園には街灯が少ない。
雪も降らない冷たい夜、俺は彼女の腕に、白い包帯を巻く。彼女の肌は青白い。唇が小さく、震えていた。
付き合って初めての夏。俺は内心興奮していた。
「なあ、海行こうぜ」
夏場なのに何故か長袖の薄い上着を着ている彼女に、俺は何気なく尋ねた。1学期が終わる直前の土曜日。ファミレスで昼ご飯を食べながら、次のデートを提案しただけ。
「え……?」
「いや、海だよ海。付き合って初めての夏じゃん? せっかくならさー、って」
彼女の手が止まった。フォークを宙に浮かべてしばらくそのままで、先端が震えているのに俺は気がつかなかった。
「や、やだ」
「は?」
「嫌。私、海とかプールとか、ダメなのよ」
「え、お前もしかして、カナヅチ?」
「そんなこと無いわよ。でも、やだ」
「何でだよ……。何? 水着着るのがそんなに嫌?」
「うん」
強く強く頷く彼女。俺の視線は無意識に、彼女の胸元へ向かっていた。膨らみが無いとは言い難い。下着姿も(事故で)見たことがあるが、水着が嫌と悲観する事は無いと思う。
それにそういうのは気にしていない。彼氏として彼女の水着姿を見るということは万歳三唱モノであるし、彼女とならどこへ行っても楽しいからという、のろけた感情というものもある。
「とにかく、嫌なの」
「そうか? べっつに悲観するようなプロポーションとは思わないけどな」
「ちょっ、何よその意見! あー分かったー。私の水着姿見たいから海とか誘ったんだー。やーらしーんだー」
「すみませんその通りです」
「あ、そうなの。素直ないい子ね」
フォークの先のパンケーキを口に運ぶ彼女。にこやかな笑みが戻っていた。話題は流れたけど。
それからはフツーの会話だった。色々と考える彼女の意見にそれなりに返していたから、きちんと聞き役にはなれていたと思う。唐突に彼女が止まるまで。
「どした?」
「あの……、ね」
ドリンクバーのおかわりを机に置いた俺に、彼女が突然切り出した。深刻な声色。俯き加減で隠れる瞳。思わず背筋を伸ばす。
「私ね、謝らなきゃいけないこと、あるの」
「は……?」
「謝らなきゃ、っていうよりは、隠し事してて……。そういうの、やっぱりよくないかなぁって、話そうか話すまいか迷ってたんだけど……。夏まで続いたから、きちんと話そうって、思えたの」
「あのさ、ちょっと待ってついていけない。隠し事? 俺に?」
コクリと頷く。俯いてしまった彼女の表情は、だから分からない。
「じゃあその事はさ、俺とお前が付き合う上で、今明かさなきゃいけない事なのか? ずっとお前の胸の内に秘めたまま……、ってのは、無理だったのか?」
もう一度、コクリ。それから彼女は唐突に席を立って伝票を手にして、つかつかとファミレスを出ていこうとする。あまりの出来事に反応すら出来なかった。
「お、おい!」
「ここじゃ、嫌だから……。いつもの公園が、いいな」
拒否を許さない言葉の色に、俺は再び戸惑った。知らない彼女を見た気がした。
「すごく、不安になって……。将来の事とか、受験の事とか、人間関係とか……。それで、考えちゃだめ、考えちゃだめ、って思えば思うほど、手は止まって、それで……」
「お前は考え過ぎるところがあるからな……。いい事だとは思うけど、それは同時に悪い事でもあるよな」
彼女の右手を包帯で巻いて、背中をさすりながら話を聞く。時刻は午前一時半。遠くで車の音がする以外は、限りなく静かな夜。
「……勉強しなきゃって思って、机に向かってもだめで。やらなきゃ、やらなきゃって思ってても、だんだん無理かな、無理かなにすり代わってて。そしたら、死んだらこんなこと考えなくて済むなーって思って、そして」
「切っちゃう、って事か」
「ごめん……」
細い背中は震えていた。寒さからではなく、怯えや背徳感、罪の意識がそうさせている。こんな背中にのしかかる負の感情を、少しでもいいから、取り除いてやりたかった。
包帯にうっすらと赤い染みが浮かぶ。今日の傷は全部で7。そのうち1つが結構深くて、止血するのにてこずった。
「最低だよね、私……」
「……そんな、こと」
「好きな人、悲しませてる。冬の夜中に呼び出して、独りよがりの悲しさの中に巻き込んで……。最低以外の、何者でもないよ、私は」
「そんなこと、ねぇよ」
「ううんそうなの。あなたには分からない。ひどい言い方だけど、分かってほしいって思ってるのに、分かってもらえないって私は知ってる。なのにそれが寂しいから、私は、あなたを利用して……っ!」
ぽろぽろと右側で涙を零す。左手で眼鏡の上から目を覆って、右手で俺の左手をぎゅっと握った。か細い握力に胸が締め付けられる。何回目かの逢瀬なのに、俺は何も出来ていない。
腕を切る気持ちも死にたいという感情も、世界で1番好きな人のものなのに、分からない自分がもどかしかった。
セミの鳴き声が響き渡る公園で、彼女はコーラをおごってくれた。唐突にファミレスを飛び出してここまで来る間に会話は無く、ひょっとして別れ話ではないのだろうかと一人不安になって、ベンチに腰掛けたら彼女が俺の手をにぎりしめたから、安心した。
薄手の長袖から除くうなじには汗が何粒も浮かんでいる。暑がっている事は明白だった。
「脱がないのか?」
「……夏場に長袖って、変だって分かってるわ。クーラー苦手だからって言えば店内で着てても違和感は無いけど、外だとやっぱり、おかしいよね」
「まあ、な。フツーに36℃近くあるし、俺なんて素っ裸でいたいくらいなのに」
「やめてよ……。でね、話、なんだけど……」
彼女の左手の握力が増す。震えも感じる。彼女の腹のうちが分からなかったが、相当怖がっているのかと理解出来た。
そして俺の中にも恐怖が芽生える。別れ話なのか転校話なのか具体的には分からないけれど、今までの関係が消えてしまうことは確かだと分かって、彼女の手が俺の手から離れて、諦めた。
「脱ぐから、見て」
ぷちんぷちんと長袖の上着のボタンを外す彼女。白い清楚な夏服を見るのは多分初めてで、彼女の左腕は白磁のように美しかった。日焼け1つ無い色に思わず見とれる。
差し出された右腕は数限りない傷痕で埋め尽くされ、赤黒く硬くなっていた。痛々しい切り傷の山。呼吸を、忘れた。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
会話が続かない。差し出された右腕の傷痕の山に、投げ掛ける言葉が見つからない。
そして今まで抱いていた彼女へのイメージに、ひびが入って崩れ落ちた。清楚で可憐でかわいい彼女。一緒に愛し合ってプラトニックな関係で、一緒にいるだけで幸せだった。
何も気付いてやれなかった。こんなになるまで悩む彼女を、俺はカケラも、見つけなかった。
「引いた……、よね……」
「びっくりした」
「おかしいよね、こんなの。全部自分でやったの。辛い事があったりしたら、あなたに頼るんじゃなくて、こうして、こうやって、切って、耐えてた」
「……そうか」
「言えるはずがなかったの。フツーならドン引きして、もしもあなたがそうだとして、これが原因で別れる事になったら嫌で……。だからやめなきゃって思ったりしたけど、無理だった……」
彼女が顔を俺の胸元に埋めて、大きな声で泣き始めた。
公園を通る人の視線に曝されないよう、傷だらけの腕を撫でながら俺は彼女を受け止める。こんなに無く彼女を見るのは初めてだった。早く見たかった。
「なんでよ! どうして私はこうなのよ! おかしいじゃんこんなの! やめたいよ! やめたいのにとまらないのよ! 痛いのに苦しいのに辛いのに!」
「辛い気持ちなら、俺が支えるよ」
「それが嫌なの! だって、私、あなたのこと好きだから! 好きでいてほしいから! こんな姿、見せたく……」
「お前がどうであれ、俺がお前を支える。俺はお前の彼氏だから、辛さの半分なら、支えてやれる。そのくらい出来る。やらせてくれよ、なあ」
彼女の身体にこんながさついた部分があるなんて知らなかった。指でなぞる右腕はがさがさで、彼女の傷を埋めたいと思えた。
「私はっ! 私は……。嫌われるんじゃないかって……、だから……!」
「切りたくなったら電話しろ。切ってしまったら介抱してやるから。バカだなお前。俺がこのくらいで、お前を嫌うわけねぇだろ」
ぎゅっと彼女を抱きしめる。震える身体も細い背中も傷だらけの右腕も、全部全部全部をぎゅっと抱きしめて。
彼女の鳴き声が一層増した。俺はずっと彼女を抱きしめ続けて、ばれないようにこっそり泣いた。身を切られる思いだった。
「……落ち着いたか?」
「うん……、大丈夫……」
彼女が泣き止んだ頃を見計らって尋ねたら、そんな答えが返って来て安心した。そっと彼女がもたれ掛かって来て、だから俺は肩を抱き寄せた。
冬の空は美しく、吐く息は白い。このベンチで彼女が長袖を脱いだ事を、隣のこの娘は覚えているだろうか。
「やめられない、のよね」
「いつかそのうち楽になる。切らなくてもいい日が来るさ。それまでずっと支えてやるし、それから先も、な」
「……来るといいな、そうなる日が。そうなったらその時は、一緒に海、行こうね。胸も少しは大きくなったんだから」
「ああ。だから、さ」
頬をなぞりながら俺は彼女の瞳をしっかりと見た。いくらか光の灯った黒真珠に、俺の表情がぼんやりと浮かぶ。頼りがいのある男には見えないけれど、支えていけたらいいと思う。
「死ぬなよ」
「……うん」
「お前が死んだら俺は泣くよ。お前がいない世界なんて想像出来ない。好きで好きで仕方ないから、だから頼む、死ぬな」
「…………ありがと」
うっすらと微笑んで、俺と彼女はキスをした。唇が離れて、「大好き」と言われて、支えていけると、俺は思えた。