第一話
夕暮れの光が校舎の窓ガラスに反射し、淡いオレンジ色のグラデーションが廊下を染めていた。とある高校のグラウンドでは片付けが進み、遠くからは部員たちの笑い声が風に乗って微かに聞こえてくる。
体育館裏の更衣室は、すでに人影もまばらだった。舞はチアダンスを終えたばかりで、赤と白のユニフォームのまま、ゆっくりと自販機の前に歩み寄った。ポニーテールにまとめた栗色の髪は汗で少し乱れ、額には細かい水滴が残っている。彼女の頬は運動の熱でわずかに紅潮し、呼吸もまだ浅く速い。
「先輩っ! お疲れさまです!」
声は弾むように軽やかで、少し甲高い。振り返ると、後輩の明華が駆け寄ってくる姿があった。その表情は、疲労よりも達成感の方が勝っているようで、走ってきたせいか、ほんのり汗の匂いが漂う。
「あ、明華ちゃん。お疲れ様~! 今日はありがとね。すっごく盛り上がったじゃない?」
舞は自販機から視線を移し、明華に笑顔を向けた。その声には親しみが込められているが、同時に少しだけ距離感があるような響きもあった。後輩に対する丁寧な物言いが染み付いているのだろう。
「いやぁー…… あれだけ踊れたのは先輩のおかげですよ!ほんと感謝してます」
明華は照れたように両手をブンブン振る。その仕草には屈託がない。
「もうすぐ受験だっていうのに練習付き合ってくれて…… 先輩大好きです!」
彼女はそう言って満面の笑みを見せる。目尻がキュッと下がり、口角が上がったその表情は無邪気で可愛らしい。舞より一回り小さい体格も相まって、まるで子犬のようだ。
舞は微笑みながらも、その視線がほんの一瞬だけ明華の全身をなぞるように動いたことに自分自身で気づいていた。運動後の高揚感と疲労が混ざり合い、心臓の鼓動がいつもより速くなっているのを感じる。先程までの激しいダンスの記憶が鮮明によみがえる。特にあの最後の決めポーズの時、隣にいた明華の横顔。
舞は慌てて視線を逸らし、自販機の方へ向き直った。
「えっと…… 何か飲む? 私奢るよ」
「いいんですか⁉ やったぁ!」
明華は嬉しそうに自販機に近づいてくる。
「先輩は何飲みます? 私、先輩と同じのがいいな!」
「……じゃあ、これにしようかな」
舞が選んだのはスポーツドリンクだった。ボタンを押し込むと、ガシャンという音とともに冷たいペットボトルが取り出し口に落ちてくる。続けて同じボタンを押すと、明華に手渡す分も取り出した。
「……あー、やっぱりこの汗かいた後に飲むスポドリって最高だよねぇ」
「わかりますっ! 特に先輩みたいにめっちゃ踊った後は!」
明華は隣で同じように喉を鳴らしながら勢いよく飲んでいる。その姿は本当に子供のように純粋で、舞は自然と微笑んでしまう。
「でもほんと、今日の大会すごく楽しかったです! お客さんの歓声とか……」
明華が楽しそうに話している最中だった。
「……え?」
突然、視界が揺れた。地面が傾いていく感覚。次の瞬間、全身が重力に引きずられるように落ちていく。膝から力が抜け、そのまま前のめりに崩れる。
「先輩っ⁉」
明華の驚いた声が遠くで聞こえた気がした。だがそれ以上に意識が遠のいていく。手から滑り落ちたペットボトルが地面に当たって転がる音。舞の頭の中では、何が起こったのか理解する余裕もなかった。ただ視界が真っ暗になり、深い闇へと沈んでいく感覚だけが残された。
目を覚ました舞の視界に飛び込んできたのは、見慣れない緑の光景だった。
「ここ、どこ……?」
呟きながら上半身を起こすと、周囲は鬱蒼とした森。木々の葉が幾重にも重なり合い、太陽の光を遮っている。地面には枯葉が厚く積もり、ところどころに見たこともない奇妙な形の花が咲いていた。
(私、確か学校の裏庭で……)
思い出そうとするが、記憶が途切れている。立ち上がろうとすると、身体が思うように動かない。運動後の疲労感とは明らかに違う、根本的な脱力感が全身を支配していた。まるで自分の身体ではないようだ。
「明華ちゃん……?」
呼びかけてみても、応答はない。ただ森の静寂が広がるだけ。風が吹くたびに枝葉がざわめき、遠くからは鳥とも獣ともつかない不気味な鳴き声が聞こえてくる。
「これは夢……かな」
舞は軽く頬をつねってみた。鋭い痛みが走り、反射的に手を離す。
「痛い……ってことは現実? なんでこんなとこにいるんだろう」
呆然としていると、不意に背後から物音がした。パキリと小枝が折れるような乾いた音。続いて重い足音が近づいてくる。
「なに……?」
振り返った舞の目に映ったのは、人間の姿ではなかった。トカゲに似た鱗状の皮膚を持ち、二本足で立っている化け物。爬虫類特有の縦長の瞳孔が、獲物を見つけた喜びに満ちているかのようだ。
「ひっ……!」
舞の喉から漏れた悲鳴は、すぐに森のざわめきに飲み込まれた。目の前の怪物のような生物は、低く唸るような声を発しながらゆっくりと一歩踏み出す。その動きは予想外に俊敏だった。短い腕が伸びたかと思うと、鋭い爪が舞の腕を掠めた。
「来ないでっ!」
叫ぶと同時に地面を蹴る。必死に逃げ出した舞の脳裏には混乱と恐怖が渦巻いていた。振り返ることもできないほど必死だった。。とにかく逃げなければ命の危険があることだけは本能的に理解できた。舞は全力で足を動かした。背後からは荒い息遣いと共に足音が迫ってくる。
「まだ来てる……って、うわぁ⁉︎」
急に視界が開けたかと思った瞬間、舞は足元のバランスを崩した。崖っぷちだったのだ。急斜面が数十メートル下まで続いている。眼下には針葉樹の林が広がっていた。
「嘘……行き止まり……?」
後ずさろうとしたが遅かった。怪物がついに彼女の姿を捉えたように現れる。太陽の光がその鱗を鈍く光らせている。長い舌がちらりと見え隠れした。
目の前には鋭い牙を持つ怪物。背後には切り立った崖。逃げ場はない。舞の心臓は狂ったように脈打ち、肺は酸素を求めて喘いでいる。
「……ふれーっ! ふれーっ! わ、た、しー!」
大声で自分を鼓舞しながら、舞は両手を高く掲げ、足を開いてリズムをとり始めた。
怪物は舞の突然の行動に一瞬戸惑いを見せたようだった。だが、そんなことはお構いなしに舞は続けた。声は恐怖に震えながらも、必死に張り上げられた。
目の前の怪物は不気味な唸り声をあげている。牙が剥き出しになり、涎が垂れている。
その瞬間だった。掲げていた右手が一瞬だけ輝き、そこから炎の玉のようなものが生まれ出た。拳大の小さな火の塊が宙を飛ぶ。そして、怪物の腹部に命中し、破裂した。焼け焦げる臭いとともに短い悲鳴があがる。怪物は一瞬後退し、鋭い目つきで舞を睨みつけた。
「え……?」
舞は自分の手のひらを呆然と見つめた。燃え上がった炎はすでに消えているが、手のひらには確かに熱を感じた痕跡が残っている。指先がピリピリと痺れる感覚。夢ならとっくに醒めているはずだ。これが現実だと認めざるを得ない。
「な、なに、今の……」
混乱する暇も与えられず、再び怪物の咆哮が轟いた。腹のあたりから薄煙を上げながらも、なおも襲い掛かろうと突進してくる。鱗状の皮膚が僅かに焦げ付き、白い煙が立ち昇っているが、その瞳に宿る殺意は衰えていない。むしろ怒りが増幅されているようだった。長い尾が鞭のようにしなりながら地面を叩きつける。
「やばい……!」
舞の全身が恐怖で埋まった、次の瞬間、銀色の閃光が怪物を貫いた。鋭い刃が鱗を突き破り、赤黒い液体が地面に飛び散る。怪物は断末魔の叫びを上げながら倒れ伏した。その体は痙攣しながらも、やがて動きを止める。
「……えっ⁉︎」
舞は言葉を失い、その光景をただ見つめることしかできなかった。助けてくれたのは、若い男だった。冷たく整った顔立ちに無駄な感情の欠片もない表情。灰色のコートを羽織り、腰には鞘に収められた長剣が見える。その佇まいには一切の隙がない。舞に向ける視線さえ、氷のように冷ややかだ。
「怪我は?」
抑揚のない声。まるで作業の一環のように尋ねる。舞は首を横に振りながらも、ようやく自分が危機を脱したことを実感し始めた。安堵とともに膝の力が抜けていく。
「あ、ありがとう……ございます」
絞り出すように礼を言うと、彼は興味なさそうに鼻を鳴らした。
視線を舞から怪物の亡骸へと移す。その冷酷な眼差しには、既に殺した存在への関心はないようだった。
「こんなところで何をしている」
問いかけというより確認事項のような口調だった。舞は答えを探すが言葉が出てこない。何故ならここに来るまでの経緯が全く思い出せないのだ。覚えているのは学校の裏庭での出来事まで。
「わ、わかりません。気が付いたらここにいて……」
その様子を見た男は小さく溜息をつくと剣を鞘に戻し、「そうか」と短く言い放つと背を向ける。歩き去ろうとする男の背中を見て舞は思わず声をかけた。
「あのっ! 待ってください! 私、本当に何も分からなくて……ここがどこかも知らないし!」
振り返った彼の顔はやはり冷たい表情だったが、わずかに眉間に皺が寄っている。
「迷い込んだのか」
低い声で呟いた後しばらく考え込むような素振りを見せたがすぐに結論を出したようだった。
「……ついて来い」
それだけ言うと再び歩き始めた。今度は立ち止まらずに歩き続けるその背中に追いすがるようにして舞も後に続く。
「えっと、私は舞……あなたは?」
「サスペンド。ただの剣士だ」
青年は足を止めずに答え、詳しく説明するつもりはないらしい。舞は黙ってその後について行った。とにかく安全な場所に行き着くことだけが望みだった。
「あの、どこにいくんですか?」
「王都だ。ここは魔物が多いから危険だ。それに王都に行けば、身分証が作れる。何かあったときに必要になるからな」
三十分ほど歩いただろうか。唐突に木々が開け、広大な平原が目の前に広がった。遥か向こうには巨大な城壁がそびえ立ち、そこに至る道筋には無数のテントや露店が連なっている。人々の賑わいが遠くからでも感じ取れる。
「ここが王都、メレオンだ。」
サスペンドが簡潔に告げる。
城門をくぐると石畳の大通りが伸びていた。両側の露店からは香辛料や焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。舞の視界には信じられない光景が広がっていた。
「ここが冒険者ギルドだ。お前の身分証を作れる」
サスペンドはそう言うと重厚な木製の扉を開けた。内部は予想以上に広く、カウンターがあり奥には書庫らしきものも見える。壁には依頼書がびっしりと貼られていた。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件で?」
受付嬢が笑顔で迎える。舞が戸惑っているとサスペンドが代わりに答えた。
「身分証の発行だ。この者は記憶が曖昧で身元が不明だ」
「それはまた……」
受付嬢は少し困惑した表情を見せるが、すぐに事務的な口調に戻る
「ではこちらの申請書にご記入ください。氏名と年齢、生年月日。覚えている範囲で結構です」
差し出された羊皮紙にペンを走らせる舞の手は微かに震えていた。記憶が曖昧と言うより全てが非現実的で混乱している。それでも名前と年齢だけはしっかり覚えていた。書き終わってサスペンドを見ると無表情で頷いている。
「よろしいでしょう。これで手続きを進めますので少々お待ち下さい」
受付嬢は書類を持って奥へ消えていった。その間に舞はギルド内の様子を観察する。鎧を着た戦士やローブを纏った魔法使いらしき人々。彼らは依頼書とにらめっこしたり仲間と談笑したりしていた。ギルドの様子を見ていると受付嬢が戻ってきた。その手には一枚の金属板を携えていた。
「これが身分証になります。紛失しないようお気をつけください」
受け取ったそれは銀色に輝くカードだった。表面には先ほど記入した情報が刻印されている。
「ありがとうございます!」
思わず深々と頭を下げるとサスペンドに腕を引かれた。
「行くぞ」
言われるままにギルドを後にする。外に出るとサスペンドは初めて口を開いた。
「これからどうするつもりだ」
質問されても答えようがない。帰る方法もわからない以上ここで生きていくしかないのだ。
「とりあえず、私、魔法について知りたくて……さっき火が出せたのは偶然なのかもしれませんけど……」
思い返せば最初の時しか成功していない。そもそも原理さえ分からないのに使えるわけがないのだ。サスペンドは立ち止まり顎に手を当てて考え込み始めた。
「魔法については詳しくないが知人がいる。そいつなら教えてくれるだろう」
「本当ですか⁉︎」
舞の表情が明るくなる。サスペンドは淡々と続けた。
「王都を少し離れることになるが構わないか」
「は、はい!」
即答する舞に彼は小さく頷くと歩き出した。王都の中心部から離れ閑静な住宅街を抜けていく。やがて見えてきたのは豪華な門構えの大きな屋敷だった。大理石の柱に囲まれた玄関は風格漂う造りになっている。
「ここですか?」
舞が尋ねるとサスペンドは無言で頷いた。彼が扉をノックする前から内側から慌ただしい足音が聞こえてくる。
「あっ、サスペンドくん! 久しぶりじゃないか!」
扉が勢いよく開かれ現れたのは白衣を着た桃色の髪に碧眼の美女だった。
「ラナート。忙しい時に済まない」
「全然! サスペンドくんならいつでも大歓迎だよ! それにしても珍しいね〜。サスペンドくんが女の子連れてくるなんて!」
ラナートと呼ばれた女性は嬉しそうに興味津々といった様子で舞をじろじろ眺め回した。その視線は研究対象を見る科学者のようで、少々居心地が悪い。
「……こちらは舞だ。」
「は、はじめまして! 舞と言います!」
元気よく挨拶をするが内心緊張していた。ラナートという女性の雰囲気は独特でどこか掴みどころがない感じがする。
「ふーん? それで、何かあったの?」
「実は舞には魔力があるんだ。だが、記憶が曖昧で彼女自身は魔法の扱い方を知らない。そこで君に力を貸してほしい」
サスペンドの簡潔な説明に、ラナートはニヤリと笑みを浮かべる。
「面白そうだねえ。じゃあ早速始めようか」
彼女は二人を手招きし、屋敷の奥へと連れていった。豪華な装飾品が並ぶ廊下を抜けた先には実験室のような部屋があった。壁一面に棚が設置され、中には試験管やフラスコがずらりと並んでいる。中央には複雑な魔法陣が描かれた円卓があった。
「ここが私の研究室。魔法に関するほとんどのことはここで解明してるんだよ」
ラナートは得意げに語りながら部屋の隅にある水晶玉を取り上げる。
「まずは君の魔力を測定するからこれを触ってみて」
促されるままに舞が水晶玉に触れると、それは仄かな光を放ち始めた。
「おおっ! やっぱり強い魔力を感じるねぇ〜」
ラナートは目を輝かせながらデータを書き留めている。その様子も科学者の研究のように感じた舞は視線を逸らしてしまう。
「そういえば、どうやって魔法を放ったんだい?」
「えっと、こうやって……」
舞は軽くチアダンスを披露して見せる。ラナートは最初驚いていたが次第に興味深そうな表情になっていった。
「それって、《舞踊魔法》の一種じゃん! すごーい!」
「ま、《舞踊魔法》……ってなんですか?」
ラナートは嬉々としながら、棚から一冊の本を取り出す。そこには何枚もの羊皮紙がメモのように挟まれており、その中の一枚を舞に見せる。
「舞踊魔法はかつて大陸にいた民族たちが使ってた魔法でね。始めはお祭りや儀式のときに使われてたんだって! それと、魔力を魔法に変化させるために呪文の書かれた羊皮紙をひとつにまとめて持って踊ってたみたい。名前はいろんな説があって、定かじゃないけど……私は魔法束って呼んでるの」
そう言って見せたメモには魔法束と呼ばれた羊皮紙の束を持つ人の絵が描かれており、その絵はまるでチアガールがポンポン持って踊るかのようで舞は思わず笑みがこぼれる。
「……えっと、つまり、私が魔法束を持ってダンスすると、魔法が使えるってことですか?」
「簡単に言うとそういうこと! でも制御が難しいから、暴発しないように魔法の基礎から学ぼうか!」
ラナートに促されて円卓に向かい合って座る。部屋の隅に置いてあった黒板を舞の前に動かすと、眼鏡をかけて黒板に何かを書き出す。
「まず魔力というのは体内で形成されるエネルギーの一種で、魔力以外にもいろんなのがあるけど、魔力は暴発すると特に危険でね。魔力が暴発して溢れると、他の人の体や魔石、あるいは魔石で作られた装備品とか、あと……」
専門的な用語が飛び交い始め舞は早くも頭が痛くなった。しかし真剣な表情で聞く姿勢を見せる。
「わかった?」
「……なんとなく?」
曖昧な返事にラナートは苦笑しつつ続けた。
「まぁ、今日はこの辺にしておこうか。明日から本格的に訓練するからね!」
「あ、ありがとうございました! これからよろしくお願いします!」
礼儀正しく頭を下げる舞にラナートは優しく微笑む。
「うん! 一緒に頑張ろうね!」
彼女はそう言い残して二人を見送る。二人はラナートの屋敷を後にし、王都で宿を探すことにした。
「今日は色々ありすぎたので疲れちゃいました……」
疲労感を滲ませる舞にサスペンドは珍しく同情的な視線を向けた。
「無理もない。慣れない環境に加えて魔法の習得だ。精神的にも負担がかかったはずだ」
「でも楽しくもあったんです。新しいことばかりだし……それにラナートさんも良い人で」
「あいつは変わり者だが知識は確かだ。信用してもいい」
サスペンドの口ぶりには確かな信頼が感じられる。きっと二人の間には長い付き合いがあるのだろう。
会話が一段落したところで宿屋が見えてきた。王都中心部からは少し離れているが清潔感のある建物だ。
「ここでいいか」
サスペンドが尋ねると舞は迷いなく首を縦に振る。
「はい! 十分です!」
チェックインを済ませて部屋に入ると舞はベッドに倒れ込んだ。柔らかい布団に包まれていると自然と瞼が重くなってくる。窓の外では夜の帳が降り始め街灯に明かりが灯り始めていた。舞はゆっくりと意識を手放していく。
翌朝になって目覚めると既に日が昇っていた。舞は寝ぼけ眼を擦りながら起き上がる。
「ふわぁ~、よく寝ました」
大きく伸びをして窓際に寄ると眩しい朝日が差し込んできた。新鮮な空気が気持ち良い。身支度を整えて部屋を出る。宿屋のロビーを抜けると既にサスペンドが待っていた。
「おはよう、昨日はよく眠れたか」
「おはようございます! ぐっすりです!」
元気の良い返事にサスペンドは満足したようだった。そのまま二人で昨日訪れた屋敷へと向かう。大きな門を潜ると玄関の前にラナートが立っていた。
「おはよう舞ちゃん! 今日は一日みっちり訓練するからね~」
彼女はウキウキした様子で二人を中へ招き入れる。昨日と同じ研究室に通されると小さな机の上に道具が揃っていた。その中にはあのメモにあった、呪文の書かれたポンポンもあった。
舞はポンポンを手に取り、そっと指先で羊皮紙の端を撫でた。そこには細かく描かれた魔法陣と、不思議な字で呪文が記されていた。
「今日から本格的な練習に入るからまずは実践形式でやってみよっか! そこにある本と魔法束を持ってきてくれる?」
舞はうなずくと机の上に置いてある分厚い本と魔法束を手に取り、ラナートに近づく。
「ありがと。これは魔導書。中に様々な魔法の術式が記されているんだ! この術式の中に舞踊魔法もあるんだ。それを君がマスターすれば自在に魔法を使えるようになるはずだよ!」
「なるほど……」
興味深く魔導書を眺める舞。ページを捲ると見たこともない文字や図形が並んでいた。
「じゃあ、まずは基本として、魔法束は両手でしっかりと持って、両腕を後ろに回して腰のあたりに。これが基本の姿勢、この状態で魔力を魔法束に集める感じ」
舞はラナートに言われた通りに魔法束をしっかりと握り、基本の姿勢をとる。
「そうそう、いい感じ! じゃあ、次は魔力を意識してみよっか! 深呼吸して、体の中心にあるものに集中してね。そこから何かが湧き出る感じ、する?」
舞は深呼吸をすると、胸の奥に意識を向ける。すると、微かに熱を放つようで温かい何かがある感覚がした。
「か、感じました!なんとなき、あったかいものが……」
「それが魔力だよ! じゃあ、私の動きを真似してね! まずは右腕を上にあげて、左腕は腰に当てる感じ。次に左腕をあげると同時に右腕を下げて、腰に当てる。これを何回か繰り返してから、右足をあげる。右足を戻すタイミングでしゃがんで、ジャンプする! じゃあ、やってみよっか!」
舞はラナートの動きを真似て、ぎこちなくも腕を交互に上げ下げする。すると舞の頭上に小さな火球ができる。
「おっ、できてるね~! そのまま続けて~! 火球がいい感じの大きさになったら、右足を……あっ、そろそろかも!」
舞が右足を高く上げ、下げると同時にしゃがみ込み……ジャンプをした瞬間、火球が飛んでいった。
「わっ⁉」
「すごい~! 初めてなのにちゃんと綺麗な軌道だったし、やっぱり天才かも! この調子なら、他の魔法もすぐにマスターできそうだね」
そう言うラナートは楽しげに微笑む。舞も期待に胸を膨らませた。
「がんばります!」
こうして舞は毎日のように魔法の特訓を励んだ。最初こそ戸惑っていた舞だったが持ち前の運動神経と根性でぐんぐん上達していく。
それから数週間が経ち、舞踊魔法のほとんどを完璧に使いこなせるようになった。
「すごいね、舞ちゃん! もはや、ほぼマスターしたんじゃない?」
「これもラナートさんのおかげです! 本当に感謝しています」
深々と頭を下げる舞にラナートは微笑み返す。
「いえいえ!教えがいのある弟子ができて私も楽しいわ! あっ、ところで舞ちゃん。そろそろ実戦経験も積まないとね」
「実戦?」
舞が首を傾げるとラナートは得意げに説明を始める。
「そう。いくら理論を学んでも実際に使う場所がなければ宝の持ち腐れだよ。サスペンド君と一緒に魔物のいる森にいってみよっか!」
舞は一瞬だけ驚いた面持ちになったが、すぐに表情を変えて答える。
「はい! 行ってみたいです!」
舞の返事を聞いたラナートは満足げに頷いた。
「じゃあ、準備ができたら行こっか! サスペンドくん、護衛よろしくね~!」
「まったく、こっちは行くと言ってないんだがな……」
サスペンドは少し怪訝そうな様子だったが、剣を持ち、準備を整える。
「あっ、そうそう! 舞ちゃん、この鞄を持って行ってね! 予備の魔法束と回復用のお薬があるから、なんかあった時のためにね!」
そう言ってラナートから渡された鞄を肩にかけ、しっかりと抱え込んだ。二人は装備を整え、ラナートに見送られながら屋敷を後にした。
二人がしばらく森の中を歩くと、森深部に辿り着いた。空気はひんやりと湿り気を帯びて、木々の密度が増していき、陽光はほとんど届かない。時折風に揺れる枝の音が奇怪な鳴き声に聞こえ、舞の不安を煽る。
一方、サスペンドは周囲に目を配っており、剣の柄に添えた手はいつでも抜刀できるように構えている。
「……止まれ」
辺りの空気が重くなったことに気づいたサスペンドは舞の前に立つ。その様子に舞は思わず魔法束を強く握りしめる。
二人の前の茂みがなぎ倒され、そこから巨大な狼のような魔物が現れる。その体は漆黒の毛並みを持ち、目は血のように赤く輝いていた。その体躯は人間の数倍はあり、鋭い牙が唸り声とともにむき出しになる。舞は思わず息を呑んだ。
「下がって魔法を準備しろ。その間の相手は俺がする」
舞は一歩後退し、魔法束を両手で握りしめた。心臓の鼓動が耳に響くほど高鳴っている。サスペンドはすでに剣を抜き、魔物と対峙していた。彼の動きは無駄がなく、まるで獣のような直感で敵の動きを読んでいるようだった。
「深呼吸……魔力を感じて……」
舞はラナートの教えを思い出しながら、体の中心に意識を集中する。温かい何かが胸の奥から湧き上がる感覚。それを魔法束へと流し込む。
「右腕を上げて……左腕を……」
舞は踊り始めた。恐怖に震える足を無理やり動かし、リズムを刻む。魔法束が淡く光り始め、空中に火球が生まれる。その火球が徐々に大きくなるにつれ、舞の動きも恐怖を振り払うように、次第に力強さを増していった。
舞の動きが最高潮に達した瞬間、火球はまるで彼女の意志を受け取ったかのように輝きを増し、空中で弾けるように飛び出した。鋭い軌道を描いて、魔物の肩に直撃する。
「グゥォォォッ!」
魔物は苦痛の咆哮を上げ、後退する。その隙を逃さず、サスペンドが地面を蹴って一気に距離を詰める。剣が閃き、魔物の前足を切り裂いた。血飛沫が舞い、魔物はバランスを崩して倒れ込む。
「今だ、もう一発!」
サスペンドの声に舞は頷き、再び魔法束を握り直す。先ほどとは違い、魔法束で円を描くように踊り始める。
舞の足元に魔法陣が浮かび上がり、空気が震えるような感覚が広がる。彼女の動きは円を描くように滑らかで、まるで舞台の上で踊るようだった。魔法束が強く輝き、今度は火球ではなく、青白い光の矢が空中に現れる。
「いけっ!」
舞が跳ねるように最後のステップを踏むと、光の矢が一直線に魔物の胸元へと飛び、鋭く突き刺さった。魔物は苦悶の叫びを上げ、地面に倒れ込む。サスペンドがすかさず近づき、最後の一撃を加えると、魔物は完全に動かなくなった。
「……終わったか」
サスペンドが剣を収めると、舞はその場にへたり込んだ。全身が汗で濡れ、息も絶え絶えだったが、心の中には確かな達成感があった。
「すごいよ舞ちゃん! あんな魔物を相手に、ちゃんと魔法を使いこなせたなんて!」
ラナートの声が背後から響く。いつの間にか彼女も森に来ていたようで、手には羊皮紙とペンを持っていた。
「えっ、来てたんですか⁉︎」
「うん、こっそり見てたよ~。だって、初めての実戦だもん。記録しないとね! ……それにしても、舞踊魔法の適性、予想以上だね。魔力の流れも安定してるし、術式の展開も早い。これは本当に……」
彼女が興奮気味に語る横で、サスペンドは静かに舞に手を差し伸べた。
「立てるか?」
「はい……ありがとうございます」
舞はその手を取って立ち上がる。足元はまだ少しふらついていたが、心はしっかりと前を向いていた。
「疲れたでしょ? 屋敷に戻ろっか! 色々と聞きたいし~」
ラナートの言葉に舞はゆっくりと頷き、三人は森を後にした。




