清白のアドラ
アドラの命は大して重くなかった。
命の価値は集落内での階級の高さに依る。彼女の両親はしがない仕立屋であった。その職業は低俗なものとしてみなされ、一家は「下賤の者」として蔑まれるようになっていた。
両親は違和感を持たなかった。
なぜ仕立屋が賤しいか? もし自分たちが欠けてしまえば集落の民は困るだろう。服の修繕は一筋縄じゃいかない作業だ、例えば支配者階級が身につける礼服は、彼らがいなければ二、三年で擦り切れてみすぼらしくなるだろう。
しかし、そんな思考は欠片も浮かばなかった。
それは「構造」のおかげだった。彼らは空気を吸って生きるように、生まれる以前から続く価値観を享受していた。
国内では長らく凶作が続いていた。原因は春から続く異常気象だ。突発的な竜巻や豪雨、夏の高温と降水不足……麦の穂は不気味なほどにしゃんと立ち、痩せ細った肢体を民たちに晒していた。
集落の長であるガルグは、また別の集落に助けを求めんとしていた。しかし、気象の悪戯を受けたのはどこも同じであり、自分たちの問題を抱えることで精一杯だった。やがて幼子や老人の間に餓死する者が現れ、もはや頭を抱えるしかなくなったとき、かねてより神の言葉を待っていた預言者が口を開いた。それは石造りの祭壇前でのことだった。
「我々は作物の神、ニーラン様の怒りに触れたのです。原因はおそらくガルグ様、あなたです」
「……私が? 私は集落の長として役目を果たしているつもりだ。出鱈目を言うならば火にくべてもいいんだぞ」
「あなたが長として努めているのは確かです。そして私も、預言者としての責を全うしております。原因は先月執り行われた婚姻の儀かと」
「私とセシリーのか。それにしてもおかしな話だ、確かにニーラン様への捧げ物は行ったはずなのに」
すると預言者は、絹製のローブの衣嚢から、一枚の羊皮紙を取り出した。そこには赤字で複数人の名が綴られていた。アドラ・ミークの名もそこにはあった。
「これはなんだ」
「彼がお怒りになったのは、捧げ物の浄化が不十分であったためかと思われます。これは奉納の儀に携わった人々の名を記したものでございます」
本来であれば、捧げ物は一旦司祭に預ける必要がある。司祭は集められた捧げ物に対して浄化を施し、「清白」の印を付けてから提出者へと返却する。その過程を経て奉納の儀は開かれる。
「つまりは、この中に司祭への献呈を怠ったものがいるのか」
「怠ったのか、故意なのか。ご存じの通り、儀式では捧げ物を製作した各々で奉納を行います。実際に奉納した者と、『捧げ物を作った』と報告があった者は違っておりません。捧げ物の中に不純物が紛れたのか、それとも紛れ込ませたのか」
「……話の筋は分かった。ニーラン様はその不届き者を探し出せとおっしゃっているのだな?」
ガルグは強ばった目で羊皮紙をじっと眺めた。そこには婚姻の儀の主役である自身と妻の名もある。もし自分たちが災いの引き金だったら? 額には自然と汗が浮かんでいた。
預言者はそんな様子を察してか、「ガルグ様」と穏やかな声色で制した。
「ニーラン様は寛大なお方です。言い渡された条件は遙かに緩いものでした」
「ど、どんな内容だ」
「『奉納の儀に携わった者から一人、生贄を差し出せ』と」
集落の外れには数軒、除け者にされたように孤立した家があった。ヒエラルキーの最下層、労働者階級の人々の家である。茅葺き屋根はどこも不格好に崩れかけ、真っ白なはずの壁は汚らしく黄ばんでいる。
そんな家々の側で、アドラは土の上に座り込んでいた。朝日に照らされ、彼女のこけた横顔が浮かび上がる。
「……どこへ行くの? うん、そうだね……偉い人のお家の方が、食べ物いっぱいあるもんね」
彼女はじっとネズミ一匹を見つめていた。ネズミもじっと彼女を見つめていた。
これが彼女の日常であった。風変わりな性格のせいでろくに友人はできず、三人の兄妹にも知らん顔されてしまう。だから動物や植物相手に話をすることで、泥濘のような時間を乗り切っていた。
ふと、遠くから甲高い声がかけられる。アドラの母だ。
「アドラ、そんなことしてないで来なさい! みんなに報せがあるんだと!」
「そう……じゃあね、ネズミさん」
彼女は名残惜しそうに立ち上がり、住民たちが集まる小さな広場へ駆けていった。
母たちはどうやら一人の兵士と相対しているようだった。彼は冷ややかな目でアドラたちを見回し、こほんと咳をしてから叫んだ。
「今から名を呼ぶ者は前に出よ。ポンド・スタイン、シルディ・ユント、アドラ・ミーク」
住民たちはざわざわと騒ぎ始める。ポンドは花売りの息子、シルディは掃除屋の娘、アドラは仕立屋の娘。いずれも年端のゆかない少年少女だった。
「……アドラ、行きなさい」
母親はじっと彼女を見つめて言う。彼女は不安げな心を押さえつけるように、「行ってくる」とにこりと笑って歩み出した。
民たちの前に三人は並んだ。ポンドは明らかに怯えており、しきりに兵や両親に向かって視線を揺らしている。シルディはぽかんとしていた。この異質な状況を呑みきれていないようだった。
アドラは一人、しゃんとした姿勢で立っていた。ふと全身に力を込める。そうしなければ、四肢の震えが隠せなくなってしまいそうだった。
兵は声を張り上げた。鼓膜をつんざくような叫びに、思わず耳を塞ぎたくなってしまう。
「先日、預言者が神託を授かった。集落を救うため、この三人の中から一人、ニーラン様へ捧げる生贄を選ぶのだ。光栄に思え、これは集落を救う機会だぞ!」
途端、喧噪の波は凪と化した。皆、目の前で何を言われているのか理解できないようだった。兵はそんな様子を介さずに続ける。
「期限は今日の真夜中だ。迎えの兵に生贄を差し出すこと、いいな!」
「……嘘だ」
ようやく事態を察した者がいた。それはポンドの父親であった。彼は抱えていた鉢植えを地面に落とすと、陶器が割れる音とともに嗚咽をもらした。
「そ、そんな……そんなの今までなかったじゃないか」
兵はどよめき始める民たちに対して息をつき、吐き捨てるように言う。
「これはガルグ様直々の命令だ。逆らえば結末は知れるだろう」
彼はきびすを返して行ってしまった。残された人々の間には重苦しい空気が漂うばかり。ふと、シルディは声を上げた。
「お父さん、具合悪いから……私がいなくなったら掃除する人が」
ぽつりぽつりと弁解するように言葉を紡いでいく。そんな彼女に対し、集落の人々は口々に罵声を投げつけた。
「ふざけんな! 自分だけ助かろうとしやがって!」
「今のこと、迎えが来たときに教えてやろうか!?」
「掃除屋なんて誰でも代われるさ」
だが、呼応するように擁護の声も上がった。シルディは社交性の高い少女で、普段から集落の人々と交流を深めていたのだ。
「シルディみたいな娘が死んでいいわけないだろ!?」
「あんたはポンドを守りたいだけでしょ!」
「花屋こそ誰でもできるもん、ポンドでいいんじゃない」
するとまたポンドの擁護者が現れ、議論は平行線のまま苛烈を極めていく。その様子をアドラはじっと見つめていた。生贄を押しつけられるどころか、みんな話題に上げもしない。まるで存在ごと忘れられているかのように。
アドラの母もそのことに気づいているようで、影を潜めるように背を丸めていた。
普段は静かな場が乱暴な言葉で埋め尽くされ、巻き上がった砂ぼこりでさらに穢れていく。アドラはその様が嫌で嫌で仕方なかった。誰も彼女を気にかけてくれはしない、だけどこの地だけが彼女の居場所だった。
「おい……あいつ、手を挙げてないか」
ふとポンドの父親がつぶやく。
たちまち、行き交っていた視線は束となって前へ向いた。すっと手を挙げ、真っ直ぐに人々を見据える少女。それはアドラだった。
「そういえばいたね、あの子」
「アドラ、だっけ? 全然話さねえからあやふやだけど」
「……アドラでいいかもな」
「ああ。生贄はアドラにしよう。反対する奴、いないよな」
あんなに白熱していた議論はするりと終わり、やがてアドラと母親だけがいつも通りの場に残された。砂ぼこりはやがて落ち着き、元の静寂が戻ってきたことに、アドラは安心を覚えていた。
「……なんであんた、手を挙げたの。あのまま行けば生贄はポンドになってたのに」
「なんで、だろうね」
「シルディもポンドもあんた、全然仲良くなかったでしょ? どうなったっていいはずでしょう!? 意味分かんないのよ、あんたはいつもいつも」
母は顔を真っ赤にしてまくし立てた。そんな彼女の言葉を堰き止めるように、アドラは「でも」とつぶやいた。
「お母さんも、私でいいんでしょう? ポンドのお父さんみたいにしなかったから」
その声色には一切の悪意はこもっていなかった。皮肉も侮蔑もない、単純な思いを並び立てただけの言葉だった。
唖然として立ちすくむ母親を後に、アドラは歩き去っていった。




