スーパームーンの夜に
すがるように見上げた夜空に、いつもよりずっと白く、輪郭のはっきりとした満月が浮かんでいた。
今夜がスーパームーンの昇る日だということを思い出したのは、自宅の最寄り駅へ向かう最終列車を逃した時だった。
閉めるので出て行ってください、と迷惑そうに駅舎から追い出されても、心はちっとも動かなかった。よくあることだ。乗り換えの電車には乗れなかったけれど、この駅にたどり着けただけよしとしよう。そう思うことが当たり前になっていた。
けれど、限りなく黒に近い深い青に染まった真夜中の空を見上げた瞬間、凍てついていた心がむくりと動いた。吸い込まれそうなほど美しく、わずかな歪みも感じない完璧な丸を描いて浮かぶそれに目を奪われた。
これが、スーパームーン。地球と月の距離が、今夜は特に近いのだという。
あまりにもきれいで、ため息が出る。大きな商談を明日に控え、気づけば日付を跨ぐ寸前まで会社に居残ってしまったことなど、簡単に頭の片隅へ追いやられた。
ローヒールのパンプスでも足音の響く真夜中の住宅街を、杏樹はゆっくりと歩き出す。四時間近い残業のおかげで頭はすっかり動かなくなり、明日はいつもより一時間早く出社しなければならないというプレッシャーは疲労を三倍にも四倍にも感じさせた。
けれど、今夜はいい。柔らかく降り注ぐ月明かりが心を浄化してくれるような気がした。
とは言いつつ、家に帰るにはここから一時間近く歩かなければならない。もうひと仕事する感覚だった。
でも、この感じがたまらないんだよな。
心の中で独りごち、杏樹は我知らず笑みをこぼす。
今の仕事が好きだった。学生の頃から営業の仕事に憧れていて、いざ実際に働かせてもらってみると思っていた以上にやりがいを覚え、やみつきになった。
顧客、あるいは顧客になってくれるかもしれない人と話をしている中で、その人が自分の扱う商材、あるいは自分という人間そのものに興味を持ってくれると、その人は必ずキラッと目を輝かせるのだ。そうした瞬間に出会えた時の、なにかを掴むことができた感覚がとにかく刺激的でたまらない。毎晩のように帰宅が遅れようが、学生時代の友人たちが次々と結婚していこうが、そんなことはどうでもよかった。
仕事だ。わたしをわたしでいさせてくれるのは仕事だけ。
見栄を張っているわけではない。家庭に入り、幸せになっていく周りの声をうらやましいとも思わない。この四月から役職が一つ上がった。仕事に打ち込んでいる時間が、杏樹にとってはなによりも幸せだった。
このまま仕事をがんばって、わたしは、わたしらしく生きていく。
一人でいい。彼氏なんて必要ない。
うまくいかない結婚生活を嘆いている友達の話も聞く。ご苦労なことだ。他人に振り回されるくらいなら、今の調子で、自分自身を確実に、より理想の社会人へと育てていけばいい。そうした時間のほうが、誰かと過ごすよりよほど有意義だと思った。
むくみまくっている足を引きずり、杏樹は自宅へと急ぐ。
顔を上げなくても、スーパームーンの光はまぶしかった。心許ない街路灯の明かりよりもずっと強く、頼りになる。
いつもの夜より明るいおかげで、下ばかり向いて歩いていた。だから、ふと前方を確認し、少し先に人影を見つけた時には心底驚き、ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
その人は民家を囲うブロック塀に寄りかかるように立っていた。黒い影は、おそらく黒い服を着ているせいでより黒く見え、丸めた背中と肩が上下に揺れている。
おそるおそる近づくと、その人の息づかいが普通ではないことがわかった。苦しそうに胸を押さえ、今にも膝を折って倒れ込んでしまいそうだ。
酔っぱらっているのだろうか。あるいは純粋な体調不良か。もう少し季節の過ぎた真夏の熱帯夜ならまだしも、今はまだ倒れそうなほど尋常な暑さは感じない。夜風は心地よく頬を撫で、スーツのジャケットを着ていてちょうどいいくらいだ。
どうする。杏樹は思案し、けれどどうしても無視はできず、ありったけの勇気を振り絞り、その人に歩み寄った。
「あの」
丸まった背中にそっと触れながら声をかける。
「大丈夫ですか」
横顔から、男性だと判別できた。一六〇センチを切る杏樹より少し大きいかな、というくらいに小柄な人で、からだの線も細い。全身の肌を覆い尽くす、まるでファンタジーの世界に登場する真っ黒なローブに身を包み、頭はフードですっぽりと覆われていた。
「あぁ……、すみません」
かすれ気味の声を絞り出し、彼はゆっくりと顔を上げた。
「どうぞ、おかまいなく」
その顔を見て、杏樹はまた盛大に驚いた。
どこまでも白い月の光が、彼の瞳の幻想的なエメラルドブルーを映し出す。それは沖縄の海を想起させる、深く透き通った碧。
はっきりとしたふたえの双眸の下には、すぅっと筋の通った鼻に、きゅっとしまった小さな口。目もとにかかるやや長めの前髪は輝かしいシルバーで、ここが日本であることを忘れさせるヨーロッパ系の透明な白い肌。
きれい――。
杏樹は思わず息をのむ。この人と今夜の月、どっちがより美しいだろう。
杏樹と同じ二十代後半、いや、二十歳そこそこと言われてもおかしくない。けれどその魂は今にも消えてしまいそうで、とても放ってはおけなかった。
「おかまいなく、って」
彼の見目麗しさに感動している場合ではない。杏樹は一歩も退かず、彼の隣に寄り添い続けた。
「ダメです。見過ごせません」
「いいえ、無視していただいて結構です。あなたが私にできることなど、なにもありませんから」
耳に心地よいテノールボイスだったが、つっけんどんな言い方はどうにも聞き捨てならなかった。
ないがしろにされたことについムッとしてしまって、杏樹はジッと彼を見下ろす。
「苦しいんですよね? とりあえず、座りましょう。今、救急車を呼びますから」
「無駄です。医者に治せるものではありません」
「はい?」
「とにかく」
彼はからだの向きを変えながら杏樹の手を払い、外壁に背を預けるように立った。
「私のことは放っておいて。あなたのような心優しい人間は、私と交わってはいけない」
はじめて、二つの視線が重なった。
彼の美しい碧い瞳が、今夜の夜空よりもなお深い黒に染まっていくように見えてならなかった。
「イヤです」
杏樹は男の腕を取った。
「ここであなたを見捨てたら、明日の商談、失敗するような気がします」
あいた左手で男の肩を支え、ゆっくりと地べたに座らせる。ぐだ、と前に倒れてきた彼の上体を抱き留めながら、優しく背をさすってやる。
苦しそうな呼吸は相変わらず、けれど自力で顔を上げることはできるようで、男は肩を上下に揺らしながらそっと上体を外壁に預けた。うっすらと開けた目で夜空を仰ぎ、再びまぶたを下ろしながらふぅ、と気持ち長く息を吐き出す。
杏樹は担いでいた黒い合皮のトートバッグからタオルハンカチを取り出し、男の額の汗を拭う。杏樹がそう思いたいだけかもしれないけれど、男の呼吸が少しだけ落ちついたように見えた。
「医者には治せないって、どういう意味ですか」
本当なら、今すぐ救急隊を要請すべき状況としか思えない。けれど彼はそれを無駄だと切り捨てた。まるで自分がもう助からないことを知っているかのような口ぶりは、たとえば末期ガンのように、手術や投薬治療じゃ手に負えないところまで病状が進んでしまっているということなのだろうか。
やがて男は、力なく首を横に振った。
「病ではありません。私は、人間ではないのです」
え、と口を半開きにした杏樹と目を合わせると、彼は哀しげな笑みを浮かべ、言った。
「私は吸血鬼。生き物の血を吸って、生を保っている者です」
斜め上すぎる彼の告白に、杏樹は言葉を失った。
ウソでしょ。
ヴァンパイアって。それ、人間が作り出した架空の存在じゃないの――。
「すみません」
びっくり顔のまま固まっている杏樹を見て、自らを吸血鬼だと称したその男はかすかな笑みをこぼした。
「驚かせてしまいましたね」
「いえ、その……」
「お気になさらず。皆さん、同じ反応をされます。この国では特に」
「日本では?」
「えぇ。アメリカ、と言いましたか。あの巨大な大陸国では比較的受け入れてもらえるのですが、この小さな島国ではどうも」
気持ち長く息を吐き出しながら、彼はあきらめたように肩をすくめる。彼の紡ぐ言葉の一つ一つが真に迫っていて、これがただのコスプレイヤーの遊びではないことは察するに余りある。
そう、きっとこれは夢でも幻でも、彼が杏樹をからかっているわけでもない。
おそらく、おそらく彼は本物の吸血鬼なのだ。まるでファンタジーの世界から飛び出したように美しい銀髪碧眼をしていることも、真っ黒なローブを羽織っているのも、彼の言うことを信じるなら納得できる気がした。こんな真夜中に出歩いているのもきっと、彼が吸血鬼だからなのだろう。確か吸血鬼は、太陽の光を浴びると死んでしまうのだ。
「どうして、日本へ?」
杏樹は素直な疑問を口にする。
「アメリカのほうが理解があって暮らしやすいんでしょう? 戻られないんですか、アメリカへ」
彼の口ぶりでは、もともとアメリカにいたようだった。アメリカが浮世離れした存在を受け入れてもらえる場所なら、戻ったほうがきっと彼のためにもいい。あるいは今のように、苦しみの中で喘ぐこともなくなるかもしれないのだ。なぜ彼が苦しんでいるのか、今はまだわからないけれど。
「おっしゃるとおり」
彼は杏樹の意見を肯定しながら、しかし首を横に振った。
「ですが、今はまだこの地を離れたくないのです。私にとってここは、大切なものの残る場所だから」
大切なもの。消え入りそうな声でつぶやかれたその一言に、杏樹はあたたかいなにかを感じてならなかった。
「今から五十年ほど前でしょうか」
杏樹を説き伏せるためか、あるいは自己満足か、彼はゆっくりと語り始めた。
「アメリカにいた頃、とある女性と出会いました。黒い髪の美しい彼女は日本という島国の出身で、名をマリといいました」
「ちょっと」
スラスラと話を進めていくその話を遮らずにはいられなかった。
「ちょっと待ってください。五十年前って……あなた、今おいくつなんですか」
「さぁ、正確な歳はわかりません。二百年ほど生きていることは間違いないのですが」
「二百年!?」
杏樹は声を裏返す。なにを言っているのこの人、と軽く混乱した。二百年前と言えば日本は江戸時代だ。
「基本的に、ヴァンパイアは生き血さえ吸っていれば命を落とすことはありません」
杏樹の心を読んだのか、年齢不詳のその男は淡々と説明した。
「太陽の光を浴びると砂になるとか、銀の弾丸で胸を撃ち抜けば倒せるとか、そういった特徴を押さえて我々を殺しにかかれば確かに死にます。ですが、人間とは違い、我々には寿命という概念が存在しません。自然と命の火が消えるのは、血を飲むことをやめた時くらいでしょう」
「じゃあ」
あまりにも当たり前のように話すけれど、要するに、彼が今体調を崩しているのは。
「あなたは今、血を飲んでいない?」
杏樹の問いにうなずく代わりに、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
再び語られ始めたのは、彼の哀しい過去だった。
「一ヶ月前、マリが亡くなりました。七十一歳の誕生日を迎えた翌日のことでした。五年ほど前から患っていた病が急に悪化したのです。それから三日と保たず、彼女は」
男は静かに目を伏せる。かすかに揺れた銀色の髪が、彼と、マリという日本人女性との間に存在した生命力の壁を象徴しているようだった。
「誰かを心から愛したのは、彼女がはじめてでした」
ゆっくりと開いた碧い瞳で、男は愛おしそうに夜空を見上げる。
「私がヴァンパイアであると知っても、彼女は驚きませんでした。むしろ彼女は、自らの意思で私に血を分け与えてくれたのです」
「血を」
「えぇ。異種族間の恋は成就しないというのが定石ですが、私は、彼女の傾けてくれた優しい愛情と、自分の中に芽生えた彼女への想いから、目を逸らすことができなかった」
柔らかな夜風が吹き抜ける。耳に心地いいテノールで語られる一つの愛の物語に、杏樹はいつの間にか深く入り込んでいた。
「アメリカの片隅に、ヴァンパイアの暮らす集落があります。そこでは古くから血液の供給ラインが確保されていて、我々は人や獣を襲うことなく生き存えることができました。そんな守られた暮らしを擲ってでも、私はマリとともにいたかった。彼女が祖国へと帰る時、私は逆に故郷を捨て、彼女とともにこの日本へ移り住むことに決めたのです」
マリも喜んでくれました、と彼は嬉しそうに微笑んだ。
「マリは私のすべてを受け入れてくれました。血さえ飲み続ければ不死身の私ですから、人間であるマリにとっては自分だけが老いていくことになります。それでも彼女は、夜にしか活動できない私のライフスタイルに合わせて生涯を送ってくれました。他の誰とも違う、自分だけが体験できる特別な人生を生きられることが幸せなのだと、マリはよく話していました」
他の誰とも違う、特別な人生。
素敵、と杏樹は思わず笑みをこぼす。誰に自慢できるわけでもない、けれど自分自身にとって、誰にも負けないくらいの幸福を手に入れたと思える時間。
まさに、杏樹が望むものだ。誰かと同じじゃない、自分だけの道。自分の意思で選んだ人生。
今は亡きマリという女性は、この吸血鬼と出会えたおかげで、誰とも比べられない最高の命の輝きをもってその生涯を全うした。うらやましい。杏樹は素直にそう感じた。
彼女もきっと、今杏樹の目の前にいる彼のことを心から愛していたのだろう。
「マリとの生活は」
長く話したせいか、男の吐き出す息がどんどん苦しそうになっていく。
「とても幸せでした。彼女の隣にいられること、ただそれだけで十分だった。ですが、彼女との永遠は叶わなかった。当然です。彼女は人間なのだから」
どこまでも生きていける者と、いつか必ず死を迎える者。別れの時を避けることのできない二人の運命は交差し、再び別の道を行き始めた。
一人は、天の国へ。もう一人は、地上に。
残された者の魂は、愛する人の面影を今でも追い続けている。
あるいはいよいよ、それを追って地上を離れようとしているのかもしれない。
「すみません。少し、しゃべりすぎました」
コホ、と男は軽く咳き込む。血の気の引いた青白い顔は、彼の命の灯火が消えようとしていることをありありと物語っていた。
杏樹は男の背をさする。「大丈夫ですか」と声をかけても、男はうなずきすらしなかった。
「しっかりしてください。こんな道端で死ぬなんてダメ」
「なぜです。朝までここにいれば、私は灰になって消える。マリのもとへ行けるのです」
「だから、それがダメだと言ってるんです!」
我知らず、声のボリュームが上がる。杏樹が男のローブをきゅっと握ると、彼は少し驚いた顔をして口を閉ざした。
死なせてあげることが優しさなのかな、とも思った。ここではない、死者の集う地で、大切な人と再会する。それが彼の望みならば、それを叶えてやるほうがいいのかもしれない。
でも、できなかった。目の前で命が失われていくところを見たくなかった。
それ以上に、彼に死んでほしくない理由があった。
「血を飲めば、助かるんですよね」
杏樹は羽織っていたベージュのジャケットを脱ぐ。
「どのくらい必要なんですか」
ジャケットの下に着ていた白いブラウスの袖をまくりながら尋ねると、男は胡乱な目をして杏樹を見た。
「なにをしているのです」
「質問に質問で返さないでください」
両袖を肘のあたりまで短くまくった杏樹がにらむように見つめ返すと、彼は小さく息をつき、ようやく杏樹の質問に答えた。
「コップ一杯程度の量を、週に一度摂取すれば十分です。摂取期間があいてしまうとからだに不調が現れます」
「へぇ。人間で言うところの薬のような感じなんですね」
彼ら吸血鬼の生のからくりはわかった。コップ一杯分の血液というと、献血に行った時に抜かれる量とほぼ同じだ。
そうとわかると、怖くないなと思った。だからマリという女性も、長い間この吸血鬼に自らの血を分け与え続けることができたのだろう。
杏樹は地面に直置きしているトートバッグの中から愛用しているタオルハンカチを取り出し、男の額ににじむ汗をそっと拭った。
「どうして一ヵ月もの間、血を飲まれなかったんですか」
定期的に血液を摂取していれば永遠の生が保証されるのなら、ひとまずなんらかの方法で血を飲むことが最優先されそうなものだ。
けれど、彼はそうしなかった。なぜか、という杏樹の疑問に対する答えは明白だった。
「私に人間を襲えと言うのですか」
「人間の血でなくちゃダメなの?」
「そういうわけではありませんが、獣の血なんて臭くてとても飲めたものではないのですよ」
なるほど、なんとなくわかる。生臭さの残るヘタくそな肉料理を想像すると、彼が血の味を選ぼうとする気持ちはよく理解できた。
「もう、いいのです」
やがて彼は頭を塀に預け、潤んだ瞳で夜空を見上げた。
「朝までここにいれば、太陽の光が私を砂に変えてくれる。私もマリと同じように、死ぬことができます」
彼の双眸が大きく揺れる。碧眼に浮かんだ涙で、月の光が乱反射する。
ごめん、と天国に向かって謝っているような目を彼はしていた。それはまるで、この場所で息絶えることが彼の望みではないかのよう。
そうだ。この人は最初からこうしてここに座り込んでいたわけではなかった。むしろ、どこかへ向かって必死に歩いているようだった。
だとしたら、やっぱりこのまま黙って見過ごすわけにはいかない。
彼はきっと、この先も強く生きていける人だから。
「ダメです」
キッと鋭く彼をにらみ、杏樹ははっきりと言って聞かせた。
「死ぬなんて許しません」
「なぜです」
「だってあなた、死にたいなんて全然思ってないじゃないですか」
彼の表情が明らかに変わった。図星を突かれたときのような顔だった。
「そうですよね」
揺れる碧に、杏樹は小さな子どもを叱るような口調で言う。
「本当に死にたいと思っているなら、マリさんが亡くなってすぐに後を追ったはずです。あなたたち吸血鬼は太陽の光に当たれば死ぬんでしょ? わたしたち人間が自殺するよりずいぶん簡単じゃないですか。でもあなたは、一ヶ月も苦しみの中で生き続けている。愛した人を失って、飲まなきゃならない血が飲めなくて、すごく、すごくつらいはずなのに」
とんちんかんなことは言っていないと思う。実際、彼の表情は杏樹の言葉を否定するようなものには見えない。
「なにか理由があるんでしょう? 血の供給が確保されているアメリカにも戻らず、朝を待って消える道も選ばなかった理由が」
彼は言った。この日本という国は、彼にとって大切なものの残る場所だと。
彼にはまだ、ここでやらなければならないことがあるのだ。かといって、かつて人間という種族を愛した彼にとって、人間を襲ってまで生きることはためらわれた。彼なりのルールみたいなものがあるのかもしれない。血を分けてもらうための、彼が自らに課した条件が。
杏樹は精いっぱい微笑み、彼に告げた。
「わたしの血、飲んでいいですから」
見開かれた碧眼をまっすぐに見て、杏樹は真剣な眼差しを彼に注ぐ。
「生きましょう。死のうとしないで。生きてさえいれば、きっとまた素敵な出会いが待っているはずです」
彼とはもう、見ず知らずの関係ではなくなった。これもまた、新たな出会いの一つと言っていい。
まだ彼のことはほとんど知らないけれど、愛する人をどこまでも想い続ける一途なところがあることはわかった。純粋な心の持ち主であるようだ。
週に一度、彼に血を分け与えること。久しぶりに、仕事以外にやりがいのありそうなものに出会えた気がした。平日の反動で休日はベッドの上でゴロ寝がスタンダードな日常だったけれど、もしかしたらこれからは、彼のために時間を割くようになるかもしれない。
わくわくした。彼が人間ではないという非日常が目の前にある。仕事だけが人生だと思っていたけれど、たまにはこうした、仕事とは無縁の世界に浸ることも悪くないのではないか。そう感じられることが嬉しかった。
口を半開きにした彼は、驚きに満ちた顔でを杏樹をじっと見つめている。その表情からはなにを考えているかあまり読み取れないけれど、しばらくすると、彼はふわりと微笑んだ。
「あなたも同じことを言うのですね」
「え?」
「マリが死に際に言ったのです。『わたしは永遠に生きることはできないけれど、あなたは生きて。生きていれば、わたしよりもずっと素敵な人と出会えるはずだから』と」
今度は杏樹が驚く番だった。少し目を大きくすると、男は笑みをより深くした。
「マリの言うことは本当だった。私は今、あなたという素敵な人間と出会えたのですから」
彼の瞳が美しく輝く。それは月の光を映しているのではなく、彼自身の中からあふれ出る希望の光。
愛する人の遺した言葉を大切にしたい。それが、彼が苦しい中で必死に生きようとしていた理由。
杏樹はホッとした気持ちになった。自分が素敵な人間であるとは思わないけれど、ひとまず彼は今ここで死ぬことをあきらめてくれそうだ。
「よかった。これで今夜はよく眠れそうです」
「申し訳ありません。私のせいで、お帰りが遅くなってしまいますね」
「大丈夫です。ここであなたに死なれるほうがずっとつらいですから」
杏樹が微笑みかけると、彼も微笑み返してくれた。あまりにも美しい人とは目が合うだけで緊張してしまうけれど、なぜか彼とは自然な気持ちでまっすぐ視線を重ねられた。
「お名前は?」
彼に問われ、杏樹は答える。
「蓮井です。蓮井杏樹」
「アンジュ。きれいな名だ」
「ありがとうございます。あなたは?」
「レオナルド。レオ、と呼んでいただければ」
レオ、と杏樹はかみしめるように口にする。線の細い外見とは裏腹に、名前は男らしくてカッコいい。
レオはふと夜空を見上げ、すぅっと目を細くした。
「まぶしいですね、今夜の月は」
杏樹もつられるように空を見る。気がつけば、さっきよりも月が高く上っていた。
「そうですね。あの月は『スーパームーン』と言って、普段よりも三十パーセント明るいらしいですよ」
「スーパームーン」
「えぇ。何年かに一度、月と地球の距離がぐっと近くなるタイミングが巡ってくるそうです」
「それが、今夜」
杏樹がうなずくと、レオの視線が杏樹へと戻ってきた。
「数年後、またあなたと一緒に見たいです。この美しい月が昇る夜空を、もう一度」
沖縄の海のようなエメラルドグリーンが、杏樹の心をぎゅっと掴んで離さなかった。
彼が生きることに対して前向きになってくれたこと、そして、杏樹の存在を受け入れてくれたこと。短く紡がれた彼の言葉の全部が嬉しくて、杏樹は照れたように笑い、言った。
「じゃあ、がんばって生きないとですね」
「大丈夫。私はあなたより長生きできる自信があります」
そりゃあそうだ。杏樹が笑うと、レオも今日はじめて屈託のない笑みを浮かべた。これが彼の、本当に笑った顔。
きれいだと思った。どう言葉にすればいいのかわからないけれど、この笑顔を見ていると心があたたまるような気がした。
もっと見ていたい。彼の美しい微笑みを、ずっと。
杏樹は居住まいを正し、いよいよ本気で覚悟を決めた。
「わたしはどうすればいいですか? 健康診断の採血みたいな感じ?」
「いいえ、腕からの摂取ではありません」
レオは少し苦しそうに顔を歪めながら、もたれていた壁から背を離し、杏樹にそっとからだを寄せた。
「首筋に注射をされるイメージでいてください。最初だけ、少し痛みを感じると思います」
「首かぁ」
「怖いですか」
「うーん、ノーと言えば嘘になるかも。首の血管って太いし」
そうでしょうね、とレオは言うと、杏樹の背に細い両腕をそっと回した。
「大丈夫」
レオの優しいテノールが、耳に心地よく響く。きゅっと静かに抱き寄せられると、シャンプーの残り香のようないいにおいが鼻に届いた。
「我々ヴァンパイアは、人間の敵ではありません。あなたを傷つけたくて、私はこんなことをしているわけではない」
あたたかい。誰かに抱きしめられたのはいつぶりだろう。
杏樹は小さくうなずいて返す。彼に悪意がないことはわかっている。首から血を抜かれるなんてはじめてのことだから、少し緊張しているだけだ。
レオが腕を緩めてくれる。まっすぐに目が合うと、レオは杏樹の心を気づかった。
「少しは落ちつきましたか」
「はい。ありがとうございます」
レオは満足そうにうなずく。次の瞬間、エメラルドブルーだった彼の瞳が燃えるような赤に変わった。
いよいよ、その時が来るようだ。杏樹は我知らず息をのむ。
「申し訳ない。怖がらせてしまいましたね」
レオの動く唇の隙間から、二本の牙が見えていた。彼の指摘どおり、杏樹は少なからず恐怖の感情をいだいていた。
「平気。ちょっとびっくりしてるだけ」
「強がることはありません。声が震えています」
「うるさいっ。怖くないってば」
「素直に認めてはいかがですか。顔も強張っていますし」
「余計なお世話っ」
怖いかどうかよりも、こんな状況ですったもんだしていることのほうがよほど問題だと思う。レオがやれやれといった風に息をつく姿もなんとなく腹立たしい。
ムッとした杏樹を見て、レオは朗らかに笑った。その笑みを見ていたら、心がすぅっと落ちついた。
レオが静かにフードを取り去り、美しい銀髪が月明かりにきらめく。左腕を杏樹の首にそっと回し、支えるように頭に手を触れながらささやいた。
「目を瞑って、楽にして」
言われるまま、杏樹はゆっくりと目を閉じる。
「すぐに終わります」
肌になじむぬくもりを伴って、レオは杏樹の首筋に唇を寄せた。
穏やかな波にさらわれ、心地よい温度の海の底へと沈んでいくような感覚。
怖くはない。すぐ隣に、優しくて大きな熱がある。
二人の上には、いつもよりずっと美しい月が浮かんでいる。未来が明るいことを証明してくれているかのようで、そう思えるから、安心して息ができた。
どれくらいの時が経っただろう。
レオの口が、杏樹の首もとから静かに離れる。彼は杏樹が手にしていたタオルハンカチをすくい上げ、噛みついた杏樹の首筋に押し当てた。
レオが微笑みかけてくれる。顔色がずいぶん良くなっていて、杏樹は胸をなで下ろした。
二人で過ごす不思議な夜のひとときは、これからもずっと続いていく。
杏樹の命が続く限り。レオが生きたいと望む限り。
二人そろって、夜空を見上げる。
まぶしいほどに白く輝く美しい月が、二人の出会いを祝福してくれているようだった。
【スーパームーンの夜に/了】