第四話
森を抜けると遠くに魔王城が見える。漆黒の城壁が陽光に照らされ禍々しい存在感を放っている。
「あれが魔王城か……」
舞が緊張した面持ちで呟く。サスペンドも険しい表情で正面を見据える。ここまでの道程で幾多もの困難があったがこれから先は更なる試練が待ち受けていることだろう。
「行くぞ」
サスペンドの合図と共に二人は駆け出す。ついに目的の地へ到着したのだ。
魔王城の巨大な門前に立った瞬間、冷たい風が二人の体を包み込んだ。 舞は魔法束を握りしめ、胸の奥まで息を吸い込む。サスペンドもまた、剣の柄を確かめるように力を込め直し、鋭い眼差しを門へと向けた。
閉ざされた門は沈黙を守り続けている。しかし、その静けさは自然のものではなく、嵐の前の不気味な静寂のように、二人の心をざわつかせた。
「……来るぞ」
低く押し殺した声でサスペンドが警告を発した刹那、門の上から影が飛び降りる。
地を揺るがすような重音と共に着地したのは、かつて相対したナガーラだった。巨大なハンマーを肩に担ぎ、余裕を漂わせる笑みを浮かべている。
「やっぱり来たわねぇ……。あの時の借り、きっちり返させてもらうわよ」
彼女はハンマーを構え直し、獲物を狩る獣のようにゆっくりと間合いを詰めてくる。 舞とサスペンドは互いに目を合わせ、言葉を交わさずとも戦意を共有した。
サスペンドは一歩前へ踏み出し、剣を構えて敵を迎え撃つ姿勢を取る。舞は後方に下がり、魔力を束ねる詠唱を始める。
「今回は最初から全力で行くわよ~!」
ナガーラの叫びと共にハンマーが唸りを上げて振り下ろされる。サスペンドは素早く横に飛び退き避けたが地面が大きく揺れた。粉塵が舞い上がる中、ナガーラは容赦なく追撃に出る。何度もハンマーが振り回されサスペンドは防戦一方となる。
「くっ……!」
サスペンドは剣でハンマーを受けるたびに腕が痺れそうになる。このままでは押し切られると判断し反撃の機会を窺う。
一方で舞は必死に集中力を高めていた。以前よりも強力な魔法を使うための精神統一が求められる。
「まだなのぉ~? 早くしてくれないと終わっちゃうわよ~」
ナガーラは余裕の表情を崩さず挑発するように言い放った。サスペンドは剣を盾代わりにして耐え忍んでいるものの次第に体力を奪われていく。
「もう少し……!」
舞は必死になって魔力を練り上げていた。体中から汗が噴き出し意識が朦朧となりかけたその時ついに準備が整ったことを実感する。
「サスペンドさん! 離れて下さい!!」
舞の声に反応してサスペンドは一気に距離を取った。それを確認した瞬間舞は両手を前に突き出すようにして魔法を解き放つ。
「嵐よ! 暴れよっ‼」
強烈な竜巻が発生しナガーラを包み込む。猛烈な風圧と真空波が彼女を襲い衣服や皮膚に無数の切り傷を作る。
「ぐぅ……こんなものぉ~!」
ナガーラは苦痛に顔を歪ませながらもハンマーを振り回して抵抗しようとする。しかし凄まじい勢いで吹き荒れる風により思うように身動きが取れない様子だった。
その隙を突いてサスペンドが一気に距離を詰めた。彼の瞳には確固たる決意が宿っていた。
「これで終わりだ!」
サスペンドの渾身の一撃がナガーラの胴体を捉えた。鋭い斬撃によって深い傷跡が刻まれ鮮血が迸る。彼女は思わず膝をつき動揺の色を見せた。
「そんなバカな……まさかこんな奴らに……!」
悔しさと驚愕が入り混じった表情で呟く彼女に対してサスペンドは静かに剣を納める。
「終わりだ。おとなしく降伏するんだな」
その言葉に対してナガーラは何も答えず唇を噛むばかりであった。やがて諦めたように肩を落として武器を投げ捨てるのであった。
ナガーラとの激しい戦闘を終えた舞とサスペンドは、疲れた体を引きずりながらも魔王城の内部へと足を踏み入れた。
「ここが……魔王の城か……」
サスペンドは険しい表情で周囲を見渡す。城内は薄暗く、壁や床には不気味な紋様が刻まれていた。
「気をつけてください……何か嫌な感じがします……」
舞も警戒心を露わにして魔法束を握りしめる。二人が慎重に廊下を進んでいくと、突如として複数の影が彼らの行く手を阻んだ。
「来ましたよ!」
舞の声とともに現れたのは異形の魔物たちだった。鎧を着た骸骨や翼を持つ獣など様々な姿の怪物たちが一斉に襲いかかってくる。
「やるしかない!」
サスペンドは剣を抜き放ち先頭の骸骨騎士を迎え撃つ。鋭い斬撃で相手の武器を弾き飛ばしその隙に腹部を貫く。
同時に後方では舞が魔法で援護していた。彼女が放つ氷柱が正確無比に魔物の頭部を打ち抜いてゆく。
「まだまだ!」
次々と湧き出てくる敵に対処するために二人は協力して対応してゆく。サスペンドが前線で直接攻撃を行う一方で舞は遠距離から強力な魔法で支援するという理想的な連携プレイを展開していた。
やがて最後の一体を倒し終えると二人とも肩で息をするほどの疲労感に包まれていた。
「ふぅ……これで全部ですかね?」
舞が額の汗を拭いながら聞くとサスペンドも苦笑いしながら答える。
「おそらくな……しかしまだ油断はできん。先へ進もう」
再び歩き始めた二人の前に広大な空間が出現した。
広間の中央には玉座が設けられておりそこに一人の人物が鎮座していた。黒いローブに身を包み、巨大な杖をもっていた。フードを目深に被っているため顔は見えないが明らかに異質な雰囲気を醸し出している。彼女の周りには濃密な魔力が渦巻いていた。
「あれが……魔王……?」
舞は震える声で呟いた。サスペンドも緊張した面持ちで剣を構え直す。
その時黒いローブの人物がゆっくりと立ち上がった。彼女はこちらに向かって歩いてくる。そしてある程度まで接近してきたところでピタリと足を止めた。
「……『先輩』?」
突如として紡がれた言葉に舞の全身に戦慄が走る。聞き覚えのある声だったからだ。
恐る恐るその顔を見ようとするも逆光となっていてよく分からない。
「え……?」
舞は思わず言葉を失い、驚愕に目を見開いた次の瞬間、「魔王」と呼ばれていた人物が顔を上げた。フードがはらりと外れ、現れたのは……。
「あ……あぁぁっ⁉ め、明華ちゃんっ⁉」
そこに立っていたのは間違いなく明華だった。彼女は大きな瞳を潤ませ、唇を震わせている。その表情からは先ほどまでの威圧的な雰囲気は消え去り代わりに切実な感情が滲み出ていた。
「せ、先輩ぃ~‼」
次の瞬間、明華が勢いよく舞に向かって飛び込んできた。衝撃でバランスを崩しそうになるもののなんとか踏みとどまる。彼女はぎゅっと抱き着いてきたので驚きつつも優しく背中をさするようにした。サスペンドも呆然と立ち尽くしたまま成り行きを見守っている様子だった。
しばらく抱擁が続いた後やっと落ち着きを取り戻したのか明華が顔を上げる。涙で濡れた頬と上気した肌が印象的だった。
「せ、せんぱぁい……私、ずっと先輩のことを探してたんですぅ……! あのドリンクを飲んだら、先輩が倒れちゃって……私も意識がなくなっちゃって……それで目が覚めたら知らないところにいて……」
彼女は涙ながらにこれまでの出来事を語り始めた。自分が気づいたらこの世界に転移していたこと最初は混乱したけど少しずつ順応していったことその過程でさまざまな出会いがあり仲間もできたことなどを話してくれた。そして現在に至るまでの経緯も全て教えてくれた。特に最後にはこう締めくくられた。
「でも……先輩がここにいるってことはやっぱりあの噂は本当だったんですね」
「噂……?」
舞が不思議そうに問いかけると明華は少し躊躇した後に口を開いた。
「なんか、『王都っていう悪い街には元の世界に帰れる宝が奪われて……』っていうのが流れているんですよ! だから、王都を襲えば宝を取り戻せるって言われてるんです……。でも、先輩はなんで王都側についたんですか?」
明華の言葉に、舞は息を呑んだ。王都が悪い街? 元の世界に帰れる宝? まるで意味がわからない。そもそもこの世界に来てからの自分の記憶とは全く違う内容ばかりだ。
「ちょ、ちょっと待って。全然理解できないんだけど……どういうこと?」
困惑した様子で問い返すと明華は悲しそうに眉を寄せた。
「先輩こそ何を言ってるんですか? あの町は魔物たちから大切なものを奪った悪い人たちの拠点じゃないですかぁ!」
「いやいやいや……私にとってあそこは命を救ってくれた恩人だらけの大事な場所なんだけど……」
お互いの主張がかみ合わず、二人はしばし言葉を失った。その様子を見ていたサスペンドが割って入るように口を開いた。
「すまないが事情を整理させてくれ。君たちが言っていることは俺たちが知っている事実と全く異なるようだが」
彼の冷静な声に我に返った明華は改めて自分の立場を説明しはじめた。
彼女も舞と同じように異世界にきたのだった。彼女も偶然にも魔法を使う才能があり、タブラは明華に「王都にある宝を奪い取れば元の世界に帰してあげる」。明華は王都の宝が欲しくなり、魔王となり人々を襲うように命令していたのだという。もちろん、そんな話を信じる者はほとんどいない。ただそれでも彼女にとって唯一の希望であり信じるしかなかったのだろう。
サスペンドは黙って聞いていたがやがて深刻な表情で言った。
「おそらくそれは誤情報だ。確かに君たちが探している『宝』についての噂は聞いたことがあるがそれが本当に存在するかどうかすら疑わしいんだ」
「え……?」
驚愕に目を見開いた明華へ、彼は途切れることなく言葉を紡ぎ続けた。 「実はな……以前にも似たような話を耳にしたことがある。どうやら一部の権力者が意図的に流した虚言らしい。人々の心に反感を芽生えさせるために、巧みに利用されてきたのだろう」
「じゃ、じゃあ……私は、騙されていたってことですか?」
声を震わせる明華。その肩が小さく揺れ、瞳には戸惑いと恐れが交錯していた。舞はその姿を見て、静かに寄り添うように言葉を落とす。
「そうだと思う。きっと悪意ある者が、嘘を広めたんだよ……」
玉座の間に、重苦しい沈黙が満ちた。高い天井に反響する静寂は、まるで二人の心を試すかのように長く続く。やがて明華は小さく息を吐き、揺れる心を押しとどめるように瞳に決意の色を宿した。
「……そういうことだったんですね。私、勘違いしていたみたいです」
その声には諦めと同時に、どこか安堵の響きが混じっていた。長く背負ってきた疑念が解け、心の奥で重石が外れるような感覚が彼女を包んでいた。
「でも、もういいんです。先輩に会えた。それだけで十分ですから……」
微笑みを浮かべた明華が舞の手をそっと握る。指先から伝わる温もりは、言葉以上に確かな絆を示していた。舞の胸にも同じ想いが広がり、二人の間に静かな安らぎが芽生える。
しかし、その和解の余韻は長く続かなかった。 突如として、玉座の間の空気がざわめきに満ちる。燭台の炎が揺らぎ、壁に映る影が不気味に伸びる。天井の高みから黒い影が音もなく落下し、重苦しい気配が場を支配していった。
「……そう簡単にはいかないようだな」
サスペンドは鋭い眼差しを放ち、剣を構え直した。その刃先には緊張が凝縮され、周囲の空気すら震えるようだった。舞も反射的に魔法束を握り直し、全身を緊張で満たす。張り詰めた空気の中、悠然と姿を現したのはタブラだった。彼は軽やかに地へ降り立つと、冷笑を浮かべながら口を開く。
「まさか、こんな形で再会することになるとは思わなかったよ。」
その声に、明華の瞳が大きく見開かれる。胸の奥を鋭く突かれたような衝撃に、彼女は思わず息を呑んだ。予期せぬ展開に心を揺さぶられ、動揺を隠しきれない様子で震える声を漏らす。
「タブラ……さん?」
しかし彼は応じることなく、淡々と語りを続ける。その言葉は、彼女の心を深く抉るものだった。
「全ては計画通りだ。君たちを利用することで、我々は王都への復讐を果たそうとしていた。」
明華の顔色が瞬時に変わる。怒りと悲しみがないまぜになった表情で、彼女は叫んだ。
「なに言ってるんですか! 私は……ずっと騙されていたということですか!?」
タブラは冷たく笑うだけで、否定の言葉を返すことはない。むしろ当然だと言わんばかりの態度で、彼女を見下ろしていた。
「まぁ、そういうことだな。残念ながらここまでだ。せいぜい悔いるといい。」
「くそっ……!」
次の瞬間、タブラの指先から紫色の光弾が放たれ、雨のように降り注ぐ。轟音と共に空気が震え、死の気配が迫る。床を抉り、黒く焦げ付かせるその威力は、まるで大地そのものを焼き尽くそうとするかのようだった。
「明華ちゃん! サスペンドさん! 私の後ろに!」
舞は声を張り上げ、両手を突き出した。迸る魔力が光の障壁となり、三人を包み込む。衝撃音が連続し、煙が立ち上る。直撃は免れたものの、床は無惨に削られ、焦げ跡が広がっていた。その威力がいかに凄まじいかを物語っている。
「なかなかやるではないか。」
タブラは余裕の笑みを浮かべたまま、微動だにしない。だが舞は冷静さを失わず、次の一手を思案していた。敵はまだ余力を残している。長期戦になれば不利は明らかだ。
「私だって……やれるんだから……!」
震える手で杖を構え、明華は小さく詠唱を始める。淡い光が彼女の体から溢れ、空気が震えた。彼女の決意がその光に宿り、揺らめく炎となって形を成す。
「火よ! 我が願いを叶え給え!」
炎の矢が放たれ、真っ直ぐにタブラを狙う。だが彼は動じることなく片手を掲げる。瞬間、紫色の結界が彼の周囲に展開され、炎の矢は霧散した。
「無駄だ。そんな未熟な魔法では傷一つ付けられないぞ?」
彼は嘲笑うように言うと再び指を鳴らし今度は氷の刃を作り出して投げつける。鋭利な氷柱が雨霰のごとく降り注ぎ明華を襲うが舞が繰り出した障壁により防がれることとなった。
「ありがとう先輩……」
「明華ちゃん!」
舞はとっさに明華のもとに駆け寄り、膝をついて抱き起こした。魔法の衝撃で彼女の服は破れ、腕には深い裂傷が走っている。明華は苦しそうに呻きながらも、健気に笑顔を作ろうとした。
「だいじょうぶ……です……。私なら……」
「無理しないで!」
舞は彼女の言葉を遮ると、そっと目を閉じた。意識を集中させ、自らの奥底に眠る魔力を感じ取る。全身が温かな光に包まれていくのを感じた瞬間、舞の体がゆっくりと宙に浮き始めた。彼女を中心に金色の光の粒子が渦を巻き、明華を優しく包み込んでいく。しなやかな指先が空気を撫でるたびに、光の粒子が明華の傷口へと吸い込まれていった。青白かった明華の顔に徐々に血色が戻り、呼吸も安定していく。
「すごい……痛みが引いていく……」
明華は驚きの声を漏らしながら自分の腕を見つめた。深い裂傷は跡形もなく消え去り、滑らかな肌が蘇っている。舞の魔法は単なる治癒に留まらず、彼女の体力と精神力をも回復させていた。
「よかった……」
舞は安堵の吐息をつき、明華を優しく抱きしめた。魔法の効果なのか、二人の間に温かい絆が一層強く感じられた。その様子を見守っていたサスペンドも胸を撫で下ろし、剣を鞘に収める。
舞は明華を地面に座らせると、再び立ち上がりタブラの方へ向き直った。その瞳には決意の光が宿っている。
「明華ちゃんは私が必ず守ります……どんな敵からも……」
その言葉と共に舞は新たな力を解放する準備に入った。明華の回復によって自らの魔力も増幅されたのか、先ほどまでより一層強い輝きを放っている。
タブラは冷笑を浮かべたまま腕を組んでいるが、その目には僅かながら動揺の色が見えた。
「ほう……なかなかやるではないか」
「あなたの計画通りにはさせません……今ここで全てを終わらせます!」
タブラは余裕の笑みを浮かべながらも内心では警戒を強めていた。舞の舞踊魔法によって回復した明華の姿を見て、計算外の事態が進行していることに気づいているようだ。
「面白い……ならばこちらも本気で行かせてもらおう」
紫黒の奔流が空間を呑み込み、重苦しい圧力が肌を焼くように押し寄せる。タブラの周囲に渦巻く魔力は、まるで世界そのものを支配するかのごとき威圧感を放ち、空気は震え、石床は軋みを上げた。 だが、その支配を切り裂くように銀光が閃く。サスペンドの剣が疾風のごとく走り、刹那の隙を突いてタブラへと迫る。
「なっ……!」
不意を衝かれたタブラの身体が揺らぎ、均衡を失いかける。彼は必死に体勢を立て直そうとするが、時すでに遅し。
「今です‼」
舞の瞳が鋭く光り、声が空間を震わせる。その叫びは合図となり、明華が杖を掲げる。炎の精霊が呼応するかのように熱気が渦を巻き、赤々とした魔力の塊が彼女の周囲に凝縮されていく。舞もまた魔法陣を描き、二人の力が共鳴し合う。
磁石のように絡み合い、互いを引き寄せながら増幅されていく魔力。その光景は圧倒的で、見る者の心を震わせるほどの迫力を帯びていた。
「これで終わりです!」
「はあああっ!」
二人の声が重なり、解き放たれた力は巨大な火球と眩い光線となって一直線に走る。交差した瞬間、世界を裂くかのような爆発的光輝が迸り、轟音と衝撃波が荒れ狂う。
「ぐがぁぁぁっ!!」
タブラの絶叫が響き渡り、その身体は吹き飛ばされ壁へと叩きつけられる。瓦礫が崩れ、砂埃が舞い上がり、視界は白濁した混沌に包まれた。
やがて静寂が訪れ、砂煙が晴れる。そこに立っていたのは、満身創痍ながらもなお立ち上がるタブラの姿だった。衣は裂け、血にまみれ、しかしその眼光はなお鋭く燃えている。悔しさを滲ませながらも、諦めの色は一片もない。むしろ闘志はさらに燃え盛り、彼の存在そのものが戦いを欲しているかのようだ。
「まだ終わっていない……!」
鎌へと手を伸ばすタブラ。しかし、その前にサスペンドが剣を突きつけ、冷徹な声を放つ。
「動くな」
タブラは歯噛みし、屈辱に満ちた声を漏らす。
「くそ……」
やがて両手を挙げ、降参の意を示す。。それとほぼ同時のタイミングで舞と明華も駆け寄ってくる。
「明華ちゃん大丈夫?」
「はい、先輩のおかげで助かりました……」
タブラは項垂れたまま何も語ろうとしない。ただ悔しげな表情だけが浮かんでいる。
そんな彼の懐から一本の小瓶がこぼれ落ちた。
「これは……?」
舞が拾い上げると、中には澄んだ透明の液体が揺れている。ラベルには古びた文字で『異界還元薬』と書かれていた。
「これって……もしかして元の世界に戻れる薬なのかも」
明華が震える声で言う。彼女はタブラの方をちらりと見たが、彼は反応しない。ただ俯いたまま微動だにしなかった。
「試してみましょう!」
明華は躊躇うことなく蓋を開けると小瓶の中身を飲む。舞もそれを真似するように小瓶の中身を飲み干した。
甘酸っぱい風味が喉を通り過ぎると同時に体がぽかぽかと温かくなるのを感じた。
「あ……」
視界が歪み始める。今までの記憶が走馬灯のように駆け巡り懐かしい匂いや景色が脳裏をよぎった。すると不思議なことに涙が零れ落ちてきて止まらなくなる。嬉しさと寂しさがないまぜになったような感覚に戸惑いながらも彼女は確信した。
「……サスペンドさん……今までありがとうございました。貴方に出会えて良かったです」
舞は感謝の言葉を伝えながら別れの挨拶をする。彼は無言のまま頷きだけを返してくれた。
きっとこれからも彼なら何とかしてくれるだろうという安心感があったためそれ以上は何も言わなかった。
「……ラナートさんにもちゃんと挨拶したかったなぁ……」
舞は寂しさを堪えつつも涙を拭い微笑む。
「ねぇサスペンドさん。ラナートさんに伝えてもらえますか? 『短い間でしたが楽しい日々でした。どうか幸せになって下さい』って」
サスペンドは静かに頷いて承諾してくれる。それが嬉しくて仕方なかった。
「はい……お願いしますね」
次第に薄れていく意識の中で最後に見えた光景はやはりサスペンドの頼もしい背中だった。
彼のおかげで自分は生き延びることができたんだと思いつつも感謝の気持ちを噛みしめながら意識を手放していく。
「サスペンドさん……あなたともっと一緒に居たかったな……」
消えゆく最中でさえ心残りがあることを自覚してしまうほど大切な時間だったと思い知らされる瞬間でもあった。
次に舞が目を覚ましたのは学校の保健室だった。窓から差し込む光が眩しく感じられるくらい意識が鮮明になっているようだ。
枕元には見慣れた制服や荷物が置かれており現実感を取り戻していくにつれて胸騒ぎが大きくなる一方だった。
「せんぱいっ‼」
突然勢いよくカーテンが開かれるとそこには心配そうな面持ちをしている明華がいた。彼女も同じように戻ってきたらしいことがひと目見てわかる状況だった。
「良かったぁ……本当に心配したんですよぉ~?」
泣きそうな顔になりながら抱きついてくる彼女を受け止めつつ苦笑するしかない状況である。
(うん……やっぱり夢じゃなかったみたい)
そう納得できるほどリアルな感触だったので逆に不思議な感覚に陥るほどだった。そして同時に思い出してしまうのは当然のことながら先ほどまでの出来事全般だろう。
「ごめんね……いろいろ迷惑かけて」
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら謝罪すると意外にも素直に受け入れてくれた様子だった。
「いえいえ全然大丈夫ですから気にしないでくださいよ~! それよりも早く元気になって欲しいです♪」
天真爛漫という表現がピッタリ当てはまるような笑顔を見せて励ましてくれるあたり流石だと思う部分も多々ある。こういうときこそ支え合える関係性というのは大切だと思うのである。
保健室の天井を見上げながら、舞は深く息をついた。まだ現実味が湧かない。あれほど濃密で非日常的な時間を過ごした場所が、今は遠い記憶の中にしか存在しないように思える。
「……帰って来ちゃったんだね」
小さく呟いた言葉に、明華がそっと手を重ねてきた。その温もりが確かに「今」を感じさせる。もう二度と触れることはないと思っていた現実の温度だ。
「でも……これで良かったんだよね?」
明華の問いかけに、舞は曖昧に頷いた。正直なところ答えが出せない。あの世界に残してきた人々への想いは消えない。特にラナートやサスペンドの笑顔を思い出すと胸が痛んだ。
けれど……。
「きっと彼らなら大丈夫。私達がいなくても幸せに暮らしてるよ」
自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
明華は少し考え込む素振りを見せてから、「そうですね!」と明るく同意してくれた。
その後しばらく二人で他愛もない話をした。戻ってきてから数日は記憶があやふやで不安定な状態が続いたが徐々に日常生活へと溶け込んでいっている。授業に出たり友達と遊んだり普通に勉強したりする日々。
そんな平穏な毎日の中で時折ふと思い出すこともある。しかしそれも時間が経つにつれて自然と薄れていった。まるであの冒険自体が長い夢だったのではないかと思える程だ。
ただ一つ変わらない事実があるとするならばそれは……あの世界で培った友情や経験は今も心の奥底にしっかりと根付き続けているということだ。たとえ物理的には離れてしまったとしても決して忘れる事のできない大切な思い出なのである。
舞は窓の外を眺めながらぼんやりと考え事をしていた。今日は快晴で雲一つない青空が広がっている。
「先輩……やっぱり元気ありませんか?」
心配そうな表情を浮かべている明華に気が付いて慌てて取り繕うように笑顔を作る。
「ううん……大丈夫。ちょっと考えごとしてただけだから」
そう言いながらもやはりどこか上の空になってしまう自分がいた。どうしても過去の出来事が頭から離れないのだ。まるで魂の半分が抜け落ちてしまったような虚無感に苛まれている状態と言っても過言ではないかもしれない。
だがそれを言葉にする事などできなかった。
そんな心情を察してくれたのか明華は何も言わずただ側にいてくれた。その優しさがとてもありがたいと思う反面申し訳ないという気持ちもある複雑な心境だった。




